SEQUEL〈3〉




湯船の中で、夏輝と秋斗は口論を始めてしまった。
論点は、今晩どちらが冬香と一緒に寝るかという他愛のないものだ。
しかし、彼らにしてみれば、可愛い末弟を独占できるか否かは極めて重要な問題である。
ゆえに、決して譲れない。

「俺はあしたの夜にはまた出掛けなきゃならないんだよ。2、3ヶ月先まで帰って来られないんだ。
おまえはまだ休暇中でしばらく家にいるんだから、今夜じゃなくてもいいだろうが」

それが秋斗の主張。

「馬鹿を言うな。俺だって冬香と一緒に寝るのを楽しみにしてたのに、
急にマドリードに飛ばなきゃならなくなってお預け喰らったんだぞ。
もうこれ以上待てるものか。おまえは次の機会まで我慢しろ」

それが夏輝の主張。

いい年をした大人が、そんなことを本気で言い合っている。

早乙女家において、特に珍しいことではない。
末弟の争奪戦は、兄がふたり以上揃えば必ず行なわれる茶飯事なのだ。

毎度のことながら、なんだかなあ……という気分の冬香である。
だが、もちろん嬉しい。
だから、申し訳ない。自分が兄たちよりも京介を欲していることに罪悪感を覚えてしまう。

さっきは辛抱できなくて、つい彼を追い掛けて背中に抱きついてしまったが、本当はいけないのかもしれない。
ああやって甘えることなど、許されないのかもしれない。
でも、たぶん、またやってしまうだろう。京介がそばにいたら、きっと。彼に拒絶されない限り。

(……ごめん。そんだけは、大目に見てくんねえか。頼む……)

虫のいい望みだとわかっているけれど、願わずにいられない。
あの温もりがないのは、どうしても耐えられそうにないから―――

兄たちの口論する声が大きくなって、冬香は現実に引き戻された。

「あー、あのさ、3人一緒に寝ようよ。それが一番いいってば」

「「良くない!」」

ふたりから同時に却下されてしまった。いつものことだ。

そして彼らは、じゃんけん勝負へ突入する。それもまた、いつも通りだ。

結局、冬香は秋斗と共に就寝することになり、

「んなガッカリすんなよ、ナッちゃん。あした一緒に寝ようぜ。な?」

と次兄を慰め、浴槽から出た。
長湯が当たり前の兄たちに付き合うと絶対のぼせてしまうため、早々に入浴を終えたのである。

「ちゃんと髪を乾かすんだぞ?」

「眠かったら先に寝てていいからな」

夏輝と秋斗は順番に末弟に声を掛け、彼の気配が脱衣所から完全に消えるのを待って、即座に顔を見合わせた。

「おまえ電話で、冬香に好きな子ができたと言ってたけど」

「ああ、間違いない。ただ、本人が恋だと自覚してないだけだ」

「その相手って、もしかして……」

「おまえも同じことを思ったか」

「やっぱり、そうなのか?」

「断定できないが、あの様子だと可能性は高いだろう」

冬香の態度は普通ではなかった。明らかに京介のことを意識していたのだ。
ほかの人間なら気付かないかもしれないが、兄たちの目は誤魔化せない。
なにせ彼が生まれたときから見てきたのだから。

「それで、一緒に食事してみてどうだったんだ、冬野くんは?」

「ほぼ文句なし。フレンチを出して、身内しかいないからマナーなど気にせず好きなように食べろと言ったんだが、
言う必要はなかった。完璧だったよ。それに、土産に持って来てくれたワインはリゼルヴェだ。中々趣味がいい。
しかも、政治や経済や文化の話を振ったら、よく知っていて、よどみない答えが返ってきた。
おまけに、俺たちと同じくらい酒が強い。いや、俺たち以上かも」

「だな。あのまま飲み続けてたら、たぶん俺たちのほうが先に潰れてた」

「かなり無口で無表情なのが、欠点といえば欠点か」

「無駄に口数が多い奴よりはマシだと思うぞ?」

「まあな」

ふたりは揃って天井を仰ぎ、夏輝が呟くように言った。

「嬉しいよ、俺は。たとえ相手が冬野くんだとしても、やっぱり嬉しい」

「同感だ。誰かを好きになるくらいまで立ち直ってくれたんだから」

「ああ。祝福したいし、応援したい」

「俺だって同じさ」

夏輝も秋斗も、同性愛に偏見はない。
“どんな趣味や嗜好を持とうが個人の自由”という冬香の考え方は、彼らの教えなのだ。
とはいえ、末弟がそうだとすると、正直、複雑な心境に陥ってしまうのは否めない。
しかし、それを凌駕するほどの大きな喜びがある。

「ところで、ハルにはもう?」

秋斗に問われ、夏輝は首を横に振った。

「一度連絡を入れたんだが捕まらなくて、それきり電話してないから」

「結果的には良かったじゃないか」

「まったくだ」

春弥の末弟に対する思い入れは、ほかのふたりのものと少し違う。兄の情愛というより、親のそれに近い。
両親が亡くなって以降、一層その傾向が強くなった。長男としての責任感が、そうさせたのかもしれない。
だから、冬香が恋をしたと知ったら純粋に喜ぶだろうが、相手が同性だと知ったら怒り出すか、嘆き悲しむか。
なんにせよ、賛成だけはしないはずだ。

