ENCOUNTER〈1〉




海神(わたつみ)学院大学は、東京都練馬区 村崎町(むらさきちょう)7丁目にある私立大学だ。

その敷地は7丁目全域を占め、学校というより、ひとつの町といったほうが的確かもしれない。それほど広い。
広大な校舎と校庭、複数の体育館およびグラウンド、各武道部の専用道場、各学部の研究所、図書館、アトリエ、
大中小の多目的ホールなどを敷地内に有している。

最寄りの村崎駅から徒歩40分、駅前から出ているバスに乗っても15分弱かかり、通学には少々不便だ。
しかし、元は農地だったため緑が豊かで、とても閑静な場所ゆえ、勉学には最適といえるだろう。

創立20年という浅い歴史に反し、知名度は抜群に高い。
なぜなら、毎年のように数多くの優秀な人材を様々な分野へ輩出し、その大半が素晴らしい功績を残しているからだ。
「今の自分があるのは母校・海神大のおかげ」と公言している著名人も少なくない。
それに加え、独特のカリキュラムと有能かつ個性的な講師陣が注目を浴び、また、底抜けに自由な校風が人気を集め、
受験者および見学者の数は年々増加している。留学生も多い。
少子化のあおりを受け、廃校や合併に追い込まれる私大が珍しくない昨今、実に稀なケースだ。

創立者は、海神
幸一郎(こういちろう)
長年にわたる遊学の末、莫大な私財を惜しげもなく投じ、その大学を創り上げた。
理事長を務める彼は、財界で凄腕として名の知れた実業家でもある。


 *   *   *   *   *   *   *   *


3月某日の昼下がり。
春期休暇のため、海神学院大学はひっそり静まり返っていた。
しかし、まったく無人というわけではない。校舎の一角に並ぶ各文化部の部室では部員たちが活動に精を出し、
それぞれの研究所では未来の学者たちが研究に没頭し、アトリエでは芸術家の卵たちが作品制作に打ち込み、
図書館では論文の執筆に励む者も多数いる。彼等には春休みなど関係ないのだ。
いや、長期の休みだからこそ、己れのやりたいことに普段以上の時間と労力を費やしているのである。

そんな大学の正門前に、
1台のフェ●−リF40ブラック・スターが独特の重いエンジン音を轟かせながら近付いて来て、停車した。
次いで助手席のドアが開き、単身痩躯の人物が降り立つ。

なんとも可愛らしい容貌の持ち主だ。
弧を描く太めの綺麗な眉と、ばさばさと音が聞こえてくるのではないかと思うほど長い睫毛に縁取られた黒目勝ちの大きな双眸、
少しばかり低いが形の整った鼻、ほんのりピンクのふっくらした唇が、丸めの小さな顔に絶妙のバランスで配置されている。
それに、
肌理(きめ)の細かい肌は瑞々しいミルク色で、シミもホクロも全然ない。とびきりの美少女だと万人が認めるだろう。
短く切り揃えられたオレンジ色の髪が陽射しを浴びて淡く煌めき、両耳で輝きを放つ小粒のエメラルドのピアスがよく似合う。
赤いパーカーにモスグリーンのブルゾン、青いストレートジーンズ、黒のスニーカーというボーイッシュな服装だが、
それが逆に女の子らしい可愛さを際立たせている。
年令は14、5才くらいか。

冬香(ふゆか)

車の中から中低音の男声が呼びかけ、

「忘れ物だ、ほら」

と、大きな手が折り畳まれた紙を差し出した。

「あ」

冬香はぺろっと小さく舌を出す。そんな仕草もまた愛らしい。

「いっけね、ダッシュボードに乗っけたまんまだっけ。
せっかく書いてもらったのに、忘れちまったら意味ねえよな。悪ィ悪ィ」

その容姿にまったく似合わない、非常に乱暴な言葉遣いである。
しかも少々ハスキーな声をしていて、それもやはり似合わない。

紙を受け取り、ブルゾンのポケットに押し込んで、冬香は車内に目を向けた。

「送ってくれてあんがと。気ィつけてな」

「ああ。……やっぱり一緒に行こうか?」

「なに言ってんだ、仕事に戻んなきゃなんねえのに。ひとりで平気だってば。外じゃねえんだし、すぐ見つかるさ」

「だといいが……。もし迷ったら、おじさんか俺に電話するんだぞ?
この時期は1階に人がいなくて、誰かに場所を訊くなんてできないから」

「わかってるって。大丈夫。心配すんな」

「無事に着くよう祈ってるよ。それと、おじさんによろしく伝えてくれ」

「うん。じゃあな」

ドアを閉め、窓越しに手を振り、走り去って行く車を見送ってから、冬香は正門を通ろうとした。
だが、通れない。門が開かない。

(え? あれ? なんで?―――あ、そっか。カードか)

