SEQUEL〈5〉




翌日の夜。指定された時間の5分前に、冬香はホテルに到着した。
フロントで名を告げると、6階の一室へ案内された。
もう先客が来ていて、ソファーに小柄な後ろ姿がある。

(名前は、えっと……なんだっけ?)

海神が教えてくれたけれど、憶えていない。
住んでいるところも忘れた。
年令は確か40才。家族は夫と子供がふたり……いや、3人だったか?

(ま、いいや、別にどうでも)

そう思いながら歩み寄り、軽く会釈した冬香だが、女性の顔を見た途端に驚いた。
自分とそっくり、瓜二つだったからだ。

(あー、おっちゃんが言ってた“一目瞭然 ”って、こういう意味か……)

女性のほうも驚愕し、言葉を発することができずにいる。

冬香は彼女の正面に腰を下ろした。

改めて顔を眺めると、白い肌が非常に荒れ、目の下にクマができている上、
セミロングの茶色い髪の中に白いものが目立つ。
着ているスーツは、少々くたびれた感じだ。

(うーん、とても40にゃあ見えねえなあ……)

もっと老けて見える。それに、なんだか疲れきっているみたいな。

「……あの……冬香、くん……?」

おずおずと女性が言った。酒焼けしたような声だ。

「あ、うん」

「冬の香り、と書くんでしょ? 素敵な名前をつけてもらったのね……」

「うん、すげえ気に入ってる。オレにとっちゃ最高の名前だ」

「そう……。あの、ごめんなさいね。ほんと悪いことをしたと思ってるわ……」

女性は深々と頭を下げた。

「でも、どうしても育てられなかったの。あなたがおなかの中にいるってわかったとき、彼と話し合って、
ちゃんと結婚して子供を育てようって決めたのに、そのあと彼がいなくなっちゃって……。
あのとき、わたしはまだ学生で、親に妊娠したこと言ってなくて、段々大きくなるおなかを隠すのが精一杯で……」

(んで、こっそり産んで捨てた、っつうわけか)

「ごめんなさい……」

女性は俯き、ぱたぱたと涙をこぼした。

「ほかに方法がなかったの……ああするしかなかったのよ……」

(にしても、せめて、もっとオレに厚着させてくれても良かったんじゃねえの?
雪が降るくらい寒い日だっつうのに、バスタオルとタオルケットでくるんだだけなんて、いくらなんでもヒデェじゃん。
危うく死んじまうとこだったらしいぜ? 母ちゃん、もうハンパなく怒ってた。
ここに母ちゃんがいたら、間違いなくアンタをブン殴ってたよ。きっとボコボコだったろうな)

そう思うが、口にはしない。
今更こんなことを言っても仕方ない。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

女性は謝罪を繰り返すばかりだ。

「あー……とりあえず、涙ふいてくんねえか。そんな泣かなくていいからさ。
オレぁ別にアンタを恨んでねえし、責めるつもりもねえよ」

むしろ感謝している。
“オレを産んで捨ててくれてありがとう。おかげで世界一の家族ができて、オレは世界一の幸せ者だ ”
と言いたいくらいだ。

「えっと……なんか飲もっか。そしたらアンタも落ち着くんじゃねえ? コーヒーでいい?」

女性が頷いたので、冬香は電話でコーヒーをふたつ頼んだ。

間もなく運ばれて来たそれを、互いに黙って何口か啜る。

「……ちったぁ落ち着いた?」

「ええ……」

女性は泣き腫らした赤い目で冬香を見据え、微笑を浮かべた。

「ほんとに、よく似てるわね、わたしたち……」

「まあ、な」

「誰が見ても、親子って思うわね……」

「………」

「でも、髪だけは、あの人にそっくり……」

「へえ?」

「彼も、そういう色で癖毛だったから……」

「ふうん」

「………」

もう女性に言いたいことはなさそうだったので、そろそろ本題に入ろうと冬香は思った。
そのために、自分を産んだ女に会いたかったのだ。

「あのさ、ひとつ訊きてえことあんだけど」

「なに……?」

「アンタか、その彼に……ええと……ちょっと違うとこ、ある?」

女性は不思議そうな
表情(かお)をした。

「それって、どういう……?」

「だから、つまり……見える、とか、感じる、とか」

「え……なにを……?」

(う〜……ほかに、どう言やあいいんだろ……?)

