SUMMER VACATION <10>
そっと冬香は瞼を伏せた。
頭がぼんやりする。朦朧としている。
冷却シートの冷たさが遠くに感じられて、さほど心地好いとは思えない。
いつしか、浅い眠りの中へ入っていった。だが、すぐに目が覚めた。
それを何度も繰り返す。
自分が眠っているのか覚醒しているのか、わからなくなる。
だるい。
熱い。
苦しい。
辛い。
「……きょ……すけ……」
無意識のうちに呟いた。
京介、京介、京介、京介、京介、京介、京介、京介、京介、京介―――
会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい―――
気が付くと、サイドテーブルに手を伸ばしていた。
昼間、部屋着に着替えたとき、そこに携帯電話を置いたはずだった。
おぼつかない手つきで電話を取り、ぼやけた視界でボタンを確かめ、チカラの入らない指で押す。
『もしもし』
2度目のコールで返答があった。
よく聞こえない。声が遠い。でも、あの美声だということは充分わかる。
なんだか懐かしい感じがする。別れてから、まだ1日すら経っていないのに。
「きょ……」
名前を呼ぼうとしたが、まともに呼べなかった。
口を開いた途端に身体が震え出し、同時に涙がこぼれたからだ。嗚咽も一緒に。
なぜ? どうしてこんな?
しゃくり上げながら、懸命に考える。でも、答えは見つからない。
すると、美声が訊いてきた。
『兄貴はどうした』
「……し、ごと……」
『そばに誰もいないのか』
「……う……ん……」
『そこの場所を教えろ』
「え……」
『これから迎えに行く。こんな夜中にひとりで泣かなければならないようなところに、おまえを置いておけない』
「―――……」
京介に会える。じきに会える。迎えに来てくれる。嬉しい―――
身体の震えが一段と大きくなった。更にぽろぽろと涙がこぼれた。
ああ、そうか。嬉しいから震えるのだ。嬉しいから泣くのだ。
答えが見つかった。
『冬香、住所だ。言えるか』
「……う、ん……」
嗚咽を飲み込み、どうにかこうにか番地まで告げる。
『わかった。1時間半後くらいに着く。その頃、玄関にいろ』
そして通話が切れた。
電話機を握り締め、きゅっと目をつむる。
兄の言った通りかもしれない。自分は恋をしているのかもしれない。そういう意味で京介のことが好きなのかもしれない。
きっと、そう。たぶん、そう。
そうでなければ、ほんの少し離れただけで寂しくなるわけがないのではないだろうか。
ただ声を聞いただけで、ただ会えるというだけで、泣くほど嬉しくなるわけがないのではないだろうか。
ひとり占めしたいのも、ずっと一緒にいたいのも、そばにいると安心するのも、近付いて来た女に腹が立ったのも、
理由はひとつ。好きだから。
つまり、そういうことなのだろう。
こんな気持ち、京介にしてみれば迷惑なだけだ。男に惚れられたって困るだけだ。
嫌悪を感じさせてしまうことだって考えられる。
でも、止まらない。抑えられない。
恋しくて恋しくて恋しくて、どうにかなってしまいそうだ―――
汗が噴き出した。呼吸が荒くなった。見えるものすべてが歪んでいた。
手足が思い通りに動かない。中々前へ進めない。もどかしくて仕方ない。
それでも冬香は必死に歩いている。
ただ待つなんてできなかった。じっとしていられなかった。
外に出れば、それだけ早く京介に会える。だから、そうしようと決めた。
壁に手をつきながら、廊下を移動する。
身体を支えていないと、倒れそうになってしまう。
玄関に辿り着くまで、どれくらいの時間を要したのか。ずいぶん長くかかったような気がする。
もう京介が近くまで来ているかもしれない。
靴を履くのも忘れ、ようやく外に出ると、生暖かい空気が漂っていた。
滝のように流れる汗が、すっかりパジャマを濡らしてしまっている。だが、気にする余裕などない。
門を目指し、ひたすら足を一歩一歩動かす。
庭の広さが恨めしい。はるか彼方に門が見える。
つかまるものがないため、何度か倒れ込んでしまった。
そのたびに、歯を喰い縛って立ち上がる。パジャマは汚れる一方だ。
ようやく庭を抜けて門に着いたとき、いったん立ち止まって何度も深く呼吸した。
もう限界かもしれない。気が遠くなっていく。
でも、目の前の坂道を下りれば、突き当たりに車道があって、そこに京介が現われるはずだ。
もうすぐ、もうすぐ彼に会える。だから、がんばれる。
