SUMMER VACATION <8>
目をまん丸にし、そのまま固まってしまった冬香だったが、次の瞬間にはプッと吹き出し、声を上げて笑った。
「あ〜も〜、ビックリしたあ。な〜に言ってんだよ、ナッちゃん。違う違う。そんなんじゃねえって」
「そうか?」
「うん、恋なんかしてねえもん。―――あ、もしかして心配かけちまった?」
「気掛かりではあったよ」
「ごめん」
ぺこっと冬香が頭を下げると、夏輝は苦笑した。
「謝らなくていい。たとえおまえが平穏無事に過ごしてたとしても、俺たちは気になって仕方ないんだから。
もう癖みたいなものだ。一生直らないだろうな」
「あは……」
「もう少し様子を窺って元に戻らなければ、直接おまえに訊こうと思ってたよ。
言いたくないのなら、もちろん無理に答えなくていいが」
「あー……なんか事件が起こったとか、そういうわけじゃねえんだ。
ただ、サッパリわかんねえことがあって、持て余しちまってるだけ」
「わからないこと?」
「うん。アイツに対する自分の気持ちが、全然わかんねえ」
心持ち俯き、冬香は言葉をつないだ。
「ハンパじゃなくモテるヤツなんで、初めはオレ、さっさと恋人作りゃあいいのにって思ってたんだよ。
そのほうがアイツの支えとか励みになるはずだから。
けど、段々そうじゃなくなってきてさ。いつの間にか、ひとり占めしてえって思うようになっちまったんだ」
アイツって、きょおすけのことなんだけどな―――と続けて言おうとしたが、言えなかった。
夏輝が口を挟んだからである。
「なにが“恋なんかしてねえもん”だ。やっぱり、そういうことなんじゃないか」
「え、や、だから違うって」
「ひとり占めしたいんだろう?」
「あ、うん」
「その子に触れたいと思うか?」
「そりゃあもう」
だって、京介にくっついて匂いを嗅いだり体温を感じたりすると、
めちゃくちゃ落ち着くし、ものすごい安心感を得られるから。
「キスは? してみたい?」
「えっ……」
それは、どうだろう?
寝起きに兄と間違えてキスしてしまったことは何度かあるけれど。
「えっと……したくねえこたぁねえ、かな……?
でも、こりゃ、兄ちゃんたちにちゅーすんのと同じようなもんで……」
「だったら訊くが、俺たちがほかの誰かとキスしたら、おまえはどう思う?」
「どうって、別に、なんとも……」
「じゃあ、その子が誰かとキスしたり、それ以上の行為に及んだら?」
「ヤダ。絶対ヤダ。ほかのヤツにやらせるくらいならオレがやる。―――えっ?」
思わず目を剥いた。自分の発言に驚いたのだ。
(あ……あれぇ……? なに言ってんの、オレ……?)
「ほら、俺たちと同じじゃないだろうが。おまえはその子に惚れてるんだよ。恋をしてるんだ」
「―――違う、違うってば」
ぶんぶんと冬香は首を横に振った。
「なんでオレがアイツにホレんの? あり得ねえよ、そんなの絶対。ホレる理由がねえもん。
そりゃあアイツのこたぁ好きだけど、大好きだけど、でも恋なんかじゃねえって」
ふっと夏輝が笑う。
そして片腕を伸ばし、弟の髪をくしゃくしゃ撫でた。
「あのな、冬香。なぜなのかはわからないが惚れてしまった、というのが恋だと思うぞ?
理屈じゃなくて、感情の産物なんだから。
むしろ、理路整然と説明できるほうがおかしいと思う」
「―――……」
「俺だって、なぜ彼女に惚れたのかと理由を訊かれたら、返答に困るよ」
「えっ? ナッちゃん、恋人いんの?」
「ああ。大学のときから付き合ってるから、もう15年以上になるか。
お互い仕事が忙しくて時々しか会えないが、それでもちゃんと続いてる。
ハルとアキも似たようなものだ」
「へえ、ちっとも知らなかった……」
「別に隠してたわけじゃないぞ? おまえとこういう話をする機会がなかっただけのことだ」
「結婚は? すんの?」
「ああ、そのつもりだ。おじじに曾孫の顔を見せて安心させたいしな。
ただ、今は彼女が仕事に熱中してるから、もう少し先のことになるだろうが」
「そっか」
良かった。なんだかホッとする。嬉しい。
―――いや、喜んでばかりいられない。
(オレが恋って……きょおすけに恋って……)
まさか、そんな馬鹿な、と思う。
だって、京介は男。つまり同性だ。だから、そういう対象にはならない。
でも、彼をほかの奴になんか渡したくない、とも思う。
これは、そういう意味で好きだから、なのだろうか?
だけど、自分が男に惚れるなんてことがあるはずなくて……
けれど、そうかもしれないという気がしないでもなくて……
(あ〜……う〜……どっちなんだろぉ……?)
