SUMMER VACATION〈4〉




ログ・ハウスに戻ると、冬香は手早く身体を拭いて下着とジョギング・パンツを身に着け、椅子に腰掛けた。
正面には京介が座っている。タバコを片手に、コーヒーを啜っている。

「……んで? あの女、なんの用だったんだ?」

「パーティをやるから来てくれ、と。きのうの礼がしたいそうだ」

「行くのか?」

「まさか」

「……いつも通り、シカトしたわけ?」

「当然だ。相手をする義理はない」

「そっか」

冬香は安堵し、小さな溜め息をついた。
そして、ふと気付く。

「……あれ? そういや、ちゃぺは?」

いない。室内のどこにも姿が見えない。

「女が来たときは台所で水を飲んでたが」

「外に出てっちまったのかな?」

「たぶん」

京介は急ぎ立ち上がって玄関へ向かい、冬香も続く。
そのとき固定電話が鳴り出したので、近くにいた冬香が受話器を取った。

「誰だか知んねえけど、あとで掛け直せ。取り込み中だ」

『あらら、慌ててるねえ。なにかあったのかな?』

辰巳だった。

「あぁ? ヘンタイヤローか。てめえにゃ関係ねえ」

『うわ、冷たいなあ。じゃあ勝手に用件を言わせてもらうよ。
きみのとこの猫ちゃんが今ここにいるんだけど、どうする? 送っていったほうがいい?』

「なんだとっ!?」

冬香の眉が吊り上った。

「なんでだよっ!? まさか、てめえが連れてったのかっ!?」

『違う違う。いつの間にか俺の車に乗ってたんだ。こっちに帰って来てから気がついたというわけさ』

「なんでてめえなんかの車にっ!?」

『さあ? それを俺に訊かれてもねえ』

(……そりゃそっか)

なんにせよ、良かった。ちゃぺは無事だ。もし川に落ちて流されていたらどうしようかと思った。

「あー、送ってくんなくていい。迎えに行く」

『歩きで? 結構遠いけど?』

「いいってば、行くから」

この男の世話になんかなりたくない。なるべく避けたい。

「そこの場所、詳しく教えろ」

『じゃあメモして。ちょっと複雑な道のりなんだ』

言われた通りの道順を書きとめ、冬香は電話を切った。
そして、傍らの京介に詳細を話す。

美顔が頷き、次いで少しだけ首をかしげた。

「なぜあの男が知ってるんだ」

「え、なにを?」

「ここの電話番号だ」

「―――あ……」

そういえば、それは自分たちも知らない。だから他人に教えようがない。
なのに、どうして?

「まあ、いい。とにかく行こう」

「うん」




1時間近く歩いて、辰巳の別荘に到着した。

「……ここ、だよな?」

「ああ、間違いないだろう」

「なんつうか……すげえ趣味だな、こりゃ……」

冬香が呆れるのも無理はない。
屋根が緑で、壁が赤、青の窓枠に、黄色のドアという、なんともカラフルな建物だったからだ。
しかも、凝っているというか、珍しいというか、どう表現していいかわからないデザインである。
だが、中々大きく、海神のログ・ハウスの2倍以上はありそうだ。

