ENCOUNTER〈5〉




外に出た冬香は、怒りに任せた荒々しい足取りで大学へ向かって歩いていた。
再び海神に会い、あいつとは一緒に暮らせないと直訴するつもりだ。

(おっちゃんも一体なに考えてんだっ!? あんなのと同居するなんてムリに決まってんじゃんっ! 神経もたねえよっ!)

あれが彼の本性ではない―――海神はそう言ったが、その本性を把握するまでなんて、とても耐えられそうにない。
ストレスが溜まりまくって爆発するのは目に見えている。元々気が短い性分なのだ。
いや、たとえ短気でなくても、あの男とは一緒に暮らせないだろう。あまりにも協調性がない。なさ過ぎる。

(大体、なんでアイツおっちゃんとこに来たわけっ!? やる気がねえなら来んじゃねえよっ! こっちが迷惑するっつうんだっ!)

長い長い受験勉強が終わって無事に合格を果たし、やっと安堵したのに。
さあ、これからだ、と改めて決意したのに。
思い切り
出端(でばな)をくじかれてしまったような感じだ。

腹が立つ。あの恐ろしく整った容貌も、凛と響く低音の美声も、まるで抑揚のない喋り方も、思い出すだけで燗に障る。
ムカついてたまらない。

ぶんぶんと冬香は頭を何度も振った。

(もういい! もう忘れよう! おっちゃんに言って同居はナシにしてもらうんだから!
さあ、とっとと大学に―――あ? え? あれ……?)

ふと気付くと、いつの間にか人通りが増えていて、少し先に《村崎町商店街》と書かれたアーケードが見えた。
その奥には線路があり、ちょうど電車が走っている。
大学へ向かっていたはずなのに、どこでどう間違ったのか、駅のほうへ来てしまったらしい。

(あーあ、もう……。しょうがねえなあ、ったく……)

溜め息をつきながら回れ右して、冬香は来た道を戻って行った。




どれくらいの時間が経ったのだろう。
西の空を赤く染めていた夕陽が完全に姿を隠し、すっかり暗くなったにも関わらず、まだ冬香は外を歩いていた。
しかし、もう限界である。疲労、空腹、おまけに寒い。

ぼんやりと外灯が照らす暗闇の中、歩道の傍らに古びたベンチがあったので、そこに腰を下ろした。
そして深々と吐息しつつ、懐から電話を取り出して時間を見ると、8時半。

(うわ、もうこんな時間? 疲れるわけだぜ、こりゃ……)