「はっきりわかるまで、ハルには内緒にしておこう。
相手が女の子なら知らせるけど、もし本当に冬野くんなら黙ってるということで。
いいな、アキ?」

「ああ、それが賢明だ。―――さて、そろそろ出るか」

「そうだな。けっこう汗かいた」

ふたりが部屋に戻って開扉すると、室内の明かりは消え、ベッドサイドの照明だけがついていた。
もう冬香は眠っているらしい。

「じゃあ可愛い寝顔を見て、おやすみのキスをしていこうかな」

と言いつつ夏輝が中へ入り、秋斗も続く。

そのとき、かすかに声が聞こえてきた。呻き声だ。苦しげに名を呼んでいる。

瞬間、兄たちは顔を強張らせ、同時に駆け出し、ベッドに飛びついた。


*     *     *     *     *     *


電話が鳴った。午前2時を回った頃だ。
布団の中で本を読んでいた京介は、すぐに起き上がり、リビングへ行って受話器を取った。
秋斗からだった。

『こんな時間に申し訳ない。これからお邪魔させてもらっていいだろうか?
冬香を引き取ってほしいんだ。だめかな?』

「構いませんが、どうしたんですか」

『いつもの夢を見たらしくてね』

「……お兄さんたちがいるのに、ですか」

『残念ながら、俺たちがいれば大丈夫というわけじゃないんだよ』

京介は少し驚いた。それは知らなかった。

『でも、冬香が落ち着いてから話を聞いたら、きみが一緒だと絶対ぐっすり眠れると言うじゃないか。
だから、安眠できるかどうかわからない実家にいさせるより、マンションに戻らせたほうがいいだろうと判断した次第だ』

なるほど、と思う。

『ずっと冬香と一緒に眠ってくれているそうだね。ありがとう。感謝するよ』

「いえ、とんでもない」

『実は今、そっちに向かってるところなんだ。あと1時間ほどで着くかな』

「わかりました。お待ちしてます」

きっちり1時間後、ふたりがやって来て、京介は玄関で出迎えた。

パジャマ姿の冬香は秋斗に抱きかかえられている。泣き疲れたのか、ぼんやりした表情だ。
だが、美顔を見ると急に小さく震え出し、のろのろと両手を伸ばしたので、
京介は秋斗から冬香を受け取り、その腕を自分の首に巻きつかせた。

「中へどうぞ。お茶を淹れます」

「いや。もう遅いから、ここで失礼させてもらうよ」

そして夏輝は口調を改め、

「本当にすまないが、冬野くん、どうか弟をよろしく頼みます」

と言って頭を下げた。
秋斗も一礼した。

それから揃って末弟の顔を覗き込み、声を掛ける。

「ゆっくり寝るんだぞ? しばらく会えないかもしれないが、元気でな」

「パジャマのポケットに携帯を入れておいた。あした電話するから」

冬香がかすかに頷き、ごめん……と呟いた。
その頭を交互に撫でて、再び京介に詫びと礼を告げ、ふたりは帰って行った。

ドアが閉まると、京介は即座に踵を返し、私室へ向かう。
ベッドに寝かせようとしたが、冬香が腕をほどかないので、そのまま一緒に横になった。
ちゃぺも駆け上がってきて、枕元で丸くなった。




レジデンス・コウの近くに停めてあるケ●ニッヒ・テスタロッサ・コンフォートの中、
運転席の夏輝も助手席の秋斗も微動だにしない。背中をシートに預け、前方を見据えている。

「まさか、アレが再発していたとはな……」

やがて秋斗が吐息混じりに言い、

「ああ、さすがに驚いたよ……」

夏輝が吐息混じりに応えた。

無理もない、仕方ない、と思う。
その反面、もう充分だろう、もう縛られることはないだろう、とも思う。
だが、それは冬香の気持ちの問題だ。
(はた)からは、どうすることもできない。

「とにかく、冬野くんがいてくれて良かった。彼には、どんなに感謝しても足りないくらいだ」

「本当に。……なあ、ナツ。決まり、だよな」

「ああ、決まりだろう。やっぱり彼だったようだ。
そうでなければ、一緒だと必ず熟睡できるなんていう絶対的な安心感は得られないだろうさ」

「それに、さっき、当たり前みたいに手を伸ばしていたしな。
冬野くんのほうも当然のように冬香を抱きつかせていたけど、その気があるのか? 
あるいは、ものすごく面倒見がいいだけ?」

「わからない。少なくとも、普段からああいうふうに冬香を介抱してくれてることだけは間違いなさそうだが」

「だな。それほど自然な遣り取りだった」

ふたりは同時に溜め息をつく。

「できることなら成就させてやりたいけど、こればっかりはなあ」

「黙って見守るしかないだろう。俺たちが動くのは冬香が助けを求めてきたときだけだ。
……さて、とりあえず帰るか」

夏輝は愛車のエンジンをかけた。独特の音が暗闇に響き渡った。


 *     *     *     *     *     *


冬香は翌日以降、昼間は実家へ帰って兄と共に過ごし、夜にはマンションへ戻るという生活を送るようになった。
それが最善の形だった。

そして、何事もなく日々が過ぎ、夏休みが半分ほど終わった頃。
ある晩、冬香の携帯電話が鳴った。

「おっちゃん? うわー、久し振り。元気か?」

『変わりないよ。きみたちはどうだい?』

「おう、元気。相変わらずだ」

『それは良かった。ところで、今マンションにいるのかな?』

「うん」

『京介くんは?』

「いねえ。タバコ買いに行ってる」

『では、このまま話してもいいね。―――きみの探し人が見つかったよ』

一瞬、冬香は絶句した。

「……ホ、ホント? ホントに? 間違いねえ?」

『ああ。一目瞭然の上、当時の状況などを聞いて確信を得た。
間違いなく、きみを産んだ女性だ』