SEQUEL<2>




京介としては、冬香の次兄に会って付き合い程度に食事をとったら、すぐ帰るつもりだった。
長居する必要はないだろうと考えた上、兄弟水入らずの邪魔をしたくないという思いが依然あったからだ。
それゆえ、冬香と共に迎えの車に乗って早乙女邸を訪ね、案内された食堂で夏輝と挨拶して手土産のワインを渡し、
3人で雑談しながら見た目も味も最上級の食事を済ませると、帰る旨を告げようとした。

だが、そのとき突然、食堂のドアが勢い良く開き、早乙女家の三男・秋斗が現われた。
走って来たようで、少々息が乱れている。

「おかえり。意外に早かったな」

と夏輝は笑顔で迎え、食後のコーヒーを給仕していた高木も笑みを添えて頭を下げた。
ふたりとも、秋斗が帰国することを知っていたらしい。

しかし、冬香は驚き、目をまん丸にした。

「ウッソ。アキちゃん、なんで?」

「ちょっと時間ができたから帰ろうかどうしようか迷ってたら、
おまえが冬野くんを家に連れて来ると聞いたんで、急いで飛行機に乗ったんだよ」

呼吸を整えながら説明し、秋斗は京介に歩み寄って片手を差し出した。

「我が家へようこそ、冬野くん。久し振りだね。元気だったかい?」

「はい」

京介も手を出し、握手に応える。

「また会えるのを楽しみにしてたんだ。前に言った通り秘蔵の酒をごちそうしたいんだけど、いいかな?
ゆっくりしていける?」

「はい」

さすがに、帰りますとは言えなくなってしまった京介である。

「良かった。ブリュッセルから飛んで来た甲斐があったよ」

そして秋斗は冬香のそばへ行き、彼とハグしてキスを交わした。

「熱を出して寝込んだんだって? もう大丈夫なのか?」

「うん、すっかり。それよか、帰るんなら知らせてくれりゃあ良かったのに」

「おまえをびっくりさせたくてな。ナツにもタカじいにも口止めしておいた」

「ガキみてえだな、もぉ」

あははと笑い、秋斗が夏輝を見やる。

「食事は? もう終わったのか?」

「ああ。ちょうど冬野くんに酒を勧めようと思ってたところだ」

「いいタイミングだな。じゃあ俺の部屋に行こう。酒もグラスもある」

「了解」

「シャワーを浴びて着替えたいから、先に行ってるぞ。
―――タカじい、つまみを用意してくれないか。ブランデーに合うものを適当に」

「承知いたしました」

3人はコーヒーを飲んでから食堂を出たのだが、
途中、冬香が京介を愛犬の部屋へ連れて行くと言い出し、いったん夏輝と別れた。

「せっかく来たんだから、前に話したワンコ紹介するよ」

「たぶん俺には懐かないと思うが」

「あー、そういや前に、んなこと言ってたっけな。
でも、きっと平気だって。まるっきり人見知りしねえヤツだからさ」

ドアを開けて名を呼ぶと、ワンコは弾むように起き上がり、双眸を輝かせながら冬香に向かって駆け出した。
ところが、急に足を止め、巨体を反転させるやいなや、まるで逃げるように奥の壁際まで走って行ってしまった。
大きな身体を丸め、ガタガタと震えている。尋常ではない怯え方だ。

