SEQUEL<8>




遠くのほうから、なにやらガンガンと響くようなものを感じる。
それが段々近付いてきて、眠気が消え去り、意識が鮮明になった。

痛い。頭の中で誰かがハンマーを振り回しながら暴れているのではないかと思うほどの頭痛だ。
あまりにも痛くて目を開けることさえできない。
しかも、喉が異様に渇いている。

「う〜〜〜っ……」

たまらず顔を歪め、冬香は低く唸った。

(なんだよ、これ……なんでこんな……? オレ、どうしたんだっけ……?)

痛みを堪えながら記憶を辿ると、少しずつ思い出した。
自分を産んだ女に会い、腹を立ててマンションへ帰り、
憂さ晴らしのため愛猫と一緒に酒を飲んで、京介に愚痴を聞いてもらったことを。

(あー、そうそう、そうだった……)

でも、なんだろう? なんだか、ものすごくスケベな夢を見たような。
それに、下半身が軽くなったみたいな感じもする。気のせいだろうか?

いや。そんなことより、この頭痛をなんとかしたい。絶えずガンガンして頭が割れてしまいそうだ。

(もしかして、これが二日酔いってヤツかぁ……?)

不意に、唇に硬いものが触れた。ストローのようだ。
思わずパクッと咥え、夢中で吸う。
冷たいスポーツ・ドリンクが流れ込んできて、喉が潤される。例えようもなく美味しい。

「もっと飲むか」

「うん……」

頭上から美声が降ってきたので返事をしたが、まともに声が出ない。ちょっと潰れてしまっている。

更に与えられた水分を飲みきって、はぁ……と息を吐いた。

「吐き気や胸焼けはするか」

「ううん、アタマ痛ェだけ……。今、何時……? もう朝……?」

「昼だ。じき11時になる」

「えっと、ちゃぺは……?」

「ベッドの中で唸ってる。おまえと同じだ」

「そっか……。なあ、これって、二日酔い……?」

「ああ。そのまま休んでろ」

冬香は重い瞼を薄く持ち上げ、美顔を探した。

「あんがとな、きょおすけ……」

「なにが」

「おめえ、言ってくれたじゃん……オレ作ったヤツら、ちゃんと愛し合ってたって……それから、親孝行の顔だって……。
すげえ嬉しかったよ……なんか、救われたっつうか、気ィ晴れたっつうか、そういう気分だった……」

「憶えてたか。かなり酔ってたから忘れてるだろうと思ったが」

「うん、そのあたりまでは……あとのこたぁ、サッパリわかんねえけど……。
オレ、なんかしなかった……? おめえに迷惑かけること……」

「いや、してない」

「そっか……良かった……」

冬香は目を閉じ、また息を吐いた。

「アタマ痛ェの、なんとかなんねえかな……? 薬とか、なかったっけ……?」

「二日酔いの頭痛に鎮痛剤はあまり効かない。
それより、ぬるい湯にじっくり入って汗をかくほうが効果的だろう。そうするか」

「うん……」

「なら、待ってろ。湯を張ってくる」




後頭部をバスタブのふちに乗せ、湯船の中で身体を伸ばし、冬香は全身からチカラを抜いた。
やがて汗が出て、こめかみや眉間を伝って流れていく。

(あーもー、参ったぁ……)

話には聞いたことがあるけれど、二日酔いがこんなに辛いものだとは思わなかった。
想像を遥かに上回る。

(……つうか、酒飲む必要なんて全然なかったよなあ。
最初っから、きょおすけに話聞いてもらえば良かったぜ……)

そして、あの言葉を言ってもらったら、救われた。気が晴れた。

自分を産んだ女に対し、なにかを期待していたわけではない。
訊きたいことさえ訊ければ、ほかのことは別にどうでも良かった。
でも、結果的に捨てるしかなかったとはいえ、
愛し合ったゆえに自分が作られたのだと、心のどこかで信じていたのかもしれない―――信じたかったのかもしれない。
だから、女から相手の男の悪口を散々聞かされたことに、少なからずショックを受けてしまったのだろう。
我ながら意外だったけれど。

