SEQUEL<1>




次第に意識が戻ってきて、冬香はうっすらと瞼を持ち上げた。

静寂と薄闇の中、見覚えのある天井が広がっている。
それがマンションの個室の天井だと理解するまで、少しだけ時間が掛かった。

「目が覚めたか」

静かに問う声が降ってくる。

ゆっくり顔を動かして見ると、枕元に美丈夫が座っていた。

「きょおすけ……」

「具合はどうだ。平熱に戻ったから、もう大丈夫だと思うが」

「熱……?」

「憶えてないのか」

「って……?」

「熱を出して実家で寝込んだんだ」

「……あ―――あぁ、うん……」

そういえば、そうだった。ぼんやりと思い出した。

「えっと……オレ、おめえに電話かけたんだよな……?
そしたら、おめえ、迎えに来てくれて……。外で会ったんだっけ……?」

「ああ」

「んで、そのあとは……?」

「タクシーに乗って帰って来た」

「タクシー……? あー……うーん……ダメだ、わかんねえや……」

無理もないと京介は思う。あんな状態で憶えているほうがおかしい。

「あの、ごめんな、また面倒かけちまって……。あと、迎えに来てくれて、あんがと……」

「いや。それより、具合は」

「あー……すんげえ、だりぃ……。なんか、自分の身体じゃねえみてえ……」

「仕方ない。丸2日間ほとんど眠ってたんだ」

「え、そんなに……?」

「途中、喉が渇いたとかトイレに行きたいと言って何度か目を覚ましたが、憶えてないだろう」

「うん、サッパリ……。あ、じゃあ、ずっとオレについててくれたわけ……?
だったら、おめえ、全然寝てねえんじゃねえの……?」

「2、3日くらい眠らなくても平気だ」

「でも―――」

ぎゅるるる……と冬香の腹部が鳴った。

「ありゃ……」

「食欲はあるか」

「うん、なんか喰いてえ……」

「まずは粥からだ。用意してくる。手を放せ」

「え……手……?」

「右手だ」

自分のそれを見ると、京介の髪の先端をひと房、握り締めていた。

「あ、悪ィ……」

驚きつつも、のろのろと手を引っ込める。

「あの、もしかして、眠ってるあいだ、ずっと握ってた……?」

「ああ」

「引っぺがせば良かったのに……。うっとうしかっただろ……?」

「いや、別に」

そして京介は立ち上がり、部屋から出て行った。

開け放たれたドアから、ちゃぺが遠慮がちに顔を覗かせる。
室内に足を踏み入れていいのかどうか迷っている様子だ。

「あは、気ィ使ってんのか……? ほら、いいぞ、こっち来い……」

嬉しそうに走り出し、ベッドに駆け上がって来た愛猫を、冬香は抱き寄せて胸の上に乗せた。

「ちょこっと久し振りだな……。元気だったか……?」

元気だよーと答えるように鳴き声が返ってくる。

「冬野です。朝早くにすみません」

居間のほうから美声が聞こえてきた。どうやら電話をしているらしい。

「……はい、ついさっき。……食欲があるので、もう大丈夫だと思います。
……もう少し元気になったら、連絡を入れさせますから。
……いえ、とんでもない。……はい。……はい、失礼します」

受話器を置いた京介は、そのままキッチンへ向かったようだ。

(誰に掛けたんだろ……? オレのこと言ってたけど……)

ということは、寝込んだことを知っている人間だ。

(―――あ、タカじいか……。そういや、オレ、黙って出て来ちまったんだっけ……)

きっと心配して、何度も電話をくれたに違いない。悪いことをしてしまった。

(ったくもう、オレってヤツぁ……)

どっぷり自己嫌悪。

あのまま実家で休んでいたら、京介に迷惑を掛けることも、高木に心配を掛けることもなかったのに、
どうして京介に電話なんかしたのだろう? どうして外へなんか出たのだろう?
己れの行動ながら、わけがわからない。

―――いや、わかる。
よく考えれば思い出せる。徐々に記憶がよみがえってくる

(え……? えっ……? ええっ……!?)

そうだ。京介に会いたくて、気付いたら電話に手を伸ばしていた。
じっとして迎えを待つなんてできなくて、少しでも早く会いたくて、だから外へ出た。
彼が恋しくてたまらなかった。
つまり、そういうことなのだ。次兄の言った通りだった。

(うわあ〜……っ)

どうしようどうしようどうしよう? 
いかんせん経験のないことなので、なにをどうすればいいのか見当もつかない。

思い起こせば、第一印象は最悪だった。とんでもない男だと思った。
だけど、実は底抜けに優しい奴で、これでもかというくらい面倒を見てくれて、
常に行動を共にしたり、同じベッドで眠ったりと、普通ならやらないようなことまでやってくれて。

なぜ京介が一緒だと安眠できるのか疑問だったが、今なら理解できる気がする。
あの頃から彼は特別な存在になっていたのかもしれない。

(……あれ? どっちなんだ……?)

好きだから安心する、のか? それとも、安心するから好き、なのか?
よくわからない。恋というのは難しいものらしい。

とにかく、この2日間だって、たぶん、京介の髪を握って彼に触れていたから、
あの夢を見ることも、うなされることもなく、ぐっすりと眠れて―――

(っ……!!)

一瞬にして冷めた。まるで冷水を浴びせられたようだった。

好きだと? 恋だと?
なにをいっている? なにを浮かれている?

