ENCOUNTER〈10〉
『一晩過ごしてみて、その部屋はどうだい? 気に入ってもらえたかな?』
「はい、とても」
『それは良かった。
必要なものは揃えたつもりだが、なにか足りないものがあったら遠慮なく言いなさいね。
すぐに届けるよう手配するから』
「ありがとうございます」
『ところで、冬香くんはそこにいるのかい?』
「はい」
開け放たれたままのドアから室内を覗くと、段ボール箱の山に囲まれた小さな背中が見える。
どうやら箱から荷物を出しているらしい。
「今、呼びます」
『いいや、結構だ。それより、怪我を負っているような様子は?』
「怪我、ですか。いえ、別に」
『そうか。それなら心配ないな。
きみももう実感しただろうが、ひどい方向音痴の上、気性が激しくて喧嘩っ早い子だ。
なにかにつけて大変だとは思うけれど、面倒を見てやってくれないか。よろしく頼む』
「わかりました」
それが海神の依頼なら、むろん京介に 否 はない。
自分にできる限りのことをするだけだ。少しでも恩に報いるために。
『あと、ふたつある個室に暫定的に家具を置いたが、部屋を交換しても構わないからね。
そのあたりは冬香くんと相談して決めるといい』
「はい」
『では、また。なにかあったら連絡しなさい』
「はい。失礼します」
電話を切った京介は、念のため本人に訊いたほうがいいだろうと考え、ドアを軽くノックした。
山積みの段ボール箱のあいだから、冬香が顔を見せる。
「あ? なに?」
「怪我はないか」
「へ? 怪我? ってオレが? なんで?」
「海神さんが心配してた」
「おっちゃん? 今、電話が鳴ってたみたいだけど、それか?」
「ああ」
「……そっか。じいちゃんが連絡したんだな、きっと」
ひとりごちて、冬香は溜め息をついた。
「ホントはさ、入学の2、3日前に引っ越すつもりだったんだよオレ。
けど、おっちゃんからゆうべ言われたことと、おめえのこと話したら、じいちゃんが今すぐ出てけって言い出してさ。
冗談じゃねえ、まだ入学まで1ヶ月以上あんのにンな早く行ってどうすんだ、っつっても聞いてくんなくて、
結局取っ組み合いになっちまった。ったく、ガンコっつうか、ヘンクツっつうか……」
次いで、不意に苦笑い。
「あー、ごめん、余計な話だったな。
怪我なんかしてねえよ。口ん中ちょっと切っただけ。
ただオレ、じいちゃんと血だらけになるまで取っ組み合って救急車呼んだことも何度かあるから、
おっちゃん心配したと思うんだ。でも、今回は大丈夫。そんなひでえケンカじゃねえし、長引かなかったし。
―――なに? もしかして、おめえも心配してくれたわけ?」
「海神さんに頼まれた」
「え、なんて?」
「面倒を見てやってくれ、と」
「ちぇっ、オレばっかガキ扱いしやがって。……ま、しゃあねえけど」
「こっちの部屋でいいか。隣のほうを使いたいなら交換するが」
「いいよ、このまんまで。家具とか移すの、めんどくせえじゃん」
そして冬香は作業を再開し、京介はソファ―に戻った。
やがて突然、
「ふんぬ――――――――――――っ!!」
そんな奇妙な声が響き渡った。
少し間を空けて、
「ぬお――――――――――――――――――っっ!!」
と、また。
本を閉じて起き上がり、京介が見に行くと、
冬香が中腰で脚を開き、テレビを持ち上げようと踏ん張っていた。その顔はすでにもう真っ赤だ。
しかし、テレビはびくともしない。当然だろう。
32インチの大型サイズなのだから、非力な彼ひとりで動かせるはずなどない。
「それをどうしたいんだ」
ドア越しに声をかけた。
「え、あ、机の隣に移そうと思って。
けど、おめえも観る? だったら、ソファーの近くに置いたほうがいいよな。どうしよ?」
「いや、俺は観ない。―――どいてろ」
京介は室内に入り、難なくテレビを持ち上げ、ライティング・デスクの横に置かれている専用ラックの上に乗せた。
「おわ、すっげー。軽々かよ」
「ほかに重いものは」
「ううん、ねえ―――あ、そうだ。おめえ、機械に強い? DVDレコーダーつなげられるか? コンポとゲームも。
