ENCOUNTER〈7〉




わなわなと拳を震わせながら、冬香は京介を睨みつけていた。

「そりゃ、そりゃしょうがねえと思うよっ!
こんなツラしてるし、ちっこいし、名前も名前だから、女に間違えられたってさっ!」

吐き出すように訴える。

「けど、おっちゃん『マンションの一室を確保しといた』って言ったじゃねえかっ!! おめえとオレに向かって『一室』ってっ!!
つまり、ひとつの部屋で一緒に暮らせってこったろっ!? 男と女なら、んなことさせるわけねえだろっ!?
だから、おめえはオレが男だってわかってんだと思ってたっ!!
それに、女みてえな名前だけど、オレぁすげえ気に入ってるっ!! 父ちゃんと母ちゃんから1字ずつもらったモンだからなっ!!
オレにとっちゃ大事な名前なんだっ!!」

「………」

冬香の言いたいことはわかる。しかし、それは無理だと京介は思う。そんな解釈などできるわけがない。
冬香を異性だと信じて疑わなかったので、「一室を確保」は ”ひとりに一室ずつ与えられる ”という意味に受け取ったのだ。
だが、故意ではなかったとはいえ、悪いことをしてしまった。
男が女に間違われたら不愉快この上ないだろう。コンプレックスがあるようなので余計に。

地面に脱ぎ捨てられた服を拾い上げ、何度か叩いて汚れを落とし、それを冬香に差し出しながら、

「すまない」

と京介は謝った。いつもの無表情と抑揚のない口調で。

「……ふんっ」

引ったくるように服を取った冬香は、手早く着込んで大きく息を吐くと、改めて京介に向き直った。

「おめえ、オレが男かもしんねえって、これっぽっちも思わなかったのか?」

「ああ」

「こんな喋り方してんのに?」

「口の悪い女はよくいる」

「こんなに荒っぽくて手が早ェのに?」

「そういう女も珍しくない」

「ちぇっ……」

なるほど、と京介は思った。
ひどく言葉遣いが乱暴なのは、男なのだという自己アピールらしい。
すぐ手が出てしまうのは、恐らく気性だろうが。

それに、つい先程まで怒りに満ちていたのに、もう今は普通の表情に戻っている。
言いたいことを言ったら、それで気が済んだのだろう。どうやら引きずらない性格のようだ。

しかし、服を着れば、どこからどう見ても少女そのものである。
いや、普通の少女より遥かに可愛らしい。こういう男が実在するとは驚異的だ。
本人にとっては屈辱以外の何物でもないだろうけれど。

「―――行こう」

「え?」

「大通りだ」

「あ、そっか、おっちゃん待ってなきゃ」

京介が歩き出したので、冬香は彼に倣った。
そして、前を行く広い背中を上目遣いで見やる。

(……くっそお。こんなデッケエ図体してやがるくせに、なんであんなに早く動けんだよ、このヤロー……)

生まれて初めて喧嘩をしたのは、幼稚園に通っていたときのことだった。
女顔と小柄なことをからかわれたのが原因だ。
相手は同い年の子供だったけれど、身体が大きくチカラもあったので、まるで歯が立たなかった。
悔しくて悔しくて、わんわん泣きながら家に帰った。
そうしたら、母に叱られた。「なに泣いてんの。情けないわね。
そんなに悔しいなら、もう一度やって勝ちなさい。このまま引き下がったら悔しさは消えないわよ」と。
それから、兄たちが教えてくれた。「喧嘩はチカラじゃなく頭でやるものだ。
おまえのように小さくても、やり方を考えて戦えば必ず勝てるぞ」と。

それ以来、たくさん喧嘩をした。
非力なところはスピードと技術と戦法でカバーし、自分より大きな相手を何人も倒した。
負けたことは一度だってない。

(なのに、コイツにゃまるっきり通用しなかった……)

疲れと空腹のせいで動きが鈍り、いつものスピードが出せなかったのかもしない。
それに、あまりにも腹が立ったので戦法なんて考えられなくて、確かに単調な攻撃になってしまった。
とはいえ、殴るどころか指先すら触れられず、逆にチカラでねじ伏せられてしまったのは、さすがにショックだ。
おかげで一気に戦意を失くしてしまった。