門をくぐり、長く続く塀に手をついて、また歩き出した。
小石かなにかが刺さるのか、足の裏に痛みを覚える。でも、どうでもいい。なんでも構わない。
ただ地面を踏み締め、前に進むだけだ。
(きょおすけ……きょおすけ……きょおすけ……)
その呼び掛けに呼応するように、足音が聞こえてきた。
目を凝らして前方を見るが、視界がかすんで、よく見えない。
しかし、背の高いシルエットだということは辛うじてわかる。柔らかく揺れているのは長い髪か。
急に足音が早くなった。長身の影がこちらに駆け寄って来る。
「冬香」
名前を呼ばれ、確信した。京介だ。間違いない。
瞬間、安堵を覚えると同時に一気に脱力し、その場に崩れ落ちそうになったところを、しっかりと抱き留められた。
たまらず、しがみつく。余力なんてないはずなのに、意外にチカラが出た。
これだ。これがほしかったのだ。この温もりと匂いが、どうしようもなく。
「なにをやってる。玄関にいろと言ったのに」
「……ごめ、ん……」
「いや、いい。喋るな」
京介は冬香を抱え上げた。まるで赤ん坊を抱くように、背中と尻の下に腕を回して。
そのとき、数メートル離れたところに誰かが立っていることに気付く。
高木だ。
冬香が部屋にいなかったので、探しに来たのだろう。
彼は深々と頭を下げた。冬香さまのことをお願いいたします―――そう告げるかのように。
だから京介は会釈した。任せてください―――そう応えるように。
次いで背を向け、歩き出す。大股で車道へ向かう。
幸い、すぐタクシーを拾えた。
後部座席に乗り込み、運転手に行き先を伝えてから、膝の上に寝かせた冬香のパジャマの上着を脱がせる。
すごい汗だ。持っていたハンカチで拭くだけでは事足りない。
すると運転手が、良かったらどうぞと、大きめのタオルを差し出した。
酔っ払って吐く客が時々いるから常備しているのだと、苦笑いを見せた。
礼を言ってタオルを借り、汗を拭き取る。
そして自分のコットン・シャツを脱ぎ、それで冬香の身体を包み込んだ。
熱がある。かなり高い。息をするのも苦しげで、意識もはっきりしていないようだ。
実家に帰らせるべきではなかった。
発熱しているのではないかと疑問に思ったとき、引き留めて熱をきちんと測り、あのまま休ませるべきだった。
そうすれば、こんなにひどくならずに済んだかもしれない。
電話をかけてきたときは、まともに喋れないほど泣いていた。
恐らく例の夢を見てしまい、泣きながら目を覚ましたのだろう。
もし状況が変わって夜ひとりで寝なければならなくなったらマンションに戻って来い、と言っておくべきだった。
そうすれば、あんなふうに泣かせることはなかったのに―――
冬香が震え出した。
「寒いのか」
返事はない。
閉じた睫毛の下から涙が流れ、目尻のほうへ落ちていく。
そして唇が弱々しく動き、なにか言ったが、聞き取れない。
京介は耳を寄せた。
「……き……」
「え?」
「……好き……きょおすけ、好き……」
「―――」
「……好き……好き……大好き……」
小刻みに震えながら、何度も呟く。
「……ご、めん……」
次いで謝罪だ。しかし、段々呂律が怪しくなっていった。
「……おと……どう……なの、に……きに、な……ご、め……」
男同士なのに、好きになってごめん―――
「……オ、レな……が……す、きに、な……ご……め……」
オレなんかが好きになって、ごめん―――
なんとか声を聞き取り、その言葉の意味を理解した途端、京介が目を見張る。
さすがに驚いた。とても驚いた。
冬香が自分を慕ってくれていることはわかっていたが、それは親や兄弟に対するようなものだと捉えていた。
まさか、そういう類の感情だとは思わなかった。まったく気付かなかった。
別荘にいたときに様子がおかしかったのは、あの兄妹のせいばかりでなく、
自身の気持ちについて思い悩んでいたからでもあるのだろうか?
誰にも言えず、ひとりで苦悩していたのだろうか?
正直、嬉しい。困惑より、喜びのほうが大きい。
どのような類のものであれ、大切な存在から好意を寄せられて、嬉しくないわけがない。
まして、熱にうかされ、苦しそうにしながらも告白されたら、余計に。
けれど……
依然「好き」と「ごめん」を繰り返す冬香の唇を、京介は指先でそっと押さえた。
もうそれ以上、言わせたくなかった。
この子のためなら、なんでもする。どんな望みも叶える。
だが、その想いを受け入れることだけは、できない。
どうしても、できない―――
<了>