できることなら、はっきりきっぱり訊きたい。
だが、答えが否の場合、逆に質問されたら説明に困るし、説明したくもない。

(……や、ちょっと待て)

もし、そうであるなら、今の訊き方でピンとくるのではないだろうか?
皆まで言わなくても、その意味が大体わかるのではないか? 
たぶん、きっと、わかるはずだ。
ということは、この女は恐らく、そうではないのだろう。
男のほうが、そうなのかもしれない。

「あー、ごめん、もういいや。今のナシ。忘れてくれ」

「え? ええ……」

「んで、その彼って、今どこにいんのかな? アンタ知ってる?」

「……会いたいの?」

なんだ? と冬香は思った。女性の表情が急に険しくなったからだ。

「あぁ、うん、できれば」

「無理よ、会えないわ。いなくなって何ヶ月か経ったあと、事故かなにかで死んだって
人伝(ひとづて)に聞いたから」

そう告げる声も、ひどく険しい。それまでは脆弱な口調だったのに。

「いい気味だわ。天罰が当たったんじゃない? 
妊娠した恋人を置いて、どこかに消えちゃうような最低の男だもの。当然の報いよ」

そして彼女は、彼の悪口を言った。言い続けた。止まらない。

見知らぬ男のこととはいえ、段々いやな気分になってきて、

「じゃあオレ、これで」

と女性の話を遮り、冬香は立ち上がった。もう用は済んだ。

その腕を、とっさに女性がつかむ。

「待って、待ってちょうだい。あの……あなたが今いる家って、どんな家庭なの? お父さん、なにやってる人?」

「……フツーのサラリーマンだけど、それがなに?」

「……お金の余裕、ないかしら?」

「は?」

「実はね、主人と一緒に商売やってるのよ、わたし。でも、ここ何年も上手くいってなくて……。
だから、できれば、少しでいいから貸してほしいの」

冬香は眉を寄せた。

「……本気で言ってんのかアンタ?」

「ええ、本気よ。銀行からはもう融資してもらえないし、サラ金にもこれ以上借りられないし、
友達や知り合いからは断わられて、ほんとに困ってるの。金策に走り回ってるような毎日なのよ。
だから、あなたがわたしを捜してるって聞いたとき、天の助けだと思ったわ」

冬香の眉間の皺が更に深くなった。

(じゃあ、最初っから狙ってたのか、それ?)

だったら、泣いたのも、何度も謝罪したのも、嘘? 
弱々しい喋り方をしたのは、同情を引くための演技?

「ね、お願い。おうちの人に話してみてくれないかしら? わたしを―――お母さんを助けると思って」

「っ!」

冬香は思い切り女性の手を振り払い、急ぎ足で出入り口へ近付き、ドアを開けて叩きつけるように閉めた。
走ってエレベーターに乗り込み、早く1階に着けと願う。あんな女の近くにはいたくない。早々に離れたい。
扉が開くと同時に駆け出し、外へ出て、そのままタクシーに乗り込んだ。


  *     *     *     *     *     *


『そうか……』

電話の向こうで、海神が溜め息をついた。

『一応調べてみたら、あちこちに借金をしていることがわかってね。
きみの実家のことを知ったらお金の無心をするかもしれないと考えて
ごく普通のサラリーマンだと答えなさいと言ったわけなのだが、
まさかそれでも無心するとは思っていなかったよ。なりふり構わずだな』

