SUMMER VACATION〈7〉




晴れ渡った翌日の正午前。
冬香は玄関で座ったままスニーカーを穿くと、立ち上がって振り返った。
そこには京介がいる。見送りだ。

「んじゃ、行ってくっから」

「ああ」

「ちゃんとメシ喰えよ? コーヒーばっか飲んでんじゃねえぞ? ちゃぺのことヨロシクな?
あとは、えーっと……」

「わかってるから、早くしろ。迎えの車を待たせたら悪いだろう」

「うん……」

背を向け、ドア・ノブに手を掛けようとした冬香だったが、
突然また振り返り、思い切り京介に抱きついた。両腕に渾身のチカラを込め、ぎゅうっと。

しかし、それは一瞬のこと。すぐに腕をほどき、

「じゃ」

と短く告げ、開扉して出て行った。もう振り返らなかった。

少しだけ待ち、そのまま京介も廊下へ出て、窓から地上を見下ろした。

マンションから冬香が出て、車に乗る込む。そして発車する。

それを見届けてから京介は部屋へ戻り、まず自室に向かった。ちゃぺを閉じ込めてあるのだ。
つい先程まで「なに? どうしたの? どっか行くの? やだよ。行かないでよ。ここにいてよ」
と言うように騒々しく鳴き、冬香にまとわりついて離れなかったので、仕方なく隔離したのである。

ドアを開けると、ベッドの上に黒い塊があった。丸くなっている。
名前を呼んでも反応がない。どうやら、すっかり拗ねているらしい。

京介はベッドに腰掛け、ちゃぺの背中をそっと撫でた。

「しばらくの辛抱だから」

静かに告げる。

可哀想だが、やむを得ない。今の冬香には休養が必要だ。
慣れない場所で生活した上、彩家兄妹の言動にわずらわされたせいか、明らかに疲労していた。
このタイミングで実家に帰るのは好ましいと思う。
それに、兄が在宅しているのなら、冬香と一緒に寝てくれるはず。夢を見てうなされることは避けられるだろう。

しかし、少しばかり気になることがある。さっき彼が抱きついてきたとき、顔が熱いように感じたのだ。
もしかしたら熱があるのかもしれない。疲れのせいで発熱してしまったのだろうか?

(―――いや、大丈夫だ……)

もし冬香になにかあっても、家人が善処してくれる。
ここに彼が戻って来るまで、自分の出番はない。まったくない。

ちゃぺが鳴いた。突然、にゃあと短く。
そして起き上がり、京介の腿にスリスリと額をこすりつける。甘えるのではなく、まるで彼を励ますかのように。

京介はかすかに目を細め、ちゃぺの背中を再び撫でた。


 *     *     *     *     *     *     * 


冬香は後部座席のシートに深く身体を預け、窓の外の流れる景色を眺めていた。
だが、実際はなにも目に映らない。物思いに耽っている。

次兄の夏輝と会うのは約4ヶ月振りだ。少し前に無事退院したらしい祖父の顔も見たい。
だから、実家に帰るのは嬉しい。

けれど、それ以上に京介と離れたくなかった。一緒にいたかった。
ちゃぺがいれば彼も寂しくないだろうなどと思ったくせに、もう自分が寂しがっている。
我ながら情けない。自分に呆れてしまう。

冬香は両手を広げ、じっと見つめた。
出掛けに抱きついた京介の感触が、まだ残っているような気がする。

あのまま抱きついていたかった。あの温もりを感じていたかった。ずっと匂いを嗅いでいたかった。

(……ホント、どうしようもねえな、オレ……)

更にエスカレートしているらしい。始末に負えないと痛感する。




自宅に着くと、執事の高木が数人の使用人を従え、笑顔で出迎えた。

「おかえりなさいませ」

「ただいま、タカじい」

いつものように軽くハグし、改めて顔を見る。

「元気だったか?」

「はい、おかげさまで。冬香さまもお変わりございませんか?」

「うん、まあな。―――じいちゃんは? 具合、どう?」

「すっかりお元気ですよ。今朝、急用でソウルへお出掛けになりました」

「え、仕事か? 大丈夫なのかよ? 退院して間もねえってのに」

「仕事をしないと調子が悪い、だそうです」

冬香は苦笑をこぼし、高木も小さく笑った。

「しょうがねえなあ、ったく。んで、ナッちゃんは? 帰ってる?」

「はい。まだお部屋でご就寝中ですが、お言付けがございます」

「オレが帰ったらソッコーで起こせ、だろ? わかってるって。じゃあナッちゃんとこ行くわ。またあとでな」

高木に手を振って別れ、冬香は次兄の私室へ向かった。

早乙女邸は非常に広い。
家業の取り引き先が海外に多く、その関係者たちが商談や観光で入れ代わり立ち代わり絶え間なく来日するため、
彼等の宿泊用として多数の部屋が用意されているのだ。
冬香の祖父が事業を興した当時、海外からの客にはホテルに泊まってもらっていたのだが、
それでは行き届いた世話ができないからと、広大な自宅を建てて大勢の使用人を置いた。
せっかく日本に来たのだから、その雰囲気を味わってほしいという思いで、純粋な和室も作ってある。