「ワンコ? どうしたんだよ一体? 別になんも怖くねえぞ?」

そばにいって背中を撫でてやるが、一向に様子は変わらない。

「ワンコってば。きょおすけに顔見せてやれよ。なあ、オイ」

「もうよせ。無理強いしたら可哀想だ」

「うーん……。じゃ、またあとでな」

わしゃわしゃと愛犬の頭を撫でてから出入り口に戻り、冬香はドアを閉めた。

「ごめん、気ィ悪くしたよな。いつもはあんなじゃねえんだけどさ」

「おまえが謝ることはない」

「なんでだろ? ちゃぺは懐きまくってんのに」

「ちゃぺが特別なんだ。ほとんどの動物は怯える」

「ふうん。やっぱ、美人すぎて怖ェのかな?」

「なにを馬鹿な」

「や、結構本気なんだけど。―――んじゃ、アキちゃんとこ行こっか」

秋斗の私室で宴会が始まった。
冬香はアルコールが苦手なのでアイス・コーヒーを飲み、ほかの3人はコニャックを味わう。

並んで座る夏輝と秋斗を眺め、やはり兄弟だと京介は思った。
前に冬香が言っていたように、確かに複胎の兄弟には見えないのだが、眉と目のあたりはそっくりなのだ。
声質も似ていて、顔を見ないで声だけ聞いたら区別がつかないかもしれない。

「よし、冬野くんに俺の大事なコレクションを見せよう」

そう秋斗が言い出し、室内の片隅の本棚からアルバムを持って来た。

それには、冬香の赤ん坊の頃の写真が大量に納めてあった。どのスナップも大変可愛らしい。
顔立ちは現在と大差なく、そのまま小さくしたような感じだ。
祖父と両親、それに3人の兄と一緒に写っているものも沢山ある。
当然のことながら兄たちは若く、まだ少年っぽさが抜けていない。やはり3人揃って眉と目元が酷似している。

ふと、京介は違和感を覚えた。

同時に、冬香が手を伸ばしてアルバムを閉じた。

「もういいだろ? なんか恥ずかしいよ。終わりだ終わり」

「じゃあ今度はDVDを観よう。冬香の成長記録だ」

「やめろよ、アキちゃんっ。絶対ヤダッ。もっと恥ずかしいってばっ」

「あー、はいはい。わかったから、そんなにムキになるな」

コニャックがなくなると、アルマニャック、マール、グラッパ、カルヴァドス、キルシュヴァッサー、
スリボビッツ、フランボワーズを次々と空けた。すべて、酒マニアの秋斗が買い集めたブランデーである。
ずいぶん飲んだのに、それでも3人は崩れない。まさにザルといえよう。



「―――そろそろ失礼します」 

と京介が告げたのは、間もなく10時になろうという頃。

「え、帰んの? 泊まってけば?」

即座に冬香が言い、

「ああ、それがいい」

続けて秋斗が同意し、

「なにか予定があるとか?」

次いで夏輝が尋ねた。

「いえ。猫がいるので帰らないわけにいかないんです」

それを聞いて、冬香は引き留められなくなってしまった。
確かに、ちゃぺを一晩もひとりにするわけにはいかない。
エサと水は常に飲食できるようにしてあるから問題ないが、きっとひどく寂しがるだろう。
でも、京介と離れたくない。離れることに不安を感じる。たとえようのない不安を痛いくらいに―――

「そうか、残念だな。じゃあ次は猫を連れて遊びに来てくれ」

「ブランデー以外の酒も仕入れておくから、ぜひまた一緒に飲もう」

「ありがとうございます」

玄関まで兄弟に見送られた京介は、そこで改めて礼を述べ、外に出た。
車で送らせるという夏輝の申し出は断わった。

広い庭を通り抜け、門に着く。
そのとき後方から足音が聞こえてきて、背中に衝撃を感じた。
振り返ると、冬香が抱きついていた。

「あの……あのさ、きょうは来てくれて、ホントあんがと」

「いや。俺のほうこそ、すっかりごちそうになった」

「え、っと……ちゃぺのこと、頼むな?」

「ああ。おまえは兄貴たちとのんびり過ごせ。それから、約束を忘れるな」

もしまた夜ひとりで眠らなければならないような状況になったら、必ずマンションに戻る―――今朝、そう約束した。

「うん、わかってる」

「兄貴たちはどうした。おまえを待ってるんじゃないのか」

「ううん、とりあえず部屋に帰ってったから」

「そうか」

ならば、気が済むまで抱きついていればいい。

背中を冬香に貸したまま、京介は何気なく周囲を眺めた。
夕方、初めて門内に入ったときも思ったが、実に広大な屋敷と敷地だ。使用人も数多く見かけた。
恐らく並みの資産家ではないだろう。
ということは、冬香の祖父はかなり名の知れた人物だと考えられる。
早乙女という名前の有名な富豪といえば……

