SUMMER VACATION〈2〉




別荘での5日目は雨だった。
深夜から降り続いているらしく、川が増水してしまっている。さすがに泳げない。

昼食後、冬香は窓に両肘をつき、ぼんやりと外を眺めていた。
空が明るいので、雨が止むのを期待しているのだが、その兆しは一向にない。

降雨のせいか、きょうはひどく蒸し暑い。
下着とジョギング・パンツだけを身に着け、上半身は裸なのに、それでも耐え難い。
雨よけのために玄関のドアも室内の窓もすべて締め切っているので、尚更だ。

「―――」

不意に京介が本から顔を上げ、冬香の後ろ姿を見た。
いきなり彼が歌を口ずさみ始めたからである。

喋る声は少しハスキーだが、歌声は一層その度合いを増し、まるで別人のもののようだ。
鮮明には聴き取れないものの、しっとりしたバラード調の曲で、どうやら歌詞は英語らしい。

「……誰の曲だ」

「―――え?」

冬香が振り返った。

「なに? なんか言った?」

「それは誰の曲かと訊いたんだ」

大きな目が更に大きく見開かれる。

「……って、オレ、歌ってた……?」

「ああ」

「……そっか」

冬香は苦笑をこぼした。

「でも、なんでンなこと訊くわけ? 音楽とか興味なさそうなのにさ」

「いい曲だと思ったからだ。おまえの声もいい」

「あは……。うん、あんがと。お世辞でも嬉しいや」

「おまえに世辞を言う必要がどこにある」

「そういや、そうだな」

と再び苦笑した冬香は、窓の外へ視線を戻し、また口ずさんだ。

「……ってな曲だったか?」

「ああ、それだ」

「オリジナルだよ。雨をイメージして作ったモンだから、つい歌っちまったのかもしんねえ」

「そういう趣味があるのか。気付かなかった」

「ううん、もう昔のこと。バンド組んで、ヴォーカルやってたんだ。
つっても、ふたりしかメンバーいなかったから、ユニットってのかな?
んで、オレ、元々はもっと高い声だったんだけど、掠れた声に憧れててさ。すげえカッコイイじゃん。
だから、めちゃくちゃ叫びまくって、わざと潰したんだよ喉。
そしたら兄ちゃんたちにハンパなく怒られちまって、マジ怖かったっけ。
でも、自分たちで曲いっぱい作って、ライブ・ハウスにも出て、すんげえ楽しかったあ。
思い出しただけでワクワクしちまうぜ」

本当に楽しかったのだろう。口調から、それが滲み出ている。

「……もう歌わないのか」

「うん、ムリ。もう歌えねえよ―――アイツがいなきゃ……」

最後の呟きを、京介は聞き逃がさなかった。

そういえば、冬香がマンションにいるとき、テレビやDVDを観るかゲームをするだけで、
CDを聴いたことはなかった。なぜだろう?
自分で曲を作ってライブをやるくらいなのだから、音楽が相当好きなはずだ。
それゆえ実家からコンポと大量のソフトを持って来たのだろうに、どうしてまったく聴かないのか?

そんな疑問を持った京介だが、これ以上立ち入ってはいけないような気がする。
だから話題を変えることにした。

「管理人に頼んで、テレビでも持って来てもらうか」

冬香が振り向き、首をかしげる。

「なんで?」

「ここにはDVDもゲームもないから、つまらないだろう」

「ううん、つまんなくねえよ。おめえがいるし、ちゃぺもいるし、景色はキレェだし、メシと空気はうめえし、
晴れりゃあ泳げるし、林ん中を散歩すんのは気持ちいいし。それにオレ、実は去年まで引き籠もりだったからさ」

「―――」

「だから、ぼけっとしてんのには慣れてんだわ。苦になんねえっつうか」

「……少年院を出たあと、ずっとか」

「うん、ずーっと引き籠もってた。2年くらいだったかな?」

あ、と冬香が小さく声を上げる。

「そういや、おめえは? 退院して、もう何年も経ってんだろ?
でなきゃそんなに長く伸ばせるわけねえもんな、髪の毛」

「ああ、4年経つ」

「へえ。んで、なにやってた―――あ、ごめん。いいぞ、別に答えなくても」

「いや、構わない。おまえと同じだ」

冬香は目を丸くした。

「って、引き籠もってたのか?」

「ああ」

「どんくらい?」

「海神さんに会うまでだから、約3年間だ」

「ほえー、同じなんだあ。ちょっとビックリしたぜぇ」

驚いたのは京介も同様である。

なぜ海神が自分たちに同居を強要したのか、その意味は未だ解明できない。
似たような境遇にあったことは無関係ではないと思うけれど、だからといって、
まさか互いの傷の舐め合いをさせるためなどではないだろう。そんな愚行を海神がさせるとは考えられない。
彼の真意はまったくわからない。