横に備え付けられたガレージの中に車が停まり、そのボンネットに寄りかかるようにして辰巳が立っている。

「やあ、いらっしゃい。待ってたよ」

ふたりに気付き、彼は笑顔を見せた。

「ちゃぺは―――ネコは? どこ?」

「そこ。降ろそうとしたんだけど、抱っこさせてくれないんだ。
すごく暴れるし、めちゃくちゃ爪立てるし、もうお手上げ」

顎や腕に走る引っかき傷を撫でながら、辰巳が車の後部座席を指差す。

冬香が膝を折って覗いてみると、シートの下に黒い身体があった。
ひどく警戒しているようで、全身の毛を逆立てている。

「ちゃぺ。ほら、出て来い。迎えに来たぞ」

途端に短く鳴いて、飛びついて来た愛猫を、冬香は両腕で抱き留めた。

小さな主人の胸に顔をこすりつけながら、ちゃぺが何度も声を上げる。

「うん、そっか。もう大丈夫だから。さ、帰ろうぜ」

「……なに? 猫ちゃんの言うこと、わかるの?」

「まあな。こりゃなんだろって思って車に乗ったら、
急に動き出して知らねえとこ来ちまったんで、怖かったらしいや」

「へえ、すごいね」

冬香は立ち上がり、辰巳に向き直った。

「悪かったな、面倒かけて」

「それだけ?」

「は?」

「言葉だけじゃなく、ちょっとお礼がほしいな」

「礼?」

「そう。キスさせてくれない?」

「なっ―――」

辰巳が顔を寄せてきたので、とっさに冬香は頭突きをかまし、同時にちゃぺが爪を剥き出した。
京介がフォローする間も必要もなかった。

「……おー、相変わらず効くなあ。しかし、すごいコンビネーションだねえ」

辰巳の鼻から血が滴り、腕には新しい引っかき傷ができている。それでも、にこやかな表情を崩さない彼だ。

「てめっ、ふざけんのもいいかげんにしろよっ!!」

「いやいや、ふざけてないって。本気だから」

「やかましいっ!! 黙れっ!!」

「―――お兄さま? 冬野さんたち、いらしたの?」

黄色のドアがカチャリと開き、美和子が顔を出した。
そして京介の姿を認めるやいなや、嬉しそうに駆け寄って行く。

「お待ちしてました。お茶をご用意しますから、中へどうぞ」

当然のことながら京介は一瞥もくれない。

しかし、美和子は諦めなかった。

「お願いします。少しだけでいいですから寄っていってください」

そう言いつつ、京介の腕にすがりつく。

それを本人が振り払うより先に、ちゃぺが動いた。
冬香の腕の中から飛び出し、ものすごい跳躍力で美和子に襲い掛かっていったのである。

「きゃっ!」

彼女は思わず後ずさり、爪を立てられた胸元を見た。
服が少し綻んでいる。それだけだ。怪我などはない。

ちゃぺは地面に着地して、尚も美和子を威嚇する。鋭い眼差しで睨みつけ、低い唸り声を上げながら。

その小さな身体を、京介が拾い上げた。

同時に冬香が手を伸ばし、ちゃぺの喉を何度か撫で、

「よしよし。そんな怒んなくていいから、落ち着け。な?」

と優しく言って、なだめてから、美和子に視線を移す。

「謝んねえぞ。気安く触ったのが悪ィんだ」

目つきも口調も、ひどく冷たい。

次いで背を向け、歩き出した。京介も一緒に。
もうその場所に用はなかった。

ふたりの後ろ姿が見えなくなった頃、ようやく美和子が口を開く。

「なんなの……? なんなの、一体……?」

「おまえが悪いよ、あれは。確かに気安かった」

「でも―――お、お兄さま? 鼻血、鼻血が出てるわ!」

「気付くのが遅いって」

苦笑しながら、辰巳は手の甲で鼻を拭った。

「ああ、大丈夫。もう止まってる」

「どうしたの? のぼせたの?」

「あのチビちゃんにキスしようとしたら頭突きをくらったのさ」

「呆れた……。本気で口説くつもり?」

返事はない。笑顔を見せるだけの辰巳だ。

「まあ、どうでもいいわ。美和子の邪魔だけはしないでね」

「邪魔はしないが、忠告はするよ。
いいかげん自分のこと名前で呼ぶのやめなさいって。聞いてるほうが恥ずかしくなる」

「そ、そんなの、美和子の勝手じゃない」

「それと、彼は諦めたほうがいい。おまえの手に負える男じゃないから」

「いやよ。あんな綺麗な
男性(ひと)、滅多にいないもの」

「同じこと言って、どこかの御曹司に熱を上げてたんじゃなかったのか?」

瞬時に美和子の頬がカッと赤くなる。

「どうして、どうして知ってるのっ? 誰に聞いたのっ?」

「内緒。結局、まるで相手にされなかったらしいじゃないか」

「……もう過去の話よ。今は冬野さんだわ。
とりあえず、あの人のこと調べなきゃ。名前しかわからないままじゃどうしようもないもの」

それは無理だろう、と辰巳は思った。
なんせ彼等の後ろには、あの海神氏がついているのだから、と。




あたりが夕闇に包まれて暗くなりつつある中、ふたりは並んで歩いていた。
ちゃぺは京介に抱かれ、おとなしくしている。

「すげえなあ、コイツ。ヘンタイヤロー引っかくし、妹のほうにも飛び掛かってってさ」

「ああ。だから俺はなにもする必要がなかった」

「オレたちを守ってくれたのかな?」

そうだよーと答えるように、鳴き声が上がる。

「あはは、そっかそっか。あんがとな」

冬香が頭を撫でてやると、愛猫は嬉しそうにシッポを大きく振った。

(……ホントあんがと。ザマーミロって気分だったぜ)

あのとき、ちゃぺが飛び掛らなかったら、きっと自分が女の手を叩き払っていただろう。
きょおすけに気安く触るな、と怒鳴りつけて。

いやだった。ムカついた。実に不愉快だった。
その思いが、ちゃぺに伝わったのかもしれない。

(―――でも……)

おかげで、思い出してしまった。
京介に対する己れの気持ちの正体がわからず、持て余していることを。
もう考えるのはやめよう、忘れよう、と決めたことだったのに。

(……参っちまうなあ、っとにもう……)