京介が言った通り、長く続かなかったのだ。ただ、それだけのことだ。
珍しい話ではない。別れるカップルや離婚する夫婦はたくさんいる。

(―――けど、父ちゃんと母ちゃんは違ってたよな……)

まさに万年新婚夫婦だった。家族が呆れるくらい仲が良くて、
それは絶命の寸前まで変わらず、焼け焦げた遺体は互いをかばうように抱き合っていた。
きっと今もそうだ。あの世でイチャイチャしているに違いない。

(……オレは、どうだろ……?)

京介に気持ちを告げる気はないけれど、もし伝えたとしても報われることは絶対ないはずだ。
それに、いつの日か彼に恋人ができて、仲睦まじい姿を目の当たりにし、苦しい思いをする羽目になるかもしれない。
それでも、ずっと好きでいるのだろうか? この想いは、いつまでも変わらないのだろうか?

冬香は深く吐息して、傍らに置いてあったスポーツ・ドリンクを飲んだ。
入浴中に水分補給しろと、浴室へ入る前に京介から渡されたものだ。

(……好きじゃなくなったら、楽チンなんだろうけどな……)

でも、彼を好きになったことを後悔してはいない。これっぽっちも、ない。
この先も悔いるような真似だけはしたくないと思う。
たとえ、今後、どのような出来事が起こったとしても―――




頭痛は治ったが、今度は湯中りしてしまって具合が悪くなり、
結局、夜になるまでベッドから出られなかった冬香である。なんとも間抜けな話だ。
ちゃぺの二日酔いも、同じ頃にようやく治まった。

そして、ひとりと1匹は

「もう2度と酒なんか飲まねえようにしような」

「にゃー」

と誓い合ったのだった。


 *     *     *     *     *     *


8月下旬に入ると、暑さが和らぎ、朝晩は若干過ごしやすくなった。
しかし、日中の気温は依然高く、不快指数も一向に低くならない。

そんな某日の夕方近く、ふたりはマンションのエレベーターに乗り、階下へ向かっていた。
京介が書店へ行くと言ったので、冬香も同行することにしたのである。
1階に着いてエレベーターから降りると、ちょうど自動ドアが開き、外から男性がひとり入って来たところだった。
見知った人物だった。

「やあ、おふたりさん。久し振りだねえ」

「げっ」

思わず目を剥いた冬香は、急いで京介の背後に避難する。もうほとんど条件反射だ。

「あ、ひどいなあ。顔を見た途端に逃げられたら傷つくじゃないか」

そう言って、男性は笑った。彩家辰巳である。
会うのは海神の別荘に滞在していたとき以来だ。

「てめ、なにやってんだよ? なんでここにいる?」

「うん、ここに住むことになったから下見にね」

「な、なにぃ?」

「ほら、俺、来月から海神大で講師やるじゃない。
だから大学の近くに住もうと思って部屋を探してたら、理事長がここを貸してくれたんだよ」

(うええ? おっちゃんてば、なんてことを〜っ)

「ただし、きみにちょっかいを出したら問答無用で即刻追い出すという条件付きなんだけどね」

(あ、なるほど)

冬香はホッとした。
そして、改めて京介の後ろから顔だけ出し、辰巳を睨みつける。

「もしかして、妹も一緒に来てんのか?」

「いや、俺だけ。ところで、チビちゃん、ちょっと雰囲気が変わったねえ」

「は?」

「綺麗になったというか、色気が出てきたというか。恋してますって感じ?」

「―――」

「あらら、赤くなっちゃって。かっわいいなあ、ほんとにー」

「や、やかましいっ!」

冬香は顔を引っ込めた。

いやだ。そんなことを京介の前で言わないでほしい。ばれないように必死に隠しているのに―――

「うーん、やっぱり請求しようかな。
そんなつもりはなかったけど、チビちゃん見てたら無性にほしくなっちゃったよ」

「あぁ? 請求だと?」

「そう、お礼の請求」

「礼? なんのだよ?」

「きみが別荘のそばの川で溺れてるのを俺が発見したわけだから」

(あ……)

