SUMMER VACATION〈3〉




ぎょっと冬香は目を剥いた。

「て、てめっ、あんときのっ!」

辰巳も驚いたが、すぐににっこり笑う。

「うわあ、奇遇だなあ。運命の再会って奴? 
うーん、いい眺め。やっぱり、とっても綺麗な肌してるんだねえ。思った通りだよ。触ってもいい?」

「っ!」

とっさに後ずさった冬香は、そのまま身をひるがえし、
椅子から立ち上がっていた京介の背後に逃げ込み、すっぽり隠れた。
裸でいないほうが良かったと、またしても後悔する。

「あー、残念。もっとじっくり見たいのになあ」

「やかましいっ! てめえ、なんでこんなとこにいんだよっ!? なにしに来やがったっ!?」

長身の陰から顔だけ出し、辰巳を睨みつけて叫ぶ。

「なにって、妹を迎えに来たんだけど?」

「いもっ……!?」

冬香は美和子に視線を移した。

彼女は呆れたような
表情(かお)をしている。

「相変わらずなのね、お兄さま。可愛い子を見ると、すぐ構ったり口説いたり。
何年もアメリカを放浪して少しは変わったかと思ってたのに」

辰巳は笑顔を崩さない。

「おまえこそ相変わらずじゃないか。よく知らない場所に慣れない運転して来るなんて無茶もいいとこだ。
しかも、こんな天気の悪い日に」

「仕方ないじゃない。お父さまの命令で、誰も車を出してくれないんだもの」

「それこそ仕方ないさ。俺は勘当された身だ」

「そうね。だから会いに行くなって、お父さまに言われたわ。
でも、もう何年もお兄さまの顔を見てなかったのよ? 無茶をしてでも会いたいじゃないの」

「―――ちょっと、オイ」

冬香が口を挟んだ。ひどく刺々しい声だ。

「兄妹ゲンカなら別んとこでやれよ。オレたちにゃ関係ねえだろ」

「ああ、ごめんごめん」

辰巳は笑みを濃くした。

「それと、ありがとう。妹がお世話になったね」

「ほんとにありがとうございました」

美和子が立ち上がり、頭を下げる。

「あの、このお礼は近いうちに必ず―――」

「いらねえ。迎えが来たんだから、とっとと帰れ」

「あはは。きみも相変わらずキツイねえ。まあ、そういうところも可愛いけど」

「黙れヘンタイッ! 帰れっつってんだっ!」

「はいはい。じゃあ、またね」

「2度と会わねえよっ!」

兄は笑いながら、妹は少々不機嫌な
表情(かお)をしながら、揃って出て行った。
車のエンジン音が遠ざかって消える。

ようやく戻った静寂の中、冬香は思わず京介の背中に抱きつき、瞼を閉じて匂いを嗅いだ。
シャツ越しに伝わってくる体温が実に心地好い。

(……あー、やっぱ落ち着くなぁ……すっげえ落ち着くよぉ……)

怒りも苛立ちも、綺麗さっぱり消滅していく。まるで気持ちが浄化されるみたいだ。

しかし、やがて、このままでは京介に申し訳ないということに気付いた。

「あ、悪ィ。オレってば、つい……」

身体を離そうとしたが、大きな手に腕をつかまれ、引き戻されてしまう。

「離れなくていい」

「や、でも―――」

「構わないから、気が済むまで抱きついてろ」

「……ごめん……」

「謝るな」

「……んじゃ、あんがと……」

「礼も言うな。必要ない」

「………」

冬香は再び目を閉じ、広い背中にすりすりと額をこすりつけた。

(……参っちまうなあ、っとにもう……)

京介の優しさに―――己れの欲求に。

こんなふうに扱われたら、益々嬉しくなってしまうではないか。
独占欲が膨れ上がって、どうにもできなくなってしまうではないか。

自分にとって、京介は兄たちと同じ存在―――そう思っていたのに。

(なんか、全然、まるっきり違うみてえ……)

兄たちに対しては、仕事ばかりしていないで早く素敵な相手を見つけて結婚してほしい、
幸せな家庭を作ってほしい、と考えていた。
それが現実のものになったら、しっかり兄離れするつもりだった。
その気持ちは今も変わっていない。自信を持って断言できる。

でも、京介に対しては逆だ。恋人ができればいいなんて、もう今はとても思えない。
そんなのは絶対いやだ。絶対許せない。いつまでもフリーでいてほしい。
そうしたら、ずっと一緒にいられる。誰に気兼ねすることもない。

この感情は一体なんなのだろう? どういうものなのだろう? なんというものなのだろう?

