EARLY DAYS〈9〉




京介が細い肩を揺さぶり、何度か名前を叫ぶと、ようやく冬香はうっすら目を開けた。
その顔は汗にまみれ、パジャマも濡れてしまっている。

虚ろな眼差しが頼りなげに動き、美顔を捉えた。

「……きょ、すけ……?」

「ああ。───うなされてた。また夢を見たのか」

返事はない。代わりに、大粒の涙が目尻を伝って落ちる。
それを隠すように両腕を顔に乗せ、冬香は嗚咽を飲み込んだ。

「我慢しなくていい」

「……だ、って……」

「泣きたいのなら気が済むまで泣け。俺の前で我慢するな」

「……それ、兄ちゃんたちにも、言われ……っ」

言葉の続きは嗚咽に変わる。

泣き出した冬香を、京介は黙って抱き包んだ。

(もう大丈夫だろうと思ったのに……)

きのうまでの3日間、うなされることがなかったので、そう判断した。
だから、冬香が自分の部屋で寝ると言い出したとき、反対しなかった。
しかし、ひとりにするのは早過ぎたようだ。もう少し様子を見るべきだった。失敗した。

一体どんな夢に苛まされているのか、わからない。特に知りたいとも思わない。
ただ、こういう姿を目の当たりにするのは、さすがに辛いものがある。
痛々しくて見ていられない。普段の彼が明るいだけに尚更。

泣きじゃくる冬香を抱き上げ、京介は自室へ向かった。
ちゃぺがあとからついて来たので、拾い上げてベッドに乗せた。

冬香が泣き疲れて眠るのを待って、顔を拭き、パジャマを着替えさせる。
その寝顔は、とても穏やかだ。熟睡しているらしい。
それを見て安心したのか、ちゃぺは枕元で丸くなり、目を閉じた。
京介も横たわって、洋酒をひとくち飲んでから、読み掛けの本を手に取った。

まだ午前1時にもなっていない。まだ夜明けは遠い。





そうして冬香は、また京介のベッドで寝るようになった。
数日間、彼と共に就寝した。
夢を見ることも、うなされることもなく、ぐっすり眠れた。

だから今度こそ大丈夫だろうと思い、自身の部屋へ戻ったのだが、だめだった。
ひどく生々しい夢を見て、うなされ、散々泣いてしまった。

なぜそういうことになるのか考えてみたけれど、冬香にはさっぱりわからない。見当もつかない。
はっきりしているのは、京介が一緒だと安眠できて、ひとりだと怖く悲しい夢を見てしまうということだけだ。

京介が告げた。「この際、理由はどうでもいいだろう。
ひとりじゃなければ夢にうなされないんだから、ずっと俺のところで寝ろ」と。

申し訳なかった。だけど、ありがたかった。
ただ、ひとつだけ困ったことがある。
朝、目が覚めて一番に京介の顔がアップで視界に入ってくると、驚いてドキドキしてしまうことだ。
はっきりいって心臓に悪い。できれば穏やかに目覚めたいものだと冬香は思う。

美人は3日で飽きる、と兄から聞いたような憶えがあるけれど、それは嘘だ。絶対、嘘だ。
だって、もう1ヶ月近く一緒にいるのに、ちっとも飽きない。それどころか、未だに慣れない。

普段ならまだしも、なんの心の準備もなく寝起きにいきなり美顔を間近で見る羽目になると、余計に焦ってしまう。
とはいえ、そんな苦情を口にできる立場ではないし、まさか顔を隠して寝ろとも言えないので、慣れるしかない。
だが、たとえどんなに長いあいだ一緒にいても、それは無理なような気がする冬香だった。


 *   *   *   *   *   *   *   *   *


大抵、目が覚めると京介に抱きついている冬香だが、その日の朝は違った。
そばに彼の姿がなかったのである。ちゃぺもいない。

(あれ……? なんで……?)

冬香はベッドから下り、私室を出た。

リビングのカーテンはすでに全開になっていて、陽光が室内を明るく照らしている。
きょうもまた雲ひとつない快晴だ。

「おーい、きょおすけー?」

呼んでみたが、返事はない。

「ちゃぺー?」

そちらも無反応だ。いつもは呼べば必ず寄って来るのに。

揃って留守ということは、一緒に出掛けたのだろう。
いい天気だから、ちゃぺが外へ出たがって、京介が散歩にでも連れていったのかもしれない。

思えば、ずいぶん大きくなった。
拾ったばかりのときは本当に小さくて、ちゃんと育つかどうか心配だったが、
今ではもう成猫用のキャット・フードが食べられるようになり、
元気に遊んだり走り回ったり日なたぼっこしたりと自由気ままに過ごしている。
初めの頃は刺激してやらなければできなかったトイレも、きちんと自力で済ませられるようになった。