そういえば、その話は後日、京介から聞いた。
確かに、まだ直接は礼を言ってなかったと思う。

「あー、ドウモアリガトウ。オカゲデ助カリマシタ」

ぷっと辰巳が吹き出す。

「なに、そのカタコトみたいな言い方? それに、言葉のお礼がほしいわけじゃないんだけどね」

「めんどくせえヤローだな、ったく。じゃあ、なにがいいんだ?」

「キスひとつ。とびきり濃くて長いのがいいな」

冬香は呆れた。げんなりした。

「まぁだンなこと言いやがるのか、てめえは」

「どうしても諦めきれないからねえ」

「オレにチョッカイ出したら、ここに住めなくなんだろうが」

「そう、だから俺から行動を起こすわけにはいかないのさ。
でも、きみのほうからしてくれるのなら話は別だから」

「ふざけんな。誰がするか、んな真似」

「あれえ? 俺はきみの命の恩人だろう?」

ぐっと冬香が言葉に詰まる。

(このヤロー……!)

「いいじゃない、キスくらい。別に減るもんじゃないし。ね?」

それまで黙っていた京介が、いきなり冬香の腕をつかんで歩き出し、出入り口へ直行した。
辰巳には鋭い視線を一瞬向けただけで、なにも告げなかった。

「おお、こわ〜」

という笑みを含んだ声が後ろから聞こえる。
追い掛けては来ない。

マンションの外へ出て並んで歩きながら、京介が口を開いた。

「無視しろ。あんなことを聞き入れる必要はない」

「そりゃわかってっけど、命の恩人なんて言われるとさあ……」

「勝手な理屈を並べて言いくるめようとしたんだ。乗せられるな」

「あー……うん、気ィつける」

しかし、あの男が同じマンションに住むとは、少々憂鬱な気分になってしまう。

(……ま、しゃあねえ。とことんシカトだ。
どうしてもガマンできなくなったら、おっちゃんに言ってなんとかしてもらおう。うん)




予定通り書店へ行き、その帰りにコンビニへ寄った。
冬香だけが店内に入り、京介は外でタバコを吸いながら待つことにする。

「いらっしゃいませ。あら、ふーちゃん、こんばんわ。お久し振り」

レジ・カウンターの中の泉水が笑顔で迎えた。

「ちーす。うん、そうだな。ここんとこ、あんま遅い時間に来なかったから」

「……あらあ? ふうん?」

「え? なに? オレの顔になんか付いてる?」

「違うわよ。ちょっと会わないあいだに雰囲気が変わったなあと思って。
美人になったというべきかしら? 色っぽくなったような感じもするわ」

彼女の後ろに立つアルバイトの若い男性が、同意するように何度も頷いた。

「きょーちゃんと益々上手くいってるってことなんでしょうね。
どこに出掛けるときも一緒みたいだし、ほんと仲いいものね」

「あはは……」

冬香は苦笑いして店の奥へ行き、大きな溜め息をついた。

(ねーちゃんまでンなこと言うのかよぉ……)

誰の目にも、そう見えるのだろうか? なんだか複雑な心境だ。
とにかく、ここに京介がいなくて良かったと思う。彼には聞かれたくない。

気を取り直し、菓子の物色を始めた。
そのとき、ふと音楽が耳につく。店内に流れているBGMである。

(……え?)

英語を織り交ぜた日本語の詞、ダンサンブルでビートの効いた曲調、ハイトーンの女性ボーカル。
初めて聴いた。知らない曲だ。
だが、これは、この旋律は―――

弾かれたように駆け出し、冬香はレジ・カウンターに飛びついた。