だが、今となっては、もうどうでもいいような気がする京介だ。
この生活があれば、このまま続けば、それで充分だと思う。

冬香の隣で、ちゃぺが身体を起こした。昼寝が終わったらしい。

「おう、目ェ覚めたか。ぐっすり眠ったか? ん?」

手を伸ばし、体毛を撫でようとしたとき、呼び鈴が鳴った。訪問者だ。

「誰だろ? メシ喰ったばっかだから管理人のおっちゃんじゃねえよな?」

京介が立ち上がり、玄関へ向かう。

「出んのか?」

「一応」

ドアの前で、短く尋ねた。

「どなた」

「ああ、良かった。人がいらっしゃるんですね」

返ってきたのは女声だ。

続けて彼女が説明する。
それによれば、車で別荘へ向かっていたのだが、途中でエンストを起こして動かなくなってしまい、
助けを呼ぼうにも携帯電話がバッテリー切れで使えず、困り果てているということだった。

「それで、どこかでお電話を借りようと歩き回って探してたんです。
突然ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんが、お願いします」

京介は冬香に目を向けた。どうする、と無言で問う。

「あー、まあ、しょうがねえんじゃねえ?」

そう答えるしかない。
このあたりには別荘が点在するだけだと管理人から聞いている。
まだ避暑の時期ではないから、人のいる建物を見つけるのは難しいだろう。
それに、この雨の中、女を
無碍(むげ)にするのは、さすがに気が進まない。

冬香の返答に軽く頷き、京介がドアを開けた。

立っていたのは、清楚な感じの女性だ。どちらかといえば美人で、年の頃は20代前半くらい。
傘を持っているが、褐色の長い髪も、クリーム色のワンピースも、けっこう濡れてしまっている。
ヒールの高いサンダルは泥だらけだ。

「ありがとうございます。助かりま―――」

一礼して京介を見上げた途端、彼女が絶句する。理由はいうまでもない。

ムッとした冬香は、

「電話、そこだから。勝手に使え」

ぶっきらぼうに告げ、玄関の横にある電話機を顎で示した。

「あ、はい、すみませ―――」

また絶句。
今度は冬香を見て驚いている。なぜ女の顔に男の身体が付いているのか理解できない、という表情だ。

言葉で言われなくても、その意味はよくわかり、益々不機嫌になった冬香だ。
裸でいないほうが良かったかも……と後悔する。

京介がバスタオルを持って来て、女性に渡した。

「ありがとうございます。お借りします」

髪と服を手早く拭いて、彼女はバッグの中から手帳を出し、電話番号を確認した。
それから受話器を取り、ボタンを押す。

「もしもし、お兄さま? 
美和子(みわこ)です。……お兄さまの別荘の近くよ。……あとで説明するわ。
それより、迎えに来てくれないかしら。車がエンストしちゃったんだけど携帯が使えなくて、
ログ・ハウスの方にお世話になってるの。……ええ。場所わかる?……そう、良かった。
じゃあ待ってるから、お願いね」

美和子と名乗った女性は、電話を切ると、室内に視線を移した。

「ほんとにありがとうございました。助かりました」

返事はない。
ただ、ちゃぺと遊んでいる冬香が、こくんと小さく頷いただけだ。

京介のほうは椅子に座って脚を組み、黙って本を読んでいる。

「あの、20分ほどで迎えが来ますので、それまでここにいさせてくださいませんか?」

だめだとは言えないので、冬香はちゃぺを抱き上げ、京介の隣に移動した。
つまり、彼女のために場所を空けたのだ。

美和子は自分のハンカチで足の汚れを拭いてからサンダルを脱ぎ、

「お邪魔します」

と告げつつ中へ入った。そして、京介の正面に座る。

そのことに対しても、冬香はムッとしてしまった。

尚も彼を苛立たせたのは、そのあとの彼女の態度だ。
頬を赤く染めながら、しきりに京介に話しかけたのである。
どうでもいいようなことばかりを延々と。京介が無視しているのに、まったく構わずに。

(くあ〜〜〜。なんなんだよ、この女〜〜〜)

ムカつく。腹立つ。気分が悪い。

(うっせえんだよ、てめえ。いいかげん黙ってろ。大体、自分のこと名前で呼ぶな。いい年こいて、みっともねえ。
それが許されんのは幼稚園児までだ。バカ丸出しって、わかんねえのか?)

ああ、イライラする。爆発しそうだ。男だったら即行で追い出すのに。

(ったくもう! 甘ったれた声なんか出すな! んなトロンとした目で見てんじゃねえ!
どうやったってムダだ! きょおすけはオレとしか口聞かねえし、オレのことしか見てねえんだから!
オレだけのモンなんだよ!)

瞬間、愕然とした。

(……………………………………………………え? オレ、今、なんて……?)

京介が、なに? オレのもの、だと?

(うっわ〜……!)

ついに、ついにここまでエスカレートしてしまったか。
なんということだろう。我ながら、とんでもない。

(ひでえ……! ひでえよ、これ……! もう重症じゃん……!)

たまらず頭を抱えそうになったとき、呼び鈴が鳴った。

迎えが来たのかと思い、ちゃぺを膝から下ろし、玄関へ駆け寄る。
早く女を連れて帰ってくれ、という心境の冬香だ。

ドアを開けると、

「こんにちはー」

真っ赤なアロハ・シャツを着た男性が、満面の笑みを添えて挨拶した。
それは、前期試験の最後の日に理事長室で会った男―――彩家 辰巳だった。