SUMMER VACATION〈9〉




冬香は自室へ直行し、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。
ワンコの体毛が髪や服につき、毛だらけになってしまったからだ。
それから次兄の私室へ行く。

ドアを開けると、夏輝がベッドに座り、携帯電話で話をしていた。
日本語ではなく、英語でもない。どこの国の言語なのか、わからない。
だが、ひどく厳しい口調だ。それは理解できる。

間もなく電話を終えた彼は、即座に弟を軽く睨みつけた。

「こら、だめじゃないか。熱があるのに風呂なんか入って」

「風呂じゃねえよ。シャワー浴びただけさ」

「どっちでも同じだ。ちゃんと髪を乾かして、冷えないようにするんだぞ?」

「うん。それよか、なんかあったわけ? おっかねえ顔で電話してたけど」

途端に夏輝が大きな溜め息をつく。

「すぐマドリードに行かなければならなくなったよ」

「え、ゆうべ帰って来たばっかなのに? なんで?」

「部下のミスでトラブルが起きたんだ。かなり厄介だから、電話で指示するだけじゃ片付きそうになくてな」

「うわぁ、大変だぁ」

「まったくだ。せっかく2週間おまえと一緒に過ごせると思ったのに、俺の楽しみを奪いやがって。
絶対に許さないぞ、あの野郎。たっぷり減給してやる」

(オイオイ……)

そのあと急いで飛行機の手配をし、続けて荷物をまとめた夏輝は、

「いいか? 熱が下がるまで外に出るなよ? 部屋でおとなしくしてるんだぞ? わかったな?」

と言いながら弟にハグとキスをし、名残惜しそうに出掛けて行った。

そろそろ日が暮れようとしていた。




冬香は自室のベッドに横たわり、額に手を当てた。
確かに熱いように感じる。最初に兄に指摘されたときはわからなかったが。

今夜は早めに休もう。念のためだ。

(―――あ、ナッちゃんがいねえなら、ひとりで寝なきゃなんねえのか……)

大丈夫だろうか? ちゃんと眠れるだろうか?

昔、夢を見てうなされる日が続いたことは、兄たちしか知らない。
といっても自ら彼らに話したわけではなく、初めのうちは隠していたのだが、
部屋が隣接しているため唸り声が聞こえ、ばれてしまったという次第だ。
だから今回、実家に滞在するあいだは次兄のベッドに潜り込むつもりだった。
再び夢にうなされるようになったことを率先して告げる気はなかったけれど、
もし勘付かれて問われたら正直に白状しようと思っていた。

すぐ次兄が帰って来てくれれば問題はない。1日や2日くらいなら、なんとか我慢できる。
でも、長く留守にするようなら―――

枕元の電話が鳴り出したので、冬香は思考を中断し、起き上がって受話器を取った。

「おう。誰だぁ?」

『高木です。お加減はいかがですか?』

「うん、大丈夫。熱っぽいだけだから」

『それはようございました。ですが、油断なさってはいけませんよ。ご夕食はお部屋にお持ちいたしますね』

「あー……まだいいや。あんまハラ減ってねえんだ。喰いたくなったら、こっちから連絡するよ」

『承知いたしました。では、ごゆっくりお休みください』

「うん。じゃあな」

電話を切ってから、ふと思う。適当な理由を言って、タカじいに一緒に寝てもらおうか……と。

(いやいやいや、ダメだって。なに考えてんだ、オレ……)

高木はこの家に住んでいる。朝早くから夜遅くまで働き、早乙女邸の一切を取り仕切っている。
彼がいなければ、家の中がめちゃくちゃになってしまうといっても過言ではないくらいだ。
そんな彼に、余計な負担はかけられない。かけたくない。

(……もしナッちゃんが中々帰って来れねえようなら、いったんマンションに戻るか。それが一番いいよな……)

ひとりでゆったり過ごしているであろう京介には、大変申し訳ないけれど。

(―――あ、れ……? なんだろ、これ……?)

なんだか気持ちが弾む。わくわくしている。
ひょっとして、京介に会えると考えたら、嬉しくなったのだろうか?

うわ〜……と呟き、冬香は再び寝転がって枕に顔をうずめた。


 *    *    *    *    *    *    *


大きな手が伸びてくる。
その長くて綺麗な指が触れてくる。額に、頬に、そして唇に。まるで撫でるように、そっと。

くすぐったくて身をよじると、たくましい腕が絡みついてきた。
打って変わって、今度は力強い。ぎゅうっと抱き締められる。

苦しい……と思ったら、「すまない」と耳元で美声が囁いた。

気がつけば、互いに全裸だ。だから肌と肌が密着している。
その感触が心地好い。うっとりと酔いしれてしまうほど。

キスが降ってきた。ついばむだけの、軽いキス。
それを何度か繰り返したあと、ほんの少しだけ強く押し当てられる。

やがて、次第に激しくなった。
半ば強引に舌が入り込んできて、舌に絡み、きつく執拗に吸う。

唇の隙間から漏れるのは、切なそうな声だ。
自分の声だと、すぐにはわからなかった。

いつしか自然に、腰が揺れ出す。
熱い。たまらない。なんとかしてほしい。

「わかってる」と美声が応え、その手が下のほうへ移動した。
続けられる口づけと、新たに始まった愛撫は、味わったことのない快感。

絶頂の瞬間を迎えるまで、長い時間は必要なかった。


 *    *    *    *    *    *    *


「―――……!」

目を開けた。
なのに、なにも見えない。暗い。真っ暗だ。
おまけに静かで、物音ひとつ聞こえてこない。

(えっと……オレ、どうしたんだっけ……?)