そんな資格なんかないのに。祖父と兄たちのために与えられた命なのに。
家族を安心させるためだけに生きなければならないのに。

(……こんの大バカ……ドアホ……)

図に乗るな。いい気になるな。身の程を知れ。

でも、だからといって、この気持ちは消せない。なかったことになんてできない。

せめて、決して口にはしないから。絶対絶対、京介にも誰にも告げないから。自分の中に押し込めておくから。
どうか、それで勘弁してくれ―――許してくれ。頼む。

不意に、ちゃぺが鳴いた。どうしたの? と問うような声音だ。

「……ううん、なんでもねえ……」

そう応えつつ、冬香は微笑を浮かべた。
強引にでも笑わないと、泣いてしまいそうだった。




ベッドの中で粥を食べたあと、また休み、次の食事を摂ったのは昼過ぎのこと。
今度はリビングのソファーに座り、固めのリゾットを3杯平らげた。

「ごっそさん。……うん、なんかチカラが出てきたっつう感じ。このまんま起きるよ、もう」

「大丈夫か」

「動いて身体慣らさなきゃ、だりぃの取れねえじゃん」

「無理はするな」

「うん、ちょっとずつ慣らすから。んじゃ交代。今度はおめえの番だ。寝ろ」

起立すると同時に京介の腕をつかんで立ち上がらせた冬香は、半ば強制的に彼を個室へ引っ張って行く。

「いや、いい」

「ダメだって。2日も徹夜したんだろうが」

「別に眠くない」

「だったら横んなるだけでもいいからさ。休んでくれよ、頼むから」

「……わかった」

「じゃあ、おやすみ」

京介をベッドに座らせてから、冬香は踵を返した。

(さあて、コーヒーでも飲も―――)

「まだコーヒーはやめておけ。胃に悪い」

(う……)

「冷たいものもだめだ。ホットミルクにしろ」

「……おう」

個室のドアを閉めた冬香は、自分が使った食器を台所へ運んで洗い、
牛乳を電子レンジで温め、そのカップを持ってソファーへ移動した。
まとわりついて離れない愛猫も、そこに駆け上がった。

(うあ〜、しんどいなあ……)

少し動いただけなのに、ものすごい疲労を感じる。
だが、これはもう致し方ないだろう。

それに、京介の顔を見るのが、気恥ずかしいというか、照れ臭いというか。
これも致し方ないのかもしれない。
おかげで直視できなくて困ってしまったが、このままではいけないだろう。
彼に変に思われないよう、以前のように目を合わせるようにしなければ。

窓の外には晴天が広がっていた。陽光が眩しい。

ふと、高木に連絡しようと思い立つ。
しかし、携帯電話は実家に忘れてきてしまったらしいので、固定電話を使うことにした。

「―――もしもし、タカじい? オレ」

 声を潜めて話す。京介の休養の邪魔にならないように。

『もうお起きになってよろしいのですか?』

「うん、メシ喰ったら元気出た。
あの、ごめんな、黙って部屋からいなくなっちまって。
外までオレを探しに来てくれたんだろ? きょおすけから聞いたよ」

それから「冬香さまがお目覚めになられましたら、
早朝でも深夜でも構いませんのですぐにお知らせください」と懇願したことも、
実家の私室に置いてきた携帯電話を預かっているということも聞いた。
粥を食べたときに京介が教えてくれた。

「ホントごめん。心配かけて悪かった。えっと、その、なんでかよくわかんねえんだけど、
きょおすけに電話しちまって、そしたら迎えに来てくれて、こっちに戻ったっつうわけだ。うん」

とぼけるしかない。真相を白状するわけにはいかないのだ。

すると高木は、小さく笑った。

『じいに説明してくださらなくても結構ですよ』

「や、心配かけたんだから、やっぱ言わなきゃなんねえだろうが」

『じいより、夏輝さまです。
一応、ひとりではつまらないからとおっしゃって冬香さまはマンションにお戻りになった、
というふうにお伝えいたしました。勝手に申し訳ございません』

「ううん、そんでいいよ。気ィ遣わせちまったな。
でも、じゃあ、なんでナッちゃん、こっちに電話よこさねえんだろ?」

『マンションのほうで寝込まれてしまった冬香さまを冬野さまが看てくださっているので、
お電話はご遠慮くださいとお願いいたしましたから』

「あ、そっか。ホントあんがと、なにからなにまで」

見えない高木に向かって、冬香は頭を下げた。

「んで、オレが治ったってこと、もうナッちゃんに知らせたのか?」

『はい。けさ冬野さまからご連絡をいただいたあと、すぐに』

「じゃあ、そのうち電話くるな、きっと」

『はい、恐らく。お電話といえば、携帯電話はどうなさいます? そちらまでお届けいたしましょうか?』

「ううん、いい。夏休みのあいだに、また帰ると思うから、悪ィけど、
それまで預かっててくれ―――あ? なんか聞こえる。キャッチか?」

『夏輝さまではございませんか?』

「かもな。んじゃ、また会おうぜ。いろいろあんがと。世話んなったな」

『とんでもございません。では、失礼いたします』

電話を切り替えると、案の定、次兄だった。
まず容態を訊かれ、次に軽く叱られ、それから京介を家に連れて来いと言われた。
元々この休暇中に会いたいと思っていたし、今回のことで迷惑を掛けたお詫びに食事をごちそうしたいから、と。




「―――てなわけなんだけど、どうかな? ナッちゃん、あさって帰って来るらしいんだ。
だから、その日の夕方くらいに。ヤなら無理にとは言わねえけどさ」

「おまえはどうしてほしい」

「そりゃあ来てほしいよ、もちろん。決まってんじゃん」

「わかった。行こう」