SUMMER VACATION <6>
海神から電話が来た。
別荘で過ごして16日目の夜のことだ。
京介が入浴中だったので、冬香が応対した。
『待たせてすまなかったね。ようやく工事が終わったよ。きょう部屋を見に行ったら完全に元通りになっていた』
「んじゃ、もう帰っていい?」
『ああ。いつ戻る?』
「えっと、きょおすけと相談して決めるわ」
『車を出そうか?』
「ううん、電車に乗るよ」
『では、戻る日が決まったら連絡しなさい。早麻の駅まで送ってくれるよう、管理人に頼むから』
「うん」
『そういえば、彩家くんが今そこにいるらしいね。もしかして会ったかい?』
「……まあな」
冬香の不機嫌な返答に、海神が小さく笑う。
『またきみに迫ったのかな? しょうがないねえ、彼も』
「おっちゃん、アイツの別荘がここにあるって知ってたわけ?」
『ああ。あまり東京から離れていない静かなところにログ・ハウスを持ちたいと思って土地を探していたとき、
その場所を教えてくれたのが彼だったからね。
彼は大学在学中に、そこに別荘を建てたんだよ』
「って、学生なのに? なんでンな金―――あ、親が出したのか」
『いいや、競馬で万馬券を当てたのを資金にしたそうだ』
「競馬ぁ?」
呆れてしまう。でも、なんとなく奴らしいような気もする。
『親御さんからは一切援助を受けていないよ、彼は』
「あー、そういや、父ちゃんにカンドーされてるってなこと言ってたっけ」
『おや、そこまで聞いたのか』
「まあな。―――あ、じゃあさ、ここの電話番号って、アイツ知ってる?」
『ああ、教えてあるからね』
なるほど、おっちゃん繋がりか、と冬香は思った。
結局、翌日の昼に帰ることにした。
迎えに来たのは管理人ではなく、その娘だ。会うのは2度目になる。
相変わらず笑顔を輝かせて現われた彼女は、ふたりがワゴン車の後部座席に乗り込むと、
「忘れ物はありませんね? じゃ、行きましょう」
と明るく言って、アクセルを踏んだ。
車内に、小さなボリュームで音楽が流れている。古い雰囲気のリズム&ブルースだ。
「……あ、スティービィー?」
膝の上の愛猫を撫でていた冬香が思わず訊くと、彼女は嬉しそうにポニーテールを揺らした。
「はい。よくご存知ですねえ、かなり昔の曲なのに」
「うん、兄ちゃんの影響」
「そうですか。あたしも同じです。年の離れた姉が好きで、しょっちゅう聴いてるから、すっかり影響受けちゃって」
「けど、これ、初期のだろ? オレぁ中期のほうがいいな」
「あー、わかります。アルバムでというと『ライフ』とか『ジュライ』とか」
「そう。『アイシャ』とか、そのあたり」
「いっぱい名曲がありますもんねえ」
それから少し走って赤信号で停車したとき、
「じゃあ、これなんかどうですか?」
と、彼女はCDを入れ替えた。
曲が流れ出す。やはりR&Bだが、今度はかなり新しい雰囲気だ。
瞬間、冬香の表情が強張った。
その緊張が隣の京介にも伝わり、どうしたんだろうと思う。
イントロが終わってボーカルが聞こえてきた。ハスキーな声が英語の詞を歌う。
荒削りではあるけれど、驚くほどの声量だ。ものすごい迫力である。
それが冬香のものだと、即座に京介は理解した。
間違いない。確かに、あの雨の日に聴いた彼の声だ。
あのときは口ずさんだだけだったが、CDに収録された曲は思い切り声を出している。
とても気持ち良さそうに、のびのびと歌っている。
「……これ、は……?」
冬香が運転席に尋ねた。顔を強張らせたまま。
「“
何年か前に姉が東京に遊びに行ったとき、たまたま寄ったライブ・ハウスに出てたんだそうです。
その場でファンになって、自主制作のCDを売ってたから買ってきたって、嬉しそうに言ってました。
でも、そのあとすぐ“KA−FU”は解散しちゃったらしいんですよね。
だから、あたしもライブ観てみたかったけど観れなくなって、CDもこれ1枚しか手に入らなくて。すごく残念です」
「……そ、っか……」
「どうですか? お気に召しませんか?」
「あー……ギターはいい、な……」
「ですよねえ。あたしはボーカルも好きですけど」
「………」
「ゆっくりお聴きになりたいのなら、このCD差し上げますよ? ダビングしたものですけど」
「え……あ、や、遠慮する……」