(……あー、くそ。アタマ痛くなってきた……)

どうやら脳みそが限界らしい。考えるのは苦手だ。
もうやめよう。わからないことを考えてもしょうがない。時間とエネルギーの無駄だ。

深々と吐息した冬香は、ゆっくり腕をほどき、顔を上げた。

「―――うん、大丈夫。もう平気だから。落ち着いたよ」

京介が背後を見やり、

「……そうか」

と短く応え、オレンジ色の髪を撫でてから、椅子に座ってコーヒーを飲む。

冬香も腰掛け、隣で毛づくろいしている愛猫を愛おしそうに眺めながら、
テーブルの上のアイス・コーヒーに手を伸ばした。

「うわ、マズ。氷とけて味が薄くなってる。アイツらのせいだ、ったくよー」

「よく我慢したな。女が喋ってるとき、切れるんじゃないかと思ったが」

「あー、まあ、我慢するっきゃねえだろ。オレが勝手にムカついただけで、
あの女がなんか悪ィことしたわけじゃねえもん。……え?」

冬香は目を丸くした。

「なんで知ってんだ? オレがムカッ腹立ててたってさ。
おめえ、本読んでたんじゃねえの? オレを見てたわけ?」

「ああ。だから、そろそろ追い出すつもりだった」

「って、あの女を? こんな雨ん中なのに?」

「関係ない。おまえが切れるほうが俺には辛い」

「―――……」

きゅっと冬香が唇を咬み締める。

(……ホント、参っちまうなあ……)

どうして嬉しくなるようなことばかり言ってくれるのだろう? いつもいつも、さらりと自然に。

「そこに迎えが来たんで、その必要はなくなったが」

「あー、うん。ビックリしたぜ。まさかアイツが兄ちゃんだったとはなあ」

しかし、あの男に関しては、あまり喋りたくない。不快になる。

それが通じたのか、京介は話を打ち切り、

「コーヒーを淹れ直そう」

と言って立ち上がった。

相変わらず窓の外は薄暗い。雨は止みそうにない。




次の日の朝、青空が広がり、気温も高めだったが、泳ぐことはできなかった。
長い降雨によって川が増水したため、危険だったからだ。

しかし、夕方になる頃には水位が下がり、元に戻った。

「なあなあ、もういいか? いいだろ? いいよな?」

「ああ」

「わーい」

承諾を得るやいなや、冬香は服を脱ぎ捨て、窓から川へ飛び込んだ。
水しぶきが勢い良く上がる。

京介は椅子に腰掛け、タバコを吸い、コーヒーを飲んだ。
その視線は決して冬香から離れない。安全に泳いでいることを確認するためだが、彼を眺めていたいという思いもある。

しばらくして、玄関から声が聞こえた。

「こんにちは」

美和子だった。
きょうはチャイナ・ドレス風の白いワンピースを着ている。
身体の線がはっきり出るため、プロポーションの良さが丸わかりだ。むしろ、それが狙いなのかもしれない。

「あの、きのうはどうもありがとうございました。おかげで助かりました。
これ、お借りしたタオルです。洗ってきましたので」

と、片手に持っていた紙袋を差し出す。

彼女を一瞥しただけで視線をそらした京介は、タバコを咥えて火をつけ、また窓の外を見た。
当然のことながら、なにも言わない。

仕方なく紙袋を玄関に置き、美和子が口を開いた。

「冬野さん、ですよね。兄からお名前を聞きました。
あの、今週の土曜日の夕方から、兄の別荘でホーム・パーティを開くんです。
来ていただけませんか? 早乙女さんもご一緒に」

返事はない。
依然、京介は冬香を眺めている。

「お願いします。いらしてください。きのうのお礼をさせていただきたいんです。
お食事もお酒も最上級のものをご用意しますから、ぜひ」

やはり無言の京介だ。

「もちろん車で送迎させていただきます。ご都合がお悪いのでしたら、日時を変更します。
いつがよろしいですか? おっしゃってください」

不意に美和子は表情を緩めた。
京介が外から室内へ視線を移したので、ようやく自分の話を聞いてくれる気になったと思ったからだ。

しかし、彼は立ち上がりながら手早くタバコを消し、急いでバスタオルを用意すると、
彼女の脇を通り抜け、外へ出て行ってしまった。

冬香が川から上がって来ていた。

京介が歩み寄って、小さな裸体をタオルで包む。

「あ? なに? 寒くねえぞ別に」

「きのうの女が来てる」

「えっ?」

「男が一緒かもしれない」

反射的に冬香は周囲を見回した。

いた。停車したオープン・カーの運転席だ。
少し遠いところだが、こちらに笑顔を向けているのがわかる。きょうはピンクの開襟シャツを着ている。

「ごちそうさまー。美味しそうなヌードだったよー」

そんなことを辰巳に言われ、一瞬にして冬香の怒りが頂点に達した。

「ふざけんなっ!! どっか行けクソバカヤローッ!!」

「うーん、ほんと気持ちいい怒鳴り声だねー。クセになりそうー」

「はあ!? やっぱ変だぞ、てめっ!! このドヘンタイッ!!」

「ありがとー」

「誉めてねえっ!!」

「あはは。おーい、美和子―。もういいだろう? 帰るよー」

不満顔の彼女を乗せ、車は走り去って行った。

京介が呟く。不愉快だ……と。

だが、それは川の水音に消され、冬香の耳に届かなかった。