SUMMER VACATION〈5〉




ひとしきり泳いだあと、冬香は水面で仰向けになり、空を見上げた。
雲ひとつない青空が、どこまでも果てしなく広がっている。きょうも見事な快晴だ。

ぷかぷかと川に浮きながら、しばらく晴天を眺めていたが、
やがて我に返ったように双眸を見開き、そして瞬きを繰り返しつつ溜め息をこぼした。

(……あー、もー、またかよぉ……)

ぼんやりしていると、いつの間にか考えてしまう。ふと気がつくと、考えてしまっている。
どんなに頭を悩ませても、さっぱりわからないことなのに。

京介には言えない。面と向かって“おめえに対する自分の気持ちがなんなのか全然わかんなくて、
持て余しちまってる”なんて、さすがに口にできない。
そんなことを言われても、彼だって対処に困るだろう。

だから、京介の前では極力そうしないよう注意し、あえて別のことを考えるように努めている。
だが、敏感な彼ゆえ、すぐ異変に気付き、「どうしたんだ」と訊いてきたけれど、
「あのヘンタイヤローと妹のことさ。いつまた来るかわかんねえから、気になるっつうか、落ち着かねえっつうか」
と言って誤魔化した。あながち嘘ではないので、それで納得してくれたようだ。

とにかく、あの女にはもう会いたくない。
会ったら、きっとまた京介にベタベタするだろうし、それを見たら間違いなく不快な思いをしてしまう。

ちゃぺを迎えに行ってから約1週間が過ぎた。
あれ以降、彩家兄妹との接触はない。このまま2度と現われないでほしい。

マンションのリフォーム工事はまだ終わらないのだろうか? いつになったら海神から連絡があるのだろう?
帰りたい。東京へ―――ふたりの部屋へ、一刻も早く。帰京できる日が待ち遠しい。

(……さぁて、もう上がるか。ハラ減った。そろそろ朝メシ届く頃だよな)

そんなことを思いながら、浅瀬へ向かって泳ぎ出す。

「っ!?」

いきなり冬香の顔が歪んだ。驚きと苦痛に。

(いだだだだっ! 足、足痛ェ! なんだ、これ!? ツッたのか!? ケイレンか!?
くっそ! よりによってこんなときに―――うわっ!)

一気に大量の水を飲んでしまった。

必死にもがくが、そうすればそうするほど水底へ沈んでいく。
ちっとも思い通りに動かない。まるで自分の身体ではないみたいだ。

(ヤバ……ッ)

苦しい。息ができない。次第に視界がかすむ。意識も遠ざかる。

死んじまう―――
そう思った瞬間、人の顔が見えた。ぼんやりとだが、見えた。

(……カ、ズミ……?)

ああ、そうか。迎えに来たのか。

やはりだめだということか。
祖父と兄たちを安心させるまで待ってほしいなんて勝手な望みだということか。
それは認めないということか。許さないということか。

(……そう、だよな……すげえ勝手だよな……)

カズミをあんな目に遭わせたのだから、その元凶がひとりだけ生きていてはいけないのだ。そんな資格なんかない。
本当なら、あのとき、すぐあとを追わなければいけなかった。わかっている。よくわかっている。
だから、連れて行っていい。好きにしていい。覚悟はできている。

(じいちゃん、ハルちゃん、ナッちゃん、アキちゃん、ごめん……おっちゃんとマキちゃんと、タカじいも、ごめん……)

悲しませたくないけれど、こうなった以上、もう仕方ない。どうか勘弁してほしい。

(それから、きょおすけ……)

会えて良かった。とても楽しかった。心から礼を言いたい。
でも、できれば、もっと一緒にいたかった。ずっと一緒にいたかった。
この期に及んで、まだそんなことを思う。我ながら、なんて往生際が悪い。自分で自分に呆れてしまう。

―――それきり、意識がなくなった。




そのとき京介は、朝食を運んで来た管理人に応対していて、冬香が溺れたことに気付かなかった。
不運としかいいようがない。

だが、管理人と入れ替わるようにして現われた辰巳が、

「ちょっと、冬野くん。今、川の中で人がもがいてるように見えたんだけど、まさかチビちゃんじゃないよね?」

と少々血相を変えて言ったので、急いで窓に駆け寄り、外を見た。
いない。つい先程まで泳いでいた冬香の姿が水面にない。

京介は窓から飛び出し、そのまま川へ入って行った。
冬香を見つけると即座に引き上げ、川べりへ運んだ。膝を折って、その上に彼を横たわらせ、人工呼吸を数回。
間もなく水を吐き出し、激しく咳き込んだ冬香は、荒い息を繰り返しながら、うっすらと瞼を開けた。