方向音痴が災いし、冬香は幼い頃、家の中で何度も迷子になった。
ゆえに用のないところへは行かなくなり、どこになにがあるのか覚えられず、
明確に場所を把握しているのは家族の私室と食堂くらいのものだ。
我が家だというのに、間取りがよくわかっていない。それでも不自由を感じたことはないが。
冬香と兄たちの部屋は、屋敷の2階の片隅に並ぶ。各々浴室と洗面所が完備された、30畳ほどの洋間だ。

ノックせず、静かにドアを開け、冬香は中へ入った。
遮光カーテンがぴったり閉じらているため、室内は真夜中のように暗い。
しかし、もう熟知している部屋なので、見えないからといって足取りが迷うことはない。
なるべく音を立てないようにして歩き、ベッドへ近付いて行く。

次兄の規則正しい寝息が聞こえてきた。ぐっすり眠っているようだ。

(起こさなきゃ、あとで怒るんだろうなあ、きっと……)

いや、へそを曲げるといったほうが正しい。
兄たちは3人とも、ひどく末弟を溺愛していて、家にいるときはなにを置いても構いたがる。
たまにしか帰れないから尚更だろう。
けれど、起こしたくない。ゆっくり休んでほしい。
普段、海外を飛び回って忙しい日々を過ごしているのだから、せめて帰宅したときくらいは。

(やっぱ、目ェ覚めんの待ったほうがいいよな……)

そう思いながら腰を折り、次兄の頬に唇を寄せる。

(ごめんな、ナッちゃん。あとでまた来っからさ)

と心の中で話し掛けてから、冬香は背を向け、歩き出そうとした。

そのとき、後ろから掠れた声が飛んでくる。

「おかえり、冬香……」

振り返ると、ベッドの中で次兄が起き上がり、枕元のリモコンに手を伸ばしてカーテンを開けた。

徐々に室内が明るくなっていき、パジャマを着た夏輝の姿が陽光に晒される。
3人の中で最も優しい顔立ちをした彼は、長身ながら細身で、雰囲気も仕草も温和ゆえ、優男という印象が強い。
しかし、それは見掛けだけのこと。中身は硬派で、己れにも他人にも厳しい。もちろん末弟に対してだけは別だが。

「あ、ごめん。起こしちまったかな?」

「いいんだよ。帰ったら起こせって、タカじいから聞いただろう?」

まだ眠そうな目をしながらも、夏輝はにっこり笑い、両腕を広げた。

「ほら、おいで。ちゃんと挨拶させてくれ」

「うん」

冬香はベッドに飛び乗り、次兄の首に抱きついた。
それから軽くキスを交わし、再びハグする。

大好きな兄の感触を確かめた。存分に匂いを嗅いだ。
以前なら、これだけで充分だったのに、とても安心できたのに、今はそう思えない。
なにかが違うと感じる。なんだか物足りないような気がする。

(……やっぱ、きょおすけじゃねえとダメ、ってことか……)

またもや、それを痛感してしまう。

「少し痩せたか?」

「え、そっかな? 変わんねえと思うけど」

兄弟は腕をほどき、互いの顔を見た。
すると、夏輝は片手を冬香の額に当てた。

「あ? なに?」

「やっぱりだ。ちょっと熱い。風邪でもひいたか」

「え、ううん。別に、なんともねえよ?」

「念のため2、3日は外出禁止だな」

「えーっ? あとでワンコの散歩に行こうと思ってたのにー」

「熱が完全に下がってからだ。甘く見ると悪化するぞ。
俺がそばについていながらそんなことになったら、ハルとアキにどやされる」

「あー……うん、わかった」

冬香はベッドから下り、夏輝も布団から出た。

「軽くシャワーを浴びてくるよ」

「んじゃオレ、コーヒーでも飲みながら待ってる」

「ついでに俺の分も頼んでくれ」

「ホットでいいんだよな?」

「ああ」

夏輝は浴室へ向かい、冬香は枕元の電話を取った。

「……もしもし、タカじい? 悪ィんだけど、ナッちゃんの部屋までコーヒー持って来てくんねえ?
……うん、ホットとアイス。ヨロシクな」

そういえば京介も、どんなに暑いときでもホットしか飲まない、ということを思い出す。

彼は今頃、なにをやっているのだろう? 
いつものように、ソファーに寝そべって本を読んでいるのだろうか?

(……って、なんか女々しくねえか、オレ……?)

深い溜め息がこぼれた。

やがて兄弟は、窓のそばに置かれたテーブルで向かい合い、コーヒーを飲みながら話をした。他愛のない内容だ。
普段3人の兄たちは頻繁に冬香に電話をかけて話をしているので、会ったからといって特に報告するようなことはなにもない。

その他愛のない会話がひと区切りつくと、不意に夏輝が神妙な顔つきになり、
まだ濡れた髪を片手で掻きあげつつ、ほんの少しだけ声を低めて言った。

「やっぱり変だな」

「へ? なにが?」

「おまえだ」

「オレ?」

「どこかぼんやりしてるし、なんだかトロンとしたような目つきだし、いつもの覇気が全然ないんだ。
ちょっと前に電話で話をしたときから、おかしいと感じてたよ。ハルとアキも同じことを言ってた」

「―――……」

「例えるなら……そうだな、まるで恋わずらいでもしてるような」

「こっ……?」

冬香の双眸がまん丸になった。