―――もしかして、早乙女
鳳吉(ほうきち)

扱っていない業種はないといわれる鳳王グループの会長。
父親から譲り受けた小さな雑貨店を、たった一代で世界有数の大企業にまで成長させた。
一時的な好景気に幻惑されることなく、冷静かつ堅実に経営を続け、
今まで赤字決算を出したことや負債を抱えたことは皆無。
また、ときには誰もが驚愕するような大胆かつ非常識な戦略を打ち出し、
大方の予想を裏切って成功を収め、莫大な収益を得たことも数え切れない。
日本国内はもちろん、他国の財界にも極めて大きな影響力を持つ傍ら、政界や裏の社会にまで顔が効く。
別名・影の支配者。
と、本かなにかで読んだことがある。

それに確か、その息子夫婦が不慮の事故で亡くなったということも、なにかに書いてあった。
加えて、一般人に混じって試験を受けた末に入社した孫たちが、驚異的な業績を上げて異例の速さで重役に昇進し、
プライベート・ジェットで世界中の支社や子会社などを回りながら仕事をこなしている、ということも。

「……冬香」

「え?」

「おまえのおじいさんは、早乙女 鳳吉氏か」

「あ、うん。よくわかったな。さっき写真見たから?」

「いや、顔までは知らなかった。
―――そんな大物と親しいということは、海神さんも只者じゃないのか」

「おっちゃん? えーっと、その気んなれば、できねえこたぁなんにもねえらしいぞ?
そんだけのチカラ持ってるって、兄ちゃんたちが言ってた。
……なに? おめえ、父ちゃんから聞いてねえの?」

「凄腕の実業家としか聞いてない」

「ふうん。じゃあ、知らねえのかもな」

いや、きっと知っている。
それゆえ父親は、この得体の知れない息子を彼に預けたのだろう。
なにが起こっても、どんな事態に陥っても、
充分に対処できるほどの権力や人脈や財力などを所持している人だからこそ。
遅まきながら、納得がいった。

しかし、妙だ。そんな大物の祖父と有力者の海神がついていながら、
なぜ冬香の少年院行きを阻止しなかったのか? 
正当な手段ではないけれど、彼らの実力を行使すれば簡単にできたはずだ。
3人の兄たちも可愛い末弟を少年院になど入れたくなかったろうに、一体なぜ?

やがて、冬香が両腕をゆるめた。

「……ごめん、いつまでもくっついてて」

「もういいのか」

「まだ足んねえけど、キリねえから……。タクシー、捕まるかな?」

「たぶん大丈夫だ。この前も、すぐ拾えた」

「そっか。……じゃ、また、な」

「ああ」

「えっと、マンションに戻るとき、連絡すっから」

「ああ」

「……気ィつけて帰れ」

「ああ」

意を決したように素早く腕をほどき、くるっと背を向け、冬香は走って行った。
一度も振り返らなかった。

彼が玄関へ入ったのを遠目に確認してから、京介は門を出る。

どこで鳴いているのか、コオロギらしき虫の声がかすかに聞こえた。





冬香が部屋に戻ると、ふたりの兄は入浴の準備をしていた。

「あれ? 風呂?」

「ちょっと飲みすぎたから、ひと汗かいてサッパリしようと思ってな」

秋斗が答え、

「おまえもどうだ?」

夏輝が誘い、

「うん、行く」

冬香は頷いた。

家の1階に、旅館並みの大きな浴場があり、温泉も出る。
普段は各々の私室に備えられた浴室を使うのだが、そこのバスタブが少々狭いため、
ゆっくり入りたいときは1階の浴場へ出向くのだ。
兄弟で一緒に入浴するのは久し振りだった。