この男には、どうやったって敵わない。それが現実だ。認めざるを得ないと思う。
もちろん悔しいけれど―――ものすごく悔しいけれど。

身体が突然、ぶるっと震えた。

(そういや、寒ィなあ……)

無理もない。ただでさえ身体が冷えていた上に、上半身だけとはいえ裸になってしまったのだから。
すぐに温もりは戻らないだろう。

思えば、なにも服を脱ぐ必要はなかったような気がする。
自分は男なのだと言って、パーカーをたくし上げて胸元を見せるだけで良かったような。
我ながら馬鹿なことをやったものだ。今になって後悔しても後の祭りだが。

「―――っぷ」

冬香は広い背中に顔をぶつけてしまった。京介が不意に立ち止まったからだ。

「な、なんだよ、いきなり? どうしたんだ?」

それには答えず、京介は自身のコートを脱ぎながら振り返って、それを冬香の背中に掛けてやった。

「え……」

「着てろ」

短く告げて背を向け、再び京介が歩き出す。

「あ、おい」

冬香は慌てて彼のあとを追った。

「待てよ。ダメだって、こんな。返すよ。おめえが寒くなっちまうじゃん。シャツ1枚しか着てねえんだからさ」

「大丈夫だ」

「でも―――」

「いいから着てろ」

「………」

不本意である。不本意であるが、この暖かさは正直ありがたい。

「……んじゃ、借りるぞ、悪ィけど」

小さな声で言って、冬香はコートに腕を通した。
だが、ぶかぶかだ。肩が落ち、袖口から手が出ず、自分がもうひとり余裕で入れるほど身ごろが余っていて、
ハーフなのにロング・コートのように見える。しかも、大きいサイズのせいか、やたら重い。

冬香は京介の後ろ姿をまじまじと凝視した。

(……ほんっとデッケェよなあ。おんなじ人間たぁ思えねえぜ、ったく。
脚なんか、びっくりするくらい長ェし―――あれ?)

気のせいか、なんだか歩くのが遅いような。
こんなに脚が長いのだから、もっと早く歩けそうなのに。

(あ……もしかして、オレに合わせてんのか?)

いつも兄たちが、そうしてくれるように。
いや、まさか、そんな。

(……うん、気のせいだな。コイツに限って、んなことあるわけねえじゃん)

やがて、大通りに到着した。
公園の中と違って、やけに騒々しい。交通量が多いせいだ。
しかも、ヘッドライトが途切れることなく流れているため、とても明るい。

たまらず冬香は、とっさに目をつむって下を向いた。

(まっぶしー……)

長いあいだ暗闇にいたためだろう、ライトの光が痛く感じる。
少し時間が経てば、たぶん慣れるはずだが。

顔を伏せたまま問う。

「なあ、ここで待ってりゃいいわけ?」

「ああ」

「そっか」

しばらくしたあと、冬香はうっすらと瞼を開けつつ、顔を上げた。

(―――あ……)

もう眩しくなかった。
慣れたわけではない。すぐ目の前に京介の背中があり、その身体が完全に光を遮っていたからだ。
隣に立っていたはずなのに、いつの間に移動したのか。

(……オレのため……?)

そうだろう。そうとしか思えない。そうでなければ移動する意味がない。

(へえ、意外に優しいとこあんだ……)

ちょっと感動。そういう細かい気遣いができるなんて。

ということは、さっき歩くのが遅いと感じたのも、気のせいではなかったのかもしれない。
やはり、こちらの歩調に合わせてくれていたのかも―――

間もなく、1台のベ●ツ・エボリューションUが車道の脇に寄り、ふたりの少し手前で停まった。

「あ、おっちゃんの車」

冬香が駆け寄ると、運転席の窓が開き、海神が顔を出す。

「待たせたね。渋滞に巻き込まれて遅くなってしまった」

「ううん。オレこそごめん、迷惑かけて」

「これからは程々にがんばるように。もっと早く連絡しなさい」

「うん。ごめん、ホント」

「反省しているのなら結構だ」

そして海神は、冬香の後方から近付いて来た京介に目を向けた。

「ありがとう。おかげで助かったよ。遠出させて申し訳なかったね」

「いえ」

「さあ、乗りなさい、ふたりとも。帰ろう」

冬香を助手席、京介を後部座席に乗せ、車は出発した。