ブルゾンの内ポケットを探り、事前にもらっていたIDカードを取り出す。

それがなければ正門を通り抜けられない上、校舎はもちろん、ほかの施設にも出入りできないのだ。
不審者の侵入を防ぎ、大学関係者の安全を守るためである。
ただし、学院祭や入試などの一般向けのイベントが行なわれる場合に限り、厳重なセキュリティは解除されることになっている。

カードを使って正門を通ると、石畳の歩道が長く続き、その両脇に手入れの行き届いた芝生が広がっていた。
芝生の上にはベンチと花壇が点在し、随所に桜やケヤキなどの木々が立ち、石畳の道の途中には噴水を備えた池まである。
まるで公園のような校庭だ。

かすかに聞こえてくるのは、体育館とグラウンドで練習に熱中している運動部の学生たちの声だろう。
校庭から離れた場所にあるので、その姿は見えないけれど。

(しっかし、えらく寒ィなあ……)

天気は快晴なのだが、時々吹き抜けていく風が異様に冷たい。
たまらず首をすくめ、自然と小走りになってしまう。

(くっそ〜。こんなことなら、もっといっぱい着てくりゃ良かったぜえ。ツイてねえなあ、っとにもう……)

やがて、ようやく校舎に着いた。
4階建てのそれは、ヨーロッパあたりの古い建築物を思わせるような、実に趣きのある赤レンガ造りだ。
その景観に反し、校内は近代的な構造になっている。
初めて訪れた者の大半は、外側と内側の雰囲気の違いに少なからず戸惑いを覚えてしまう。

中央玄関から中へ入った途端、冬香はホッと吐息した。
エアコンが効いているらしく、暖かな空気が非常に心地好い。

(―――あ)

ふと目についたのは、壁に貼られた校内案内板だ。
1階から4階までの平面図と、どのフロアになにがあるのか書かれた表が並んでいる。

(へえ、知らなかったな。こんなのあったんだ)

これだけ広い校舎なのだから、当然といえば当然か。
でも、見ても仕方ない。どうせ覚えられない。
それより、もっと頼れるものが自分にはある。
 
冬香は紙を取り出し、かさかさと広げた。

(えっと……まずは、ここをまっすぐ、だな)

紙面と周囲を交互に眺めながら、廊下を歩き出す。

ところが ―――

(…………あれ?)

角を3回曲がったところで、わからなくなってしまった。
少し戻ってみたら、益々わからなくなった。

(あーあ、やっちまったよ。……ま、しゃあねえやな。探すか)

迷ったら電話しろ、と言われたことを忘れたわけではない。まず先に、できるだけのことをやりたいのだ。
早めに家を出て来たので、まだ時間はある。ぎりぎりまで自力で探し、それでもだめだったら電話して訊けばいい。

冬香は勢い良く駆け出した。
静かな校内に、ぱたぱたと走る自分の足音だけが響く。
次第に身体が温まり、額にうっすら汗が浮かんできた。
しかし、目当ての場所は中々見つからない。

ここを訪れるのは2度目になる。
初めて来たときは、ほかにも同類の人間が大勢いて、あちこちに案内係が立っていたため、迷わずに済んだ。
だが、今は自分以外、誰もいない。おまけに、探しているのは行ったことのない部屋だ。
ひとりで辿り着くのは難しいかもしれない。いかんせん、どうしようもないくらいの方向音痴なのだから。

(参っちまうなあ、ったくもう……)

どれくらいのあいだ走ったのだろう。
体力的にはまだまだ余裕があるけれど、時間のほうが心配になってきた。そろそろリミットのような気がする。

立ち止まった冬香は、ブルゾンの内ポケットから携帯電話を取り出し、時間を見た。
腕時計をはめるのが嫌いなので、それを代用しているのだ。

現在、3時8分。

(げ、もう過ぎてんじゃねえか)

こうなったら電話するしかない。
でも、なんだか悔しい。

(ちぇっ、せっかく走り回ったのになあ……)

未練がましく、周りをキョロキョロ見渡しつつ尚も歩いてしまう。

(……え?)

何気なく目を向けた、廊下の突き当たりにある1枚の扉。
そこに貼られた長方形のプレートの上に、《理事長室》の4文字が並んでいる。
それこそが、探し求めていた場所だ。

(うっわ、あった! やった! 見つけた!)

ぱあっと破顔した冬香は、電話を懐に戻しながら駆け出し、扉に着くやいなや思いきりドアを開けた。

「おっちゃんっ! 来たぜっ!」