ENCOUNTER〈8〉
「京介くん」
ハンドルを握って前方を向いたまま、海神が呼び掛けた。
「お父上に連絡を入れておいたよ。荷物はあしたのうちに届けるそうだ」
「ありがとうございます」
「それから伝言を預かっている。
きちんと食事をして、きちんと睡眠をとって、大学生活を満喫するように、と」
「……はい。お手数をお掛けしました」
冬香は首をかしげた。
(そういやコイツ、なんで自分で父ちゃんに言わねえんだろ?)
ちょっと電話して「きょう家を出る」と伝えればいいだけなのに。
もしかしたら、父親と仲が悪いのだろうか? 普段まったく口を利かないような、そんな最悪の関係とか?
(まあ、なんか事情があんのは間違いねえだろうけど。でなきゃ、おっちゃんとこに来るわきゃねえもんな。
―――っと、いけね。これ返さなきゃ)
冬香はコートを脱ぎ、それを後ろに差し出した。
「あんがと。あったかかったよ」
受け取った京介は無言だ。目を合わせようともしない。
(げ……なんだコイツ?)
元に戻ってしまっている。
ついさっきまで普通に喋っていたのに、この豹変振りは一体なに? どういうわけだ?
(……あ―――おっちゃん?)
そうだ。さっきと今で違うことといったら、海神の登場しかない。
(……てこたあ、つまり、おっちゃんが来たから、コイツは自分の役目が終わったと思って、
もうオレには関わんねえ、っつうわけ?)
「おチビさん」
「え?」
冬香は海神を見やった。
「電話で言っていたが、わたしに話というのは?」
「あ……っ」
そうだ、すっかり忘れていた。それがあったのだ。
確かに、ただのいやな奴でないことはわかった。優しい一面があることを知った。
でも、だからといって同居はできない。それとこれとは、また別だ。
「あのさ、ムリだよオレにゃ。一緒に暮らすなんて、どうがんばっても絶対ムリ。
だから、別々の部屋、用意してくんねえかな?」
「やはりか」
海神は薄く笑った。
「きみがそう言い出すだろうと予想していたよ。だが、残念ながら却下だ」
「えっ?」
「京介くんも聞きなさい。
きみたちが同居を拒否するのなら、わたしは後見人を辞めさせてもらうよ。今回の話はなかったことにしてもらう」
京介はかすかに目を見開き、冬香は大きく目を見開いた。
「な、なんでっ!? なんでだよっ!?」
「ふたり一緒に生活することに意味があるからだ」
「意味っ!? どんな意味があるっつうわけっ!?」
「それは今後きみたちが互いに接しながら自分で知りなさい」
「またそれかっ!?」
「わたしの口から言うべきことではないからね」
「おっちゃんっ!!」
「あとはきみたち次第だ。どうする?」
冬香は黙り込んでしまった。
(どうするって……)
一緒になんか暮らしたくない。絶対いやだ。断固ごめんだ。
でも、海神に後見人を辞められるのはもっと困る。非常に困る。
「……ヒキョーだよ、おっちゃん。すっげえズリィじゃん……」
「なんとでも」
信号が赤なのでブレーキをかけ、海神は後部座席を見やった。
「京介くんはどうする? 同居を拒むかい?」
「……いえ、お言葉に従います」
「うむ、結構」
次いで助手席に視線を移す。
「おチビさんは?」
「……くっそぉ、そこがズリィってんだよぉ。オレがヤダって言えねえの、わかってんだろぉ?