再び大きな溜め息をつきながら、海神に電話をかける。
すぐに応答があった。

「あ、おっちゃん? 今、大丈夫?」

『やあ、おチビさん。構わないよ、帰宅途中の車の中だから。どうしたんだい?』

「あのさ、おっちゃんに話があって、マンションから大学に戻ろうとしたんだけど、また迷っちまってさ。
ここがどこか、わかる?」

『おや、それは大変だ。なにか目立つものが近くにあるかい?』

「えっと、だだっ広い公園みてえなとこに入り込んじまったんだ。
公園っつっても、アスファルトの道が1本あって、それがどこまでも続いてて―――あ」

周囲を眺めながら喋っていた冬香は、ベンチのそばに立つ外灯の鉄柱に記された文字を見つけた。
かすれているが、読めないことはない。

「なんか書いてある。んっと、美しいに、木の杉、それからカタカナのサイ、あとは……なんだろ? フ? ク?」

電話越しに海神の苦笑が聞こえてきた。

『おチビさん、一体何時間迷ったんだい?
そこは恐らく、
美杉(みすぎ)サイクリング・パーク。埼玉県の南のほうにある自転車専用の公園だよ?』

「げ……」 

思わず絶句。
確かに随分歩いたけれど、まさか東京を出て隣の県まで来ていたとは思わなかった。

『もっと早く連絡をくれれば良かったのに』

「あ、だから、自分でなんとかしてえと思って」

『その心意気は買うが、がんばり過ぎたね。とにかく、これから迎えに行くよ。そこで待っていなさい。
―――ああ、そうだ。京介くんにも行ってもらおう』

「えっ?」

冬香は眉をひそめた。

『村崎町のほうが近いから、先に着くはずだ。京介くんと会って、ふたりで迎えを待っていなさい』

「あ、あのさ、おっちゃん、話ってのはアイツの―――」

『あとでゆっくり聞くよ。まずは、きみを救出しなくてはね』

「あー……うん。ごめん。頼む。―――あ、おっちゃん」

『なんだい?』

「なんでもいいから喰いもん持ってきてくんねえ? もうハラ減ってハラ減って」

『わかった。では、あとでね』

「うん」

電話を切って懐に戻すと、冬香はベンチの上で両脚を抱え、膝に顔を伏せ、そっと目を閉じた。

(くっそおー……なんか、一気に疲れが増した気がすんなあ……。おっちゃん、早く来てくれぇ……)



 *   *   *   *   *   *   *   *   



『―――というわけなんだ。申し訳ないが、行ってもらえないだろうか』

「わかりました」

海神から電話がかかってきたとき、京介はソファーに寝そべって本を読んでいたのだが、
事情を聞いて迷わず承諾した。

美杉サイクリング・パークなら知っている。
都内と周辺の地理に関しては、たぶん並みのタクシードライバーよりも詳しい。
数年間まで、毎晩のように走り回っていたからだ。

しかし、気になることがある。
あの公園は、自転車以外の車両の進入が禁止されているにも関わらず、
近道として利用できるため、夜になると入り込むバイクが少なくなかった。
今はどうなのかわからないが、とにかく、こんな時間に少女がひとりでいるには好ましくない場所だ。
おかしな輩に絡まれたりしていなければいいのだが。

本音をいえば、あの少女がどうなろうと知ったことではない。
けれど、海神の頼みなら話は別だ。無事に保護して、きちんと彼に引き渡したい。

京介はコートをつかみ、足早に部屋から出た。



 *   *   *   *   *   *   *   *



(―――あ……)

エンジン音が聞こえてきて、冬香は目を開けた。
いつの間にか、うとうとしていたらしい。

次いで顔を上げると、少し離れた場所に1台のバイクが停まり、若い男ふたりが各々のヘルメットを脱いだところだった。

「こんなとこでどうしたの、彼女?」

「ひとりで寂しそうじゃん」

 口々に言いながら近寄って来る。

(こんなときに、ったくもお……)

うんざりした冬香は、すぐにまた顔を膝に伏せた。

「えー、なに? 知らんぷり? そんな冷たくすんなよ」

「俺たちと遊びに行かない? なんとか3人乗れるし」

「好きなとこ連れてってあげるからさ」

「一緒に遊ぼうぜ。なあ、いいだろ?」

(あ―もう、うっせえなあ……)

冬香は再び顔を上げ、ふたりをギロッと鋭く睨みつけた。

途端に男たちの表情に歓喜が満ちる。

「うわ! かっわいー!」

「ほんっと! 暗くてわかんなかった!」

「なあなあ、遊びに行こうって!」

「そうだよ! ほら、早く!」

「―――うっせえってんだよっ!!」

立ち上がるやいなや冬香の両の拳が出て、それぞれの男の顎を直撃。

見事なアッパーカットを喰らい、ふたりは揃ってばったり倒れた。
倒れたまま、ぴくりとも動かない。完全に気を失っている。

(……やっちまった……)

面倒だから、余計なエネルギーを使いたくないから、相手にするつもりなど全然なかったのに、
つい手が出てしまった。加減もできなかった。
だが、それほどの手応えを感じなかったので、大したダメージは与えていないだろう。
なのに気絶するなんて、実に軟弱な奴等だ。情けない。

冬香は大きな溜め息をつく。

(くっそお、余計ハラ減っちまったじゃねえか。おまけに手が痛ェし、踏んだり蹴ったりだぜ、ったく。
―――おっちゃん、まだぁ?)

そのとき、足音が聞こえてきた。

(げ。まさか、またナンパ
(ヤロー)じゃねえだろうな? カンベンだぜ、もう)

そちらの方向を見やると、近付いて来る人影がひとつ。かなり背の高い影だ。
髪も長くて、歩調に合わせて柔らかく揺れている。

外灯が照らす場所まで来たところで、その正体がわかった。
京介だった。