SUMMER VACATION〈1〉




神奈川県の早麻市に到着したのは、夕暮れ時のこと。
駅には迎えが来ていた。別荘の管理人である。京介と冬香の特徴を海神から聞いていたらしく、
ふたりが改札口を通り抜けると、迷わず声を掛けてきた。実に愛想のいい中年男性だ。

彼の運転するワゴン車で、別荘へ向かう。30分ほど走っただろうか。
着いたのはログ・ハウスだった。外壁の丸太が程好く汚れ、中々いい色具合になっている。
周囲には林が広がっているだけで、建物などは一軒も見当たらない。
玄関へ入ると、木製の大きなテーブルと4脚の椅子が置かれた一室があり、隅に小さなキッチンが備えられていた。
その奥にあるのはユニット・バスのようだ。梯子で登る2階には、やはり木製のベッドがふたつ並ぶ。
さほど大きくない外観に反し、中は意外に広く感じる。

あとで食事を運んで来ると言い残し、管理人は帰って行った。

京介は到着した旨を伝えるために海神に電話を掛け、冬香はキャリング・ケースから愛猫を出してやった。

「お待たせ。お疲れさんだったな。もう好きなように動き回っていいぞ」

最初は少しばかり警戒したような様子だったが、すぐに馴染み、ちゃぺが毛づくろいを始める。

それを見てホッとした冬香は、次いでテーブルの脇の窓を開けてみた。
すぐそばに綺麗な川がある。けっこう大きいが、流れは穏やかだ。

(へえ、道理で水の音が聞こえると思ったぜ)

というか、水の音しか聞こえない。静かな場所だ。
それに、非常に涼しい。とても夏だとは思えないくらい快適で、エアコンが取り付けられていないのも頷ける。

京介が隣にやって来た。

「海神さんから伝言がある」

「なんて?」

「食事は1日3回10人前を用意するよう頼んであるが、足りない場合や、
ほかになにか必要なときも、遠慮なく管理人に言うように、と」

「ん、了解。―――なあ、ここって泳げるかな?」

「深さを調べてからだ。見た目だけで判断するのは危ない」

「うん。んじゃ管理人のおっちゃんに訊いてみっか」




やがて届けられた夕食を済ませ、コーヒーを飲んだり雑談したりしながら過ごしたあと、
交互にシャワーを浴び、ふたりは同じベッドに入った。
だが、京介の足が出てしまっている。セミ・ダブルだからだ。
それゆえ幅も狭いため、いつも以上に密着しなければならない。

さすがに冬香は悪いと思った。

「なあ、隣で寝るよオレ。もうひとつベッドあるんだし」

「窮屈か」

「おめえがな。オレぁ平気」

「なら、このままでいい」

「そりゃオレだって一緒のほうがいいけど、これじゃあさあ」

「ひとりでも狭いんだ。おまえが増えたところで変わりはない」

「……そっか? んじゃ、おコトバに甘えて遠慮なく」

実は、海神から大きいベッドを搬入するよう頼まれたのだが、急な依頼だったので間に合わず、
もう数日待ってほしいと管理人に言われた。
しかし、京介は断わった。どうせ2週間しか滞在しないし、少し我慢すれば済むからだ。

天井に窓があった。ベッドに横たわりながら空を眺めることができる。

「キレェだよなあ、星」

「ああ」

都内でも星は見えるけれど、これほど鮮明ではない。空気が違うのだろう。

階下から、ぱたぱたと走り回る音が聞こえてくる。ちゃぺだ。
もうすっかり慣れ、マンションにいるときと同じように自由気ままに過ごしている。

間もなく、にゃあと鳴いた。なにかを訴えるような声だった。
自力で梯子を登ることができなくて、ふたりに抗議したらしい。

冬香より先に京介がベッドから出て、1階に下り、ちゃぺを抱いて戻った。

「え……なに? おめえ、ちゃぺの言うことわかんの?」

「ああ、なんとなく」

「へえ、そっか。わかるようになったんだ。なんか嬉しいな」

京介は再びベッドに仰臥し、ちゃぺは枕元で丸くなった。

「でも、ちょっと不思議なんだけどさ。
少し前から、ちゃぺのほうがオレの言うことわかるようになったっつうか、そんな感じがすんだよなあ」

「―――」

「気のせいかもしんねえけどさ」

(……いや、たぶん気のせいじゃないだろう)

そうなったとしても、おかしくはない。むしろ当然かもしれない。
だが、それを冬香に白状することはできない。たとえ口が裂けても。
だから適当な理由を告げることにする。

「日増しに仲良くなってるから、そう感じるんじゃないのか」

「うーん、かもなあ。ワンコにゃそんなの感じたことねえけど、イヌとネコじゃ違うのかもしんねえし。
うん、だな、きっと」

あくびをして、冬香は瞼を閉じ、やがて寝入った。

京介は空に目を向けている。あまり眠気は感じない。いつものことだ。
おかげで眠れない日があり、そういうときは夜がとても長い。
けれど今は、星空を眺めているだけで苦もなく時間を潰せそうだった。





見事に晴れ渡った翌日。
冬香は起床するやいなや梯子を下り、パジャマと下着を脱ぎ捨て、窓から川へ飛び込んだ。
一番深いところでも1・5メートルくらいしかないから泳げると、ゆうべ管理人に教えてもらっていた。