なのに訊くなよ、そんなことぉ……」
「返事は?」
「あーもう、ハイハイ、従うってばあ」
「よろしい。では、一件落着だ」
信号が青に変わり、海神はアクセルを踏んだ。
「ところで、おチビさん。村崎駅前の商店街近くで、大学生風の青年3人と派手に喧嘩したそうだが?」
「へ、なんで知ってんの?」
「あのあたりで起こったことは大抵その日のうちにわたしの耳に入ってくるからね。
暴れた子の特徴を聞いて、すぐにきみだとわかったよ」
「だって、しょうがねえじゃん。しつこく声かけてくんだもんよ。
オレぁ男だっつっても、まるで信じねえし。さすがにアッタマきちまってさ」
「何時間も外を歩き回っていたのだから、それだけではないのだろう?」
「えーっと……」
冬香は指折り数えた。
「全部で4回―――5回かな?……や、6回だ」
「程々にしないと、いつか大怪我を負ってしまうかもしれないよ?」
「大丈夫。いざとなったら、とっとと逃げるから。足にゃ自信あるし」
「できれば喧嘩しないで逃げてほしいがね」
「まあ、気ィつけるよ。心配すんなって」
「やれやれ」
それからしばらく走って、3人を乗せた車はようやくレジデンス・コウの前に到着した。
海神が後部座席に顔を向ける。
「今夜はお世話になったね、京介くん。本当にありがとう」
「いえ。じゃ、失礼します」
(うーん……)
どうしようか、冬香は迷った。
できれば、なにも言いたくない。無視されるのがわかりきっているからだ。
でも、いくら海神に頼まれたとはいえ、食べ物と飲み物を持って、あんなに遠くまで迎えに来てくれたのは、紛れもない事実。
やはり礼と謝罪を告げるのが筋というものだろう。
結局、無視を覚悟の上で口を開いた。
「あのさ、ごめんな、面倒かけちまって。おかげで助かったよ。あんがと」
案の定、京介は無反応だ。一瞥もくれないまま、下車してしまった。
再び車が走り出す。
シートに深く背中を沈め、少々うんざりした表情で冬香が言った。
「……おっちゃん、ひとつ断わっとくけど」
「なんだい?」
「仲良くなる自信ねえぞオレ、アイツと」
「構わないよ、仲良くならなくても。
気に入らないことがあれば文句を言えばいいし、腹が立ったのなら喧嘩をすればいい」
「え……」
冬香は目を丸くして、海神の横顔を見た。
「そんでいいのか? ホントに?」
「言っただろう? 自分の思うまま、心のままに行動しなさい、と」
「じゃ、なんで同居なんかさせるわけ? 仲良くなんなくてもいいんなら一緒に暮らす必要ねえじゃん」
「それも言っただろう?」
「自分で知れ、かよ」
ちぇっ、と冬香が舌を打つ。
「わけわかんねえぜ、っとに……」
「もし喧嘩して怪我を負ったら、急いで連絡しなさいね。すぐ知り合いの医者を行かせるから」
「あー……それはねえな。ケンカになんなかったもん」
「もう手が出たのかい?」
「だって、オレのこと女だと思ってたんだぞアイツ」
そして冬香が公園での一件を詳しく話すと、海神は微笑した。なるほど、そういう展開になったか、と思いながら。
「ところで、京介くんが食べ物を持って行っただろう? 足りたかな?」
「とりあえずな。でも、とっくに消化しちまったよ。ハラ減った」
「時間が許せば、このまま食事に連れて行きたいが、自宅で片付けなければならない仕事が残っていてね。
家まで我慢できるかい? それとも途中でなにか買おうか?」
「ううん、我慢する。家でゆっくり喰いてえや。
それよか、ここらへんで降ろしてくれてもいいぞ? オレ、タクシー拾って帰るから」
「いいや、送って行くよ。―――そういえば、おチビさん」
「うん?」
「おじいさまに連絡は?」
「あ、やべ、すっかり忘れてた」
冬香がポケットから携帯電話を取り出す。
「あれ、バッテリー切れだ。いつの間に? 全然気付かなかったぜ」
「次の信号まで待ちなさい。わたしの電話を貸すから。
おじいさまが心配なさっているかもしれないね。春弥くんはやきもきしていそうだ」
「ううん、そりゃねえよ全然。おっちゃんが一緒だって、わかってんだから」