「非常識にも程があるっつうんだ。すんげえ気分悪ィぜ」

『会わないほうが良かったかい? 後悔している?』

「あ、ううん。収穫はなかったけど、そりゃ訊かなきゃわかんなかったわけだしさ。
女のほうの遺伝じゃねえってことだけはハッキリしたから」

ソファーに寝転がっていた冬香は上体を起こし、話を続けた。

「それよか、おっちゃん、あの女にオレの実家の住所とか言ってねえよな?」

『もちろん。名前と、東京在住の大学生であることしか教えていないよ。
ほかに知りたいことは自分で本人に直接訊くようにと伝えておいた』

「じゃあ、女がオレんち押し掛けて、じいちゃんと兄ちゃんたちとタカじいに迷惑が掛かる、
なんてこたぁ絶対ねえわけだな?」

『ああ、絶対ない。心配無用だ』

「良かった……」

ほっと息を吐く。
それが一番の気掛かりだった。

『では、この件は終わりにしよう。もう忘れなさい』

「うん、そうする。ホントごめんな、いろいろ面倒かけて」

『いいや。なにかのときは、いつでも遠慮なく頼ってくれて構わないよ』

「あんがと。んじゃ、また。元気でな。あんまムリすんじゃねえぞ?」

『きみもね。京介くんによろしく』

「おう」

冬香は携帯電話を切った。

(つっても、いねえんだよ、きょおすけは……)

マンションに帰って来たら、部屋の明かりが消えていて、彼の姿はなかったのだ。
出掛けるとは言っていなかったし、メモなども残されていないので、どこへ行ったのか全然わからない。

「おめえが喋れりゃあいいのになあ……」

隣で毛づくろいしている愛猫を見て、吐息混じりに呟く。

それにしても、本当にいやな気分だ。不愉快でしょうがない。
あの女の顔を見るのも、同じ空気を吸うのも耐えられなくなって、さっさとホテルから出て来たのだが、
その前に文句を言うなり怒鳴りつけるなりしてくれば良かった。
そうすれば、ある程度は気分がスカッとし、ここまで引きずらずに済んだかもしれない。

(……や、ダメだな。やっぱ、黙って出て来て正解だったよ、うん)

文句を口に出したら、たぶん手も出ていた。間違いなく殴っていた。
どんなに腹が立っても女に手を上げてはいけない、という兄たちの教えを無視することになってしまう。
それはいやだ。絶対したくない。

溜め息をつきながら、なんとなく室内を見回すと、キッチン・カウンターの上に並ぶボトルが目についた。
京介が買った酒だ。

ちょっと飲んでみようか、と思う。
アルコールは苦手だが、酔っ払えば憂さ晴らしができるかもしれない。
酔ったことがないので確証はないけれど。

冬香はカウンターの椅子に座り、まず手近なボトルを1本取って蓋を開け、少しだけ舐めてみた。

「うげ〜、まっずぅ〜……」

だめだ。とても飲めそうにない。

別の酒を味見したが、それも然り。次のも同様だ。

(じゃあ、これは……あれ? ほかのと違うな)

ほかのものはラベルに横文字が書いてあるのに、これだけは漢字だ。ボトルの形も違う。
まだ開封されていないが、まあ、いいだろう。あとで京介に弁償すれば。

開けて舐めてみると、意外だった。かなり甘いのだ。

(お、こりゃイケるかも)

味が濃いので氷とミネラル・ウォーターを入れたら、飲みやすくなった。

ちゃぺがやって来て、なになに? と問うように鳴く。

「おう、おめえも飲むか? って、ネコに酒って大丈夫なのかな?」

ちょっとくらいならいいかと思い、皿に注いだ。

ちゃぺは鼻を寄せ、ふんふんと匂いを嗅いでから、ぺろぺろと美味しそうに舐めた。
そして、もっとちょうだいよーと催促するかのような鳴き声を上げる。

「へえ、やるじゃん」

ソファーに移動し、ひとりと1匹の小さな宴会が始まった。
おやつ用に買ってあったポテト・チップスやクラッカーをつまみにした。

「―――なにをやってる」

そんな声が聞こえたので振り返ると、京介が立っていた。