京介は驚きを隠せない。
まさか冬香が全裸で、しかも窓から飛び出すとは、さすがに予想していなかった。
しかし、かなり上手い。荒っぽいフォームではあるが、すいすい泳いでいる。おまけに、とても気持ち良さそうだ。
あの様子なら心配ないかと思い、好きにさせることにする。

1時間余り泳いだあと、冬香が戻って来た。
シャワーを浴びて身体の汚れを落としてから、下着とタンクトップとジョギング・パンツを身に着け、
冷蔵庫の中を覗く。スポーツ・ドリンクがあったので、それを一気に飲み干す。

そして、椅子に腰掛けて本を読んでいる京介に目を向けた。

「おめえも泳いでくれば? すんげえ気持ち良かったぞ?」

「いや、いい」

「そっか? オレぁこれでいったん終わりだ。夕方になったら、また泳ぐ」

「日焼けしたくないのか」

「うん。焼けると赤くなってヒリヒリすんだよ、まるでヤケドみてえにさ」

そのとき、外から車のエンジン音が聞こえてきた。
続いて、停車し、ドアを開閉する音も。

「おはようございまーす」

そう言いながら、開け放たれた玄関に現われたのは、浅黒い肌と白い歯が印象的な20代前半くらいの若い女性だ。
決して美人とはいえないが、黒髪のポニーテールがよく似合い、こぼれんばかりの笑顔が輝いている。

だが、その笑顔が不意に硬直し、頬が赤く染まった。京介を見たからだ。

途端に冬香はムッとする。

「おめえ、誰?」

と問う声も不機嫌なものになってしまう。

ハッとして、女性は照れたように笑った。

「すいません。すごいイケメンの方だって聞いてたんですけど、想像より何倍も素敵だから思わず見惚れちゃいました。
あの、あたし、管理人の娘です。父が急用で来られなくなったんで、代わりに朝ごはんを持って来ました。すぐ運びますね」

はきはきと応え、踵を返す。

「あ、そっか。んじゃ手伝うよ」

冬香は急いで彼女のあとを追い、京介も立ち上がって外へ向かった。

「いえ、そんな、結構ですよ。中で待っててください」

「いいって。ハラ減ってっから早く喰いてえしな」

「そうですか? じゃあ、お願いします」

朝食を運び込み、昨夜の夕食の空いた食器を車へ持って行く。
3人で作業したので、すぐに終わった。

「ありがとうございます。助かりました」

「ううん。こっちこそあんがと、メシ持って来てくれて」

「いいえ。あの、お昼ごはんは何時頃がいいですか?」

「って、何時だ、今?」

「えっと、9時半です」

「んじゃ、1時か2時くらいに頼むわ」

「わかりました。じゃあ、これで失礼します」

頭を下げてから車に乗り込み、車内で再び一礼し、女性は帰って行った。

ふたりはログ・ハウスへ戻り、食事を摂った。
昨夜は中華料理で中々の絶品だったが、今朝の和食もまた美味しい。大満足の冬香である。

食後、京介は普段通りに本を読んで過ごし、冬香はゴロゴロしたり、ちゃぺと遊んだりした。

猫じゃらしを振りながら、ふと考える。

(そういや、さっきのって、一体なんだったんだろ……?)

女が京介を見て固まったり、赤くなったりするのは、今に始まったことではない。
これまで数え切れないくらいあったし、むしろ平然としている女は皆無だった。
桁外れの美人ゆえ、それが当たり前だと思う。
実際、自分も初めて会ったときは見惚れてしまったので、その気持ちはよくわかる。
だから、そういう女の反応を目の当たりにしても“またか”と思うだけで、ほかの感情は持たなかった。
今まで、ずっとそうだ。

なのに、さっきはムッとしてしまった。なんだか気に喰わなかった。

相手が管理人の娘で、食事を持って来てくれたからか、京介は最後に軽く会釈していたが、
それでも目を合わせることはなく、言葉を交わすこともなかった。
いつもと大差のない態度は、やっぱり嬉しかった。

嬉しいのは、まだわかる。もう経験済みだ。
だが、ムッとしたのは理解できない。なぜだろう?

(……ひとり占め願望が、エスカレートしてる―――のかな……?)

だとしたら、益々自己嫌悪に陥ってしまう。

おまえ以外の人間と親しくするつもりはない、と京介は言った。
それだけで充分ではないか。これ以上なにを望む? わがままにも程がある。

(……いっそのこと、きょおすけにカノジョできたほうがいいかも……)

そうしたら独占欲にブレーキが掛かり、こんなふうに自己嫌悪に悩まされずに済むかもしれない。

あの管理人の娘はどうだ? 明るくて、さっぱりしていて、中々いい感じだった。
母やコンビニの店長に似ている気がする。好きなタイプだ。
ああいう女なら、京介とくっついても―――

ちくんとした痛みを覚え、とっさに冬香は胸に手を当てた。

(……うぇ? なんだ、今の?)

よくわからない。わからないが、なんだかモヤモヤする。いやな気分だ。

(……も、いいや。考えんの、やめよ。なんか疲れちまったぜ……)

思考を断ち切り、冬香はぶんぶんと猫じゃらしを振り回した。

ちゃぺが不満そうに鳴く。「もっと優しくやってよー」と言ったようだった。