ENCOUNTER〈2〉




広い理事長室は静かで、とても落ち着いた空気に包まれていた。
陽光が照らす窓を背にして、マホガニー材の大きな机と黒い革張りのアームチェアがあり、
その手前には長いテーブルを挟んで3人掛けのソファーがふたつ置かれている。
そして壁には数点の風景画が飾られ、反対側の壁にはガラスの扉付きの書棚が並ぶ。
絵画も家具も非常に趣味がいい。

ゆったりとアームチェアに腰掛け、温柔な表情と優雅な仕草でコーヒーを味わっているのが、
理事長・海神 幸一郎である。
薄い茶色のレンズが嵌め込まれた眼鏡と綺麗に手入れされた口髭、上質のシックなスーツが、
どれも嫌味なく似合うロマンスグレーだ。
日本人離れした雰囲気を持ち、品格と知性があふれていて、まさに紳士と称するのがふさわしい。

彼は突然、持っていたコーヒーカップを机上のソーサーに戻し、すっと両腕を広げた。
部屋に駆け込んできた来訪者が、その勢いのまま突進してきて机に飛び乗り、思い切り抱きついてきたからだ。

冬香の小さな身体を、海神はしっかりと受け止めた。

「やあ、おチビさん。待っていたよ」

「やった! やったよ、おっちゃん! ひとりで来れた!
玄関からここまでの道順をハルちゃんが描いてくれて、それ見ながら来たんだけど途中で迷っちまってさ!
走り回って探したのに全然わかんなくって、もうダメだから電話しようとしたら見つけたんだ!
すげえや! 自分を褒めてやりてえ!」

「そうか。それはご苦労だったね」

「―――あ、でも……」

互いの両頬を交互にくっつけるという、いつもの挨拶を済ませてから、冬香は申し訳なさそうに海神を見つめた。

「ごめん、ちょこっと遅れちまったよ。3時まで来いって言われてたのに」

「そうだね。約10分の遅刻だ」

「ごめんホント。んで、話ってなに? わざわざ呼び出すなんて、込み入ったことか?」

「その前に、まずは座ってコーヒーをどうだい? もう
(ぬる)くなっていると思うが、きみには適温のはずだ」

「うん、あんがと。いただきま」

海神から腕を離し、身体を反転させ、冬香は机上から降りようとした。
そのとき、初めて気付く。ソファーの片方に、ひとりの先客がいることに。

年の頃は20代後半。明らかに日本人ではなく、西洋人の男性だ。
腰のあたりまで伸びた漆黒のストレートヘアは全体的に光沢を帯びるほど艶やかで、
不揃いの長い前髪の隙間から覗く切れ長の双眸はさながら最高級の黒曜石、シャープな輪郭は理想的なラインを描き、
美しい肌は透き通るように白く、程好い高さの鼻は綺麗に筋が通り、薄めの唇は上品かつ理知的―――
どこをとっても欠点が見当たらない。恐ろしいほど整っている。
超一流の技術とセンスを持つ芸術家によって、丹精を込めて彫り上げられた最高傑作の彫像のような、そんな顔立ちだ。
老若男女を問わず、誰もが目を奪われてしまうに違いない。
オフホワイトのコットン・シャツに色褪せたストレート・ジーンズ、シンプルなデザインのフィールド・シューズという
頓着のない服装なのに、とても洒落て見えるのは、美貌の賜物だろう。
無表情で心持ち瞼を伏せ、大きな身体を浅くソファーに沈め、長い脚を持て余し気味に組んで座っている。
まるでファッション誌の中のワン・ショットのようだ。

その青年に向かい、海神が言った。

「待たせて申し訳なかったね」

「いえ」

短い返答だったが、それだけでも充分わかる。凛と響く低音の美声だと。

「……おチビさん?」

「―――えっ?」

海神に呼ばれ、冬香はハッと我に返った。
不覚にも青年に見惚れ、すっかり自失してしまっていたのだ。

「あ……あぁ、うん、ごめん」

慌てて机から下り、空いているほうのソファーに腰掛け、
テーブルの上に用意されていたコーヒーにミルクだけ入れて掻き混ぜ、ごくごくと飲む。

(あ〜、びっくりしたあ……こんっなにキレェな男、初めて見たぜえ……。
ううん、女にだって絶対いねえよ、これほどの美人は……)

でも、一体何者なのだろう? なぜここにいる?