そして冬香は唇を咬んだ。
そのとき、京介に手を握られていることに気付く。
一体いつから、そうしてくれていたのか。
顔を上げると、漆黒の双眸が見つめていた。
相変わらず感情のない瞳だが、心配しているのがわかる。痛いほど、わかる。
大丈夫だと応える代わりに、冬香は笑った。
弱々しい笑みになってしまったけれど、なんとか笑えた。
ちゃぺも心配しているらしく、膝の上で不安げな眼差しをして見上げている。
その黒い鼻に、冬香は己れの鼻をこすりつけた。大丈夫だよと心の中で告げながら、やはり弱々しい笑みを浮かべて。
行きの電車の中では始終はしゃいでいたのに、帰りは静かだった。ほとんど口を開かず、ぼんやりと窓の外を眺めている。
そんな冬香に対し、京介は特になにも訊かない。ただ黙って様子を見ているだけだ。
やがて、間もなく電車が都内に入るという頃、ようやく冬香が窓から目を離し、美顔に視線を据えた。
「あー……ごめん。オレ、黙りこくっちまって」
「いや」
「えっと、おめえ、わかったんだよな? あれ、オレが歌ったヤツだって」
「ああ」
「まさか、あんなとこで自分の昔の歌なんか聴くことになるたぁ思ってなくてさ。
びっくりして、それから、いろいろ思い出しちまって……」
「そうか」
「その……いい思い出ばっかじゃ、ねえんだけど……」
「そうか」
それきり、互いに再び口を噤んだ。
やはり京介はなにも訊かない。詮索しない。
ありがたいと思う冬香だった。
夕方近くに、レジデンス・コウの501号室へ到着。
着替えを済ませ、荷物を片付けたあと、ふたりはソファーで向かい合った。
約2週間振りの我が家である。やはり落ち着く。とても居心地がいい。
「―――それで、どうするんだ」
コーヒーを飲みながら、京介が尋ねた。
「あ? なにが?」
ストローでアイス・コーヒーを啜りながら、冬香が問い返す。
「今後の予定だ。いつ実家に帰る」
「あー、あしたかな。ナッちゃんが今晩遅くに帰国するっつってたから」
「2番目の兄貴か」
「うん、そう」
「ちゃぺは」
「置いてく」
即座に答え、冬香は居間で走り回っている愛猫に視線を移した。
「おめえ、ここにいんだろ? だから置いてくよ」
そのほうが、おめえも寂しくねえだろ? と思うけれど、口には出さない。
「世話、頼むな?」
「わかった」
「なるべく早く戻って来るつもりだけどさ」
「せっかく帰るんだから、おじいさんや兄貴とのんびり過ごしてくればいい」
「あー、うん、そだな」
冬香は、ちらりと京介を見た。
(おめえは、どうなんだよ……?)
父親と仲が悪いのは、なんとなくわかっている。
だから会いたくなくて、ゴールデン・ウイークも夏休みも実家に帰らないのだろう。
でも、母親は? 会いたくないのか? ちょっとでも顔を見たくないのか?
息子が元気な姿を見せれば、母親も喜ぶのではないか?
(―――あ……もしかして、母ちゃんとも仲悪ィのかな……?)
そういうことなのだろうか?
だとしたら、とても悲しい。せっかく両親がいるのに―――この世に存在しているのに。
だが、それは京介親子の問題だ。自分が口を挟むべきではない。
できることなら仲良くしてほしいと思うけれど。
「……あのさあ、きょおすけ」
「なんだ」
「おめえ、オレんち来ねえ?」
「―――」
「そうだよ。その手があるじゃん。なんですぐ思いつかなかったんだろ?
おめえも一緒に来ればいいんだ。ここにひとりでいるよかマシだと思うぞ?
アキちゃんだって遊びに来いって言ってたしさ。
ちゃぺも連れて、オレんち行こうぜ。な? いやか? ダメ?」
「いやだし、だめだ」
京介の即答に、冬香の表情が曇った。
「な、なんで……?」
「家族水入らずの邪魔をしたくない」
「ジャマじゃねえよ全然。それに、アキちゃんも―――」
「その本人がいないのに、行けるわけないだろう」
「じゃ、じゃあオレが招待する。だから―――」
「気を遣うな。俺は平気だ。それと、ひとりなんて言ったら、ちゃぺが怒る」
一瞬だけ、冬香は黙り込んだ。
「そりゃ、そりゃそうだけど……でも……」
「俺のことはなにも心配しなくていい。ちゃぺと一緒に留守番してるから、おまえは実家でゆっくりしてこい」
「………」
もう説得できなかった。黙って頷くしかなかった。