無事に育ってくれたのは嬉しいし、手が掛からなくなったのは助かるけれど、
その反面、一抹の寂しさを感じる。もう少し子供のままでいてほしかった。
ワンコを育てたときも、やはり同じことを思ったものだ。

ふと時計を見ると、すでに11時を過ぎている。

(あー、ゆうべDVD観て、夜更かししちまったからなあ……)

小さく吐息した冬香は、まず歯を磨いて顔を洗い、次にカエルの着ぐるみに着替え、そしてコーヒーを淹れた。
それを持ってソファーに座り、何度も息を吹き掛けて冷ましてから、ずずっとゆっくり啜る。

(―――それにしても、なんか変……)

落ち着かないような、居心地が悪いような。
もうすっかり住み慣れたはずの部屋なのに、まるで違う場所にいるような気がする。

京介がいないから、だろうか?
そうかもしれない。
いつも彼がソファーに寝そべって本を読んでいるから、それが当たり前の光景だから、その姿がないと不自然に感じるのだろう。

考えてみれば、ここに引っ越して来てから、ひとりになるのは初めてだ。
絶えず京介が室内にいた。いなかったのは、海神が来たときくらいだ。

(……きっと、オレをひとりにしねえようにしてくれてんだよなあ……)

理由は明白。危なっかしくて目が離せないから。

(それに、オレがどっか行きてえって言い出したとき、すぐ連れてってやれるように、ってな理由もあるよな、たぶん……)

そのため、食事しに外へ出たときや付き合いで外出したときに、本やタバコや酒などの個人的な買い物を済ませているのだろう。
そうすれば、この手の掛かる同居人をひとり部屋に置いて出掛ける必要がないから。
いかにも彼の考えそうなことだ。本当に優しい。

(―――あれ……? でも、じゃあ、なんで……?)

なぜ、きょうに限って、ひとりで出掛けたのだろう?
ちゃぺが外に出たがったのだとしても、黙って行くなんておかしくないか?

いや、待て。海神は「猫を外に出さないようにしなさい」と言った。
それを京介が守らないのは変だ。海神の言葉には絶対服従の男なのだから。

まさか、なにかあったのだろうか? ちゃぺの身に良くないことでも?

心配していても埒が明かない。電話だ。電話して訊いたほうが早い。

(……あ、ダメじゃん。ケータイ持ってねえもん、きょおすけ)

そうだった。いつだったか、どうして持たないのか訊いたら、「必要ないから」という答えが返ってきたのだ。
すっかり忘れていた。

どうしよう? 探しに行くにしても、どこを探せばいいのか見当さえつかない。
第一、ひとりで外に出たら迷子になるのがオチだ。一体どうすればいい?

「起きてたのか」

背後から美声が聞こえた。相変わらず抑揚のない口調だ。

振り返ると、京介がリビングに入って来たところだった。
片手に動物用のキャリング・ケースを持っている。その中に黒い塊が見える。

「なに? どうかしたのか、ちゃぺ?」

「エサを吐いて痙攣を起こした」

「えっ!?」

「だから病院に行って来た」

京介がソファーのそばにキャリング・ケースを置いたので、冬香は急いで膝を折り、ケースの蓋を開けた。
にゃあと鳴いて、ちゃぺが出て来る。

「……あれ? なんか、元気そうだけど?」

「ああ。点滴を打ってもらったら元気になって、医者も大丈夫だと言ってた」

「そっかあ、良かったあ……」

冬香はちゃぺをきゅうっと抱き締めた。

「一応おまえに声を掛けたんだが全然起きなかったんで、ひとりで出掛けた。
なるべく早く診てもらったほうがいいだろうと思って」

「うんうん、そりゃそうだよ。ごめんな。あんがと。ホントあんがと」

「いや」

京介は自室へ行って部屋着に着替え、居間に出て来た。

「コーヒーをもらっていいか」

「あ、オレやる。おめえは座ってろ」

ちゃぺをソファーに置いて立ち上がった冬香は、京介の腕を引っ張って猫の斜め向かいに腰掛けさせ、
ぱたぱたとキッチンへ行き、カップにコーヒーを注いだ。
そして、それを足早に運び、どうぞと言ってテーブルの上に置く。

「ありがとう」

「どういたまして」

ちゃぺの隣に座って手を伸ばし、冬香は何度も何度も黒い身体を撫でた。

「良かったなあ、大変なことになんなくて。きょおすけに感謝しなきゃなあ」

その口調も手つきも眼差しも、愛おしくてたまらないといった様子だ。

京介はコーヒーを飲み、タバコを出して火をつけ、冬香のほうに煙が行かないように注意して吸った。
半分ほど吸ったあたりで、灰皿に押し付ける。

「あれ? もう消すのか? もったいねえな、オイ」

「……訊きたいことがある」

「え、訊きてえこと? うん、なに?」

「プライベートなことに口を挟むつもりはないが、確認したい」

「だから、なんだよ?」

「おまえ、男の恋人がいるのか」