少々混乱しながらも、記憶をたどってみる。
自分の部屋にいたはずだ。
兄を見送ったあとベッドに横になって、額を触ったら熱くて、それから、場合によっては一度マンションに戻ろうと考えて。

(あー、そっか、あのまんま眠っちまったんだな……)

どうやら寝汗をかいたようだ。肌がべたべたして気持ち悪い。

何時なんだろうと思いながら片腕を伸ばし、手探りで枕元の灯りをつける。
そのとき、気付いた。あろうことか、股間が濡れている。冷たい。

「げっ……!」

さすがに慌てた。なんということだ。この年になって寝小便とは。

―――いや、違う。そうではない。これは……

瞬間、脳裏に淫らな光景がよみがえってくる。

裸だった。ひとりではなかった。もうひとりいた。
そうだ。京介だ。
彼が触れてきて、抱き締めて、キスして、舌を絡めて、そして……

「〜〜〜〜〜っ!!」

たまらず叫ぶ。が、声にならない。

(なななななにっ!? なに、あれっ!? ゆ、夢っ!? 夢だよなっ!?)

当然だ。夢に決まっている。現実であるわけがない。
いつもの内容ではなかった。それは助かる。
けれど、よりによって京介とあんなことをするなんて信じられない。とんでもない。
しかも、その揚げ句に夢精してしまうとは、もう最低だ。

性欲はあまりないはずだった。
人並みに自慰は覚えたけれど、数ヶ月に一度やれば充分という程度で、我ながら淡白だと思っていた。
昔つるんでいた連中がセックス目的でナンパするときも、こぞって強姦や輪姦に興じるときも、加わったことはない。
まるで興味がなかった上、いやがる女を犯して一体なにが楽しいのか、まったく理解できなかった。

でも、京介に対しては違うのだろうか?
裸で抱き合いたいとか、濃厚なキスをしたいとか、触ってほしいとか、思ったことなど全然ないけれど、
ただ自覚していないだけで、心の奥底には願望があるのだろうか?
だから、あんな夢を見てしまったのだろうか?

(……わかんねえ……わかんねえよ……サッパリわかんねえ……)

冬香は目を閉じ、深い息を吐いた。最悪の気分だった。

いや、落ち込んでいる場合ではない。とりあえず着替えなければ。

のろのろと起き上がる。
しかし、妙に身体が重い。めまいも感じる。熱が上がってしまったのかもしれない。
くそぅ……と呟きつつ、なんとかベッドから下り、部屋着を脱いでパジャマを着た。
できればシャワーを浴びたかったが、ふらふらして立っていられないため、仕方なく諦めた。

トランクスは丸めて捨てた。
いくらなんでも、精液で汚れた下着を洗濯物として使用人に渡すわけにはいかない。さすがに気が引ける。

またベッドに転がった。
だるい。一段と身体が重くなったような感じがする。

しばらくして、ドアが静かに、ほんの少しだけ開いた。
高木だった。

「お目覚めでしたか。勝手に開けてしまって申し訳ございません」

「ううん……」

もし眠っているのなら起こすまいと考え、彼はノックも声をかけることもしなかったのだ。わかっている。

(そういや、オレ、晩メシ頼まなかったっけ……)

だから心配して、様子を見に来たのだろう。

「失礼いたします」

今度は少し大きく開扉し、ワゴンを押しながら室内に入って来た高木は、
ベッドのそばで立ち止まると、冬香に布団を掛け直しながら尋ねた。

「ご気分はいかがですか?」

「あんま、良くねえな……」

「お熱を測りましょう」

耳式体温計を取り出し、手早く検温する。
その数値を見た途端、彼の表情がわずかに曇った。

「高いですね。38度を超えています」

「え、そんなにか……」

道理で身体が重いわけだ。

「お食事と解熱剤をお持ちしました。消化のいいものを作らせましたので、少しでも召し上がってください」

「うん……」

起き上がるのが辛いので、食べさせてもらう。
だが、スプーン3杯分ほどしか口にできなかった。まるで食欲がなく、咬むのも飲み込むのもしんどかった。

「ごめんな、せっかく用意してくれたのに……」

「いいえ、どうぞお気になさらずに」

次いで高木は冬香に薬を飲ませ、持参していた冷却シートを額に張った。

「では、ごゆっくりお休みください」

「うん……」

「灯りはどうしましょう? このままでよろしいですか?」

「や、消してくれ……なんか、目に刺さる……」

「はい」

枕元の照明の電源を切り、

「またあとで伺いますが、なにかございましたらいつでもお呼びください」

と言い残して、高木は出て行った。