頭を抱えて唸ってしまう冬香だ。
夏輝のほうは、しきりに頬をゆるめていた。
幼稚園児の頃から喧嘩に明け暮れ、音楽を聴くようになって以降はそれに夢中で、異性にはまったく興味を示さなかった。
そんな末弟が、初めて恋をしたのである。兄としては嬉しくてしょうがない。
まして、この弟は一時期すべてを放棄し、まるで死人のようになってしまった過去があるから、尚更だ。
春弥と秋斗も大喜びするに違いない。
できれば相手のことを詳しく訊きたいが、今は控えておこう。
どうやら未知の感情ゆえ正しく認識できず、まだ受け入れられないようなので、そっとしておくのが賢明だろう。
じっくり見守るとしよう。
「―――こら、もうやめろ」
「んあ……?」
「もう考えるな。時間とエネルギーの無駄だ」
「だってさぁ……」
「そんなに悩まなくても、いずれ自然にわかるはずだから。いやでも自覚するときが来る。
そのときを黙って待っていればいいさ」
「……そういうもんなのか……?」
「そういうものだ」
夏輝は再度、弟の髪を撫でた。
「良かったな、冬香」
「へ?」
「その子に出会えて」
「あ、うん」
その通りだと思うので、深く頷いた。
「ところで、おまえ、昼食は?」
「ううん、まだ。そういやハラ減ったな」
「じゃあ一緒に食べよう。なにがいい?」
「なんでも。ナッちゃんが喰いてえもんでいいよ」
「ここに運んでもらうか?」
「うん、そだな」
食事を済ませたあと、夏輝は客室が並ぶフロアーへ向かった。
いつものように取り引き先の会社の人間が何人も宿泊しているため、挨拶回りに行ったのだ。
その間、冬香は愛犬の部屋で過ごすことにする。
「ワンコー」
名前を呼びながらドアを開けると、白い体毛の巨体が弾むように起き上がり、わふっと鳴いて駆け寄って来た。
「久し振り〜。うん、元気そうだな」
床に膝をつき、愛犬を抱き締め、繰り返し背中を撫でる。
ゴールデン・ウィーク以来だ。ちょっと懐かしい。
ワンコが冬香から離れ、リードを咥えて戻って来た。
シッポをぱたぱた振りながら、散歩に連れてってよーと目で懇願する。
「あー、ごめん。外に出らんねえんだ、オレ。ナッちゃんに外出禁止って言われちまったからさ。
その代わり、ここで遊ぼうぜ。な?」
そばにあったボールを手に取ると、嬉しそうな鳴き声が返ってきた。
しばらく遊んでから、ワンコに水を与え、ついでに自分も喉を潤す。
「疲れたか? んじゃ、ちょっと休憩しよっか」
元気とはいえ、もう老犬だ。無理をさせてはいけない。
ワンコが毛づくろいを始めたので、冬香はごろんと寝転がった。
天井をぼんやり眺めながら考えるのは、己れの気持ちについてだ。
自覚するときを待てと兄に言われたけれど、やはり自然に思考を巡らせてしまう。
同性愛を否定する気は毛頭ない。どんな趣味や嗜好を持とうが個人の自由なので、別に構わないと思う。
でも、自分は違う。そういう性癖はない。いたって普通だ。
(ってつもりだったのに、ハズレだったのかなあ……?)
ということは、実は自分はゲイだった、ということになる。
―――いや、待て。ちょっと待て。
男ならいいのか? ほかの奴でもいいのか?
(……ううん、ダメだよ……全然ダメだ……)
同性がいいのではない。京介がいいのだ。
その証拠に、ほかの男なんてほしいと思わない。そんなのはいらない。
京介だけがほしい。京介だから、ほしい。
もし彼が女だったら、どうだったのだろう? それでも、こういう欲求を持っただろうか?
たぶん、変わらない。きっと同じだ。京介が京介であるなら、やはり欲したに違いない。
性別は関係ないのかもしれない。
(……え? なに? ほしい? ほしいって―――うわあああああああああっ!!
なんつうこと考えてんだよオレってばあああああああああっ!!)
恥ずかしくてたまらなくなり、冬香は床の上をごろごろと転がり回った。
両手で覆った顔は真っ赤に染まっている。
とっさにワンコが飛び退く。突然のことに驚いたらしい。
「あ……ああ、ごめん、ごめんな」
上体を起こし、愛犬を抱き寄せた。
その体毛に頬をくっつけ、瞼を閉じる。
(……参っちまうなあ、ったくもお……)
こんなことになるくらいなら、
己れの気持ちの正体がわからなくて持て余しているほうがマシだったような気がする。まだ楽だったような。
次兄に話さないほうが良かったかもしれない。
(……あ、そういや、言いそびれちまったんだっけ。ひとり占めしてえのが、きょおすけだってこと……)
結果的には、正解だったと思う。
弟が男に恋をしていると知ったら、やはりひどく心配するだろうから。
本当に恋なのかどうか、まだわからないけれど―――