「揃ったところで、まず紹介しよう。こちらは
早乙女(さおとめ) 冬香くんだ」

海神に名を告げられたので、状況がわからないながらも、とりあえず冬香はペコリと頭を下げた。
加えて、

「えっと、ヨロシク」

と、一応ひとこと添える。

「そして、こちらが
冬野(とうの)京介(きょうすけ)くん」

海神に紹介されると、青年は無表情のまま、かすかに頭を揺らした。
どうやら、それが挨拶であるらしい。なんとも無愛想だ。

「きょ、きょおすけえ?」

思わず冬香が驚きの声を上げた。

「って、日本人なのか? ホントに? んなツラじゃねえじゃん、おめえ。
トムとかジェリーとか、そういう名前のほうがピンとくるぜ?」

京介は無反応だ。相変わらず目を伏せ、黙っている。

苦笑を堪えつつ、海神が言った。

「ちなみに、同い年だよ、きみたち」

「えっ?」

また冬香が驚きの声を放つ。

「そんで19? ウソだろ? どう見たって27、8だぞ、おめえ。サバ読んでんじゃねえの?」

中学生にしか見えない自分のことは棚に上げ、かなり無礼な発言である。

しかし、それでも京介は反応しない。まるで、まったく聞こえていないかのような様子だ。

海神が再び苦笑を堪えながら、

「では、話を始めよう」

そう告げると、冬香はまっすぐ彼を見つめ、京介も脚をほどいて彼に目を向けた。

「実は、きみたちの保護者から、うちの子を預かってくれないかという同じ依頼をほぼ同じ時期に受けてね」

「え……んじゃ、なに? おめえも少年院に入ってたわけ?」

冬香が京介に視線を移して問うが、彼の態度は変わらない。依然、黙ったまま、海神を見据えている。

「おチビさん、話を続けてもいいかな?」

「あ―――うん。ごめん、邪魔して」

ふたりの顔を交互に見やり、海神は口を開いた。

「こういう偶然があるものなのかとさすがに驚いたが、それぞれの事情を聞き、わたしなりに考え、
うちを受験して大学生になるという条件付きで依頼を引き受けた次第だ。
改めて、合格おめでとう。よくがんばったね、ふたりとも。
今後、わたしがきみたちの後見人になるわけだが、後見人として言いたいことはただひとつ。
自分の思うまま、心のままに行動しなさい。
わたしに迷惑がかかるからなどという理由で己れを押さえつけるような真似は絶対しないように。
そんなことをやったら決して許さないよ? わかったね?」

京介は浅く、冬香は深く、各々頷いた。

「それと、ここから歩いて20分ほどのところに建つマンションの一室を確保しておいた。
生活に必要なものは一通り揃え、すぐにでも住めるようにしてあるから、きみ達の都合のいいときに引越しなさい。
そこの大家はわたしで、管理人を常駐させていないから、要望や苦情などは直接わたしに言うようにね。
───話は以上だが、質問かなにかあるかい?」

「お願いがあります」

即座に言ったのは京介だ。

「わかっているよ」

と応えつつ、海神は机の引き出しを開け、中から青い封筒を取り出した。

「マンションの地図と部屋の鍵が入っている。持って行きなさい。きょうから住むといい」

「ありがとうございます」

京介は立ち上がった。

途端に冬香が目を丸くする。

(うっわ、なにコイツ? 身長いくつあんだ? 2メートル超えてんじゃねえの? NBAのプレイヤーだぜ、まるで)

座っている姿を見たときから長身なのはわかっていたが、まさかこんなに高いとは思わなかった。予想以上だ。

京介は机の前に行き、海神から封筒を受け取った。

「お世話になります」

「うむ。お父上にはわたしから連絡するが、なにか伝言は?」

「着替えをまとめてあるので、それを送ってほしい、と」

「わかった、伝えよう」

「お願いします」

「まっすぐマンションへ行くのかい?」

「はい」

「気をつけてね」

「はい。コーヒーごちそうさまでした。失礼します」

海神に一礼した京介は、ソファーに置いてあった黒いハーフ・コートを手に取ると、
そのまま出入り口へ向かい、ドア枠にぶつからないよう頭を下げて退室した。
結局、冬香には一瞥もくれなかった。