一応、取説持って来たんだけど、たぶんオレにゃできねえや。すんげえ機械オンチだからさ」
「どこにある」
「えーっと……この箱かな? うん、当たり」
オーディオ機材とゲーム機の運搬および設置はもちろん、接続も京介がやった。
取り扱い説明書を少し見ただけで、簡単にやってのけた。
念のために電源を入れてみたところ、きちんと稼動する。問題はないようだ。
「うっわー。ホントすげえな、おめえ」
「ほかになにかあるか」
「ううん。あんがと、助かったぜ」
「また手伝いが必要なら呼べ」
京介はリビングに戻り、ソファーに寝そべって本を読み始めた。
その後、しばらくのあいだ冬香の私室から物音が聞こえていたのだが、突然ぱったり止まる。
それきり、しんと静まり返ったままだ。
時間が経ち、窓の外が暗くなってきても、なんの音も聞こえてこない。
居眠りでもしているのだろうかと思い、京介が読書を中断して様子を見に行くと、
あちこちに空になった段ボール箱が無造作に積まれ、様々な荷物が散乱して足の踏み場もない中、
冬香が困り果てた表情で立ち尽くしていた。
「どうした」
「あ? えっと、なにをどこに仕舞おうかと思って」
「……それをずっと考えてたのか」
「うん。けど、どうすりゃいいのか全然わかんねえや。参っちまうなあ」
京介は内心、溜め息をついた。
(考える必要がどこにある……)
執事と使用人を抱える家で育ったのなら、部屋の片付けなど経験したことは皆無だろう。
だが、それでも普通、衣類はクローゼット、靴は玄関のシューズ・ラック、
DVDとCDとゲーム・ソフトは本棚に入れればいいと、容易に察しがつくはずだ。
そんなこともできないなんて、呆れるほかない。
しかし、なにはともあれ、ここは手を貸すのが賢明か。
「まず空箱を全部リビングに出そう。それから服をクローゼットに仕舞え。俺はソフト類を本棚に並べる」
「え……え?」
「手伝うと言ってるんだ」
「や、いいよ。悪ィよ、そんな」
「このままじゃいつ終わるかわからない」
「でも―――」
「いいから早くやれ」
京介に急かされて作業を始めた冬香だったが、どうも手つきが怪しい。
とにかく不器用なのだ。まだ子供のほうがマシだと思ってしまうほど。
結局、衣類も靴もソフト類も、すべて京介が率先して片付けた。そのほうが正確かつ迅速だったからである。
大量の段ボール箱を折り畳んで外のゴミ置き場に持って行ったのも彼だった。
2時間も経たないうちに作業が完了し、ふたりは斜めに向かい合う形でソファーに座った。
「えっと、ごめんな、おめえにばっかやらせちまって。ホントごめん」
冬香はしきりに恐縮している。
「あのさ、きょうの晩メシ、オレがおごるよ。礼っつうか、詫びっつうか、まあ両方ってことで。
頼む、おごらせてくれ」
断わろうと思った京介だが、黙って頷いた。
断わったら、たぶん冬香が納得せず、押し問答になって長引きそうだと予想したからである。
「外に喰いに行くか? それとも出前? なに喰いたい?」
「どっちでも、なんでもいい」
「そっか。んじゃ出前にしようぜ。これから出掛けるの、めんどくせえや」
冬香はテレフォン・ラックのところへ行き、ラックの中から出前のメニューの束を取り出した。
それがそこに用意されていることは、きのう室内を物色したときに知ったのだ。
少し悩んだあと、寿司に決める。
10人前を頼み、そのうちの9人前を冬香がぺろりと平らげた。相変わらず凄まじい食欲だ。
「おめえ、よくそれっぽっちで足りるなあ。んなデケェ図体してるくせに。
……あ、まさか遠慮したんじゃねえだろうな? オレのおごりだからってさ」
「いや、いつもこの程度しか食べない」
「そっか? なら、いいけど。見掛けによらず少食なんだな」
見掛けによらないのはお互いさまだろう、と京介は思った。
ちなみに、出前を頼んだのは彼である。
冬香が電話を掛けたものの、まったく要領を得ない注文の仕方だったので、代わらざるを得なかったのだ。
そんなふうにして、ふたりの共同生活は始まった。
暦の上ではもう春だが、実際にはまだ寒くて、冬が終わったとはいいきれない頃のことだった。
<了>