ENCOUNTER〈9〉




マンションに戻った京介は、玄関の鍵をかけてリビングに入ると、不意に足を止めた。
ふたつ並ぶ扉の一方が目に付いたからだ。
昼間、初めて来たとき、客室だろうと思って開けなかった部屋である。

そのドアへ近付き、開扉して中を見ると、隣室と同様10畳くらいの広さで、置かれている家具もまた同じだった。
違うのは、クローゼットが右手にあること、机上にパソコンが設置されていないこと、
そして机と椅子とベッドのサイズが普通ということだ。

つまり海神は、向かって左側の部屋を冬香の私室、右側を京介のそれと決めたのだろう。
恐らく冬香はパソコンを使わないのだ。

ドアを閉め、ソファーへ移動して座り、京介はタバコに火をつけた。

(確かに、ひとりで住むには広過ぎると思ったが……)

まさか誰かと一緒に暮らすことになるなんて予想もしなかった。

海神は一体どういうつもりなのだろう? 
なにが狙いで、どんな目的があって、ふたりに共同生活を強要するのか?

思えば、海神は冬香に関して「もうひとり来ることになっている」としか告げなかった。
その風貌ゆえ女に間違えることは必至なのだから、本人が現われる前に性別を教えてくれても良かったのに。
それに、同居に関しても彼らしくない言葉の使い方だった。
一緒に暮らせと明言せず、「マンションの一室を確保しておいた」などという言い方をしたのは、恐らく故意。
冬香が実は男だと、海神の言葉から察することができないようにするためだったのだろう。

要するに、同居する意味も、ふたりの素性も、どういう人間であるのかも、互いに接して自分で知れ、ということだ。
そういう意図があるに違いない。

(……まあ、いい。とにかく、あの人に従うだけだ)

冬香の扱い方に関して、困ることはまずないだろう。
あれほどはっきり感情が表に出るタイプなのだから、むしろ簡単に扱えると思う。

タバコを吸い終えると、京介は浴室へ直行し、シャワーを浴びた。
次いで、バスタブに身体を沈める。かなり大きな浴槽だ。身長198センチ余りの彼が余裕で脚を伸ばして入れるほど広い。
私室の家具と同じく、海神が特注したものと思われる。
本当に至れり尽くせりだと改めて実感する。

湯船の中で揺れる黒髪―――忌々しい長髪。ばっさり切ることができたら、どんなに楽か。
決して脳裏から離れない人物―――自分と瓜二つの顔。いっそ記憶から消し去ることができたら、どんなに救われるか。
叶わないと知っていても、願わずにはいられない。
いや、叶わないからこそ、余計に願ってしまうのかもしれない。我ながら愚かだけれど。

京介は仰向き、目をつむった。苦い溜め息がこぼれた。


  *   *   *   *   *   *   *   *


快晴の翌朝。運送屋の押すドア・フォンの音を聞いてベッドから出た京介は、
届いた服と靴をそれぞれクローゼットとシューズ・ラックに仕舞い、コットン生地のゆったりした部屋着に着替えると、
まずキッチンでコーヒーを淹れた。メーカーも豆も、すでに用意されていたものだ。
そしてソファーに座り、コーヒーを飲みつつタバコを1本吸ってから、テーブルに手を伸ばした。
そこには、きのうのうちに買っておいたハードカバーの書籍が何冊か積んである。
純文学、ミステリー、エッセイ集、哲学書など、ジャンルは様々。
その中から適当に1冊を取り、ソファーに横臥して本を広げた。
瞬間、彼の周りの空気が変わる。まるで時間の流れがピタリと止まってしまったかのような雰囲気だ。
ものすごい集中力といえよう。