「……オレ、生きてんの……?」

「すまない、気付くのが遅れた」

「……死んだと、思ったんだけどな……」

「馬鹿を言うな。そう簡単に死なせてたまるか」

「だって……迎え、来たのに……」

「―――」

「いて……いててて……」

冬香が眉を寄せ、小さく呻いた。

「どこが」

「足……ふくらはぎ……中のほう、すげえ痛ェ……」

「こむら返りだ」

それで溺れたのか、と京介は思う。

そのとき、辰巳がバスタオルを冬香の裸体に掛けた。

「ごめんね。部屋にあった奴、勝手に持って来ちゃったよ」

「いえ」

短い返事をして、京介は小さな身体をタオルで包み直す。

冬香の大きな瞳が、辰巳を軽く睨みつけた。

「なんで、ここにいんだよ、ヘンタイヤロー……」

「あはは、悪態をつけるなら大丈夫だね。
これから東京に戻るんで、妹がきみたちに挨拶したいと言うから一緒に来たわけさ」

「いらねえよ、んなもん……勝手に帰れ……」

「やっぱりか。予想通りの反応だなあ」

京介は冬香を抱き上げ、辰巳に目を向けた。

「教えてくださってありがとうございました」

「どういたしまして。無事でなによりだ。
でも、ちょっと残念だな。できれば俺がマウス・ツウ・マウスしたかったよ」

辰巳の言葉を聞き流して、京介が歩き出す。
言うべきことは言った。もう彼に構う義理はない

ログ・ハウスの前に、鎮痛な面持ちの美和子が立っていた。
挨拶に来たのはいいが、非常事態発生で京介に近付けず、成り行きを静観していたのだ。

「あ、あの、早乙女さん、大丈夫ですか?」

彼女の問いには答えず、京介は黙ってログ・ハウスに入り、そのまま浴室へ直行した。
そして浴槽の中に冬香を下ろし、バスタオルを剥ぎ取って、その痩身にシャワーを掛ける。

「温まるまで出るな。温まって血行が良くなれば、足の痛みも鎮まるはずだ」

と言い残し、自身の濡れた服を手早く脱ぎ捨て、髪と身体を拭いてから部屋着を着た。

外から、車の走り去る音が聞こえる。彩家兄妹が帰って行ったのだろう。

冬香は目を閉じ、バスタブの中で横たわって温水を浴びていた。

(……なんで……? なんでだよ、カズミ……?)

なぜ連れて行かなかった? 迎えに来たのではなかったのか?

もう少し時間をやる、ということなのだろうか?
祖父と兄たちを安心させるまでは生きていい、ということなのだろうか?
そうかもしれない。
家族全員がカズミをとても可愛がっていたし、カズミのほうも皆に懐いていた。

(―――けど……けど、オレ……)

まだ京介と一緒にいられることが嬉しい。なによりも、それが嬉しい。
そんなことを喜んではいけないのに、そのために生かされたわけではないのに。
でも、止められない。喜びがあふれてくる。

この人でなし。ろくでなし。こんな奴は、絶対ただでは済まないだろう。
きっと、あとで
(ばち)が当たる。当然の報いだ。
だが、それでもいい。
どんな目に遭っても構わないから、京介のそばにいたい。できるだけ、できるだけ長く。

「―――どうだ。温まったか」

「あ、うん……」

「足の痛みは」

「だいぶ、楽んなった……」

「歩けるか」

「たぶん……」

京介がシャワーを止め、手を差し出したので、それを支えにして冬香は立ち上がり、浴槽から出た。
髪と身体を拭き、パジャマを着る。
といっても、全身がだるく、立っているのがやっとゆえ、京介に手伝ってもらわなければならなかったが。

「食事はどうする。食べられるか」

「うん、喰う……そういや、ハラ減ってたんだよ、オレ……」

その言葉とは裏腹に、あまり食べられなかった。
消耗しているため、いつものような食欲はさすがにない。

それから冬香は、京介の手を借りて梯子を上がり、ベッドに横たわった。
目を閉じて、深い息をこぼす。

「―――きょおすけ……」

「なんだ」

「おめえが、助けてくれたんだよな……?」

「ああ」

「あんがと……」

「いや」

「また、面倒かけちまったな……ホント、助けてもらってばっか……」

「それより少し眠れ。そばにいるから」

「うん……」

間もなく冬香は静かな寝息を立て始めた。

その様子を見て、京介は心の底から安堵する。
正直いって、水中にいる冬香を見つけたときは、一気に血の気が引いた。
この子に万が一のことがあったらどうしよう、と怖くなった。
大切な存在ができるということは、臆病になることなのかもしれない。
自分ひとりなら、怖いものなどなにもないのだから。
だが、悪い気はしない。この子を大切に思うのは、ある種の充足感がある。

京介は冬香の頬を指先で撫で、そして額にキスをひとつ落とした。
指も唇も、なめらかな感触を覚える。しかも非常に温かい。

冬香が生きていることに感謝した。心底ありがたかった。

それに、あの兄妹がこの土地から離れたこともありがたいと思う。
これで冬香は平穏な気持ちで過ごせるだろう。

階下から鳴き声が聞こえてきた。ちゃぺだ。
どうやら「仲間ハズレにしないでよー。そこに行きたいよー」と言っているらしい。

京介はベッドから離れ、愛猫を迎えに行った。