だが、しばらくして、いきなり京介は顔を上げた。
冬香がやって来たからである。

「お、読書中か。悪ィな、邪魔して」

きょうはカモフラージュ柄のオーバーオールに黒のトレーナーという服装だが、やはり非常に可愛らしい。
なにを着ても、そう見えてしまうだろう。

「あのさ、荷物持って来たんだ」

と言いながら左側の部屋の前へ行き、ドアを開けて中を覗く。

「こっち使っていいんだよなオレ。ベッドも机も普通のサイズだもんな」

次いで廊下のほうに顔を向け、少々大きい声で呼ぶ。

「タカじい」

すると、若い男性3人を従えて、いかにも品の良さそうな老紳士が入って来た。
年令は海神より少し上くらいか。

彼等は揃って京介に頭を下げ、老紳士が口を開いた。

「お邪魔いたします。早乙女家の執事の高木と申します。
お騒がせして大変申し訳ございませんが、しばしのあいだご辛抱ください」

京介は上体を起こして会釈した。言葉は添えなかった。

「んじゃ頼むよ、タカじい。ここがオレの部屋だから」

「はい」

高木の指示により、3人の男性は外から中小の段ボール箱を持って来て、冬香の私室に運び込んだ。
何度か往復し、その作業を繰り返す。

荷物の運搬が終わると、高木は3人を先に下がらせ、冬香に向き直った。

「我々がお手伝いさせていただけるのはここまでございます。
御前(ごぜん)から厳しく言い付かっておりますので」

「うん、わかってる。オレも、タカじいに甘えんな、片付けは自分でやれって、じいちゃんに言われたから。
荷物運んでくれただけで充分だよ。あんがと。おかげで助かったぜ。
悪かったな、ただでさえ忙しいのに仕事増やしちまって」

「とんでもございません」

「んじゃ、車んとこまで見送るよ」

「いいえ、お気遣いは無用でございます」

「そんなんじゃねえって。ついでにコンビニで買い物してえんだ。ほら、行こ」

「はい。―――失礼いたしました」

京介に一礼を残し、高木は冬香に腕を引かれて居間から出て行った。

「しばらく会えねえけど元気でな。あんまムリすんなよ?」

「ありがとうございます。冬香さまもお元気で」

「おう。あと、じいちゃんのこと頼むぞ? って、今更だけどな」

「心得ております。お任せください」

そんな会話が廊下から聞こえ、京介の耳に入ってくる。
そして玄関のドアの閉じる音が続き、静かになった。

(……執事と、若い男のほうは使用人か……)

冬香の実家は、どうやら庶民的な家ではないらしい。名家か、あるいは富豪か。
そんなところで生まれ育ったようには、とても見えないのだが。
―――まあ、どうでもいいことだ。自分には関係ない。

京介は再び横臥し、本を読み始めた。

やがて戻って来た冬香は、コンビニの袋ふたつをキッチン・カウンターに置くと、すたすたとソファーに近付いた。

「あのさ」

立ったまま、まっすぐ京介を凝視して告げる。

「おめえが無口なのはよくわかったし、喋りたくねえなら別に黙ってても構やしねえよ。
けど、同居する以上、ずーっと黙りっぱなしじゃオレも困るんだ。
せめてオレの質問にゃ答えてくんねえかな? イエスかノーだけでいいからさ。
じゃなきゃ、頷くか顔を横に振るだけでもいいや。そんくらい協力してくれよ」

「……わかった」

「よし。んじゃ、おめえの要求は? なんかあるんなら聞くぞ?」

「いや、ない」

「そっか? でも、これから一緒に暮らしてくうちに出てくるかもな。そんときゃハッキリ言えよ?
―――んじゃ、きょうからヨロシクってことで」

と、右手を差し出す。

京介は握手に応じた。
そして、すぐ手を引こうとしたのだが、できない。冬香が握って離さないからだ。
まじまじと手の甲を見つめている。

「……もういいか」

「え? あ、ああ、ごめん」

慌てて手を離した。

「えーっと、うらやましいなあと思ってさ。めちゃくちゃデケェし、指が長ェし、すんげえ男らしいじゃん。
そういうのがほしかったぜ、オレも」

苦笑まじりに言って、キッチン・カウンターへ行き、ふたつ並んで置かれた椅子の片方に腰掛け、
コンビニの袋の中から弁当を取り出す。その数8個。
2リットルのペットボトル入りの緑茶まである。

「なあ、昼メシは? おめえも弁当喰う?」

「いや。―――そういえば」

「あ?」

「きのう持って来た飲み物、冷蔵庫に入れておいた」

「きのう? って……ああ、オレがブン投げたヤツか。おめえが飲めば良かったのに。
うん、わかった。あんがと。―――んじゃ、いただきま」

きちんと告げ、食事開始だ。
がつがつと勢い良く食べるが、彼の場合、不思議と下品に見えない。昨夜もそうだった。
そのあたりに育ちの良さが滲み出るのだろう。

8個の弁当をペロリと平らげ、緑茶を飲み干し、食事終了。

「ごっそさん」

空の容器をまとめて台所のゴミ箱に捨て、冬香は自室に入って行った。

固定電話が鳴ったのは、それから間もなくのことである。
読書を中断し、京介が受話器を取った。

「はい」

『やあ、京介くん。ゆうべはお世話になったね』

海神だった。