EARLY DAYS〈8〉




目覚めて最初に見えたのは、目前にある唇だった。
その持ち主の首に巻きついた己れの腕も見える。
どうやら、しっかり抱きついて密着しているようだ。

(……ああ、兄ちゃんか……)

自分がこんなふうにして一緒に眠る人間は、兄たちしかいない。3人のうちの誰かだ。
いつの間にか兄のベッドに潜り込んでしまったらしい。

そういえば、今、何時なのだろう? もう朝なのは間違いないようだが。

冬香は少しだけ顔を上げ、目の前の唇に軽くキスをした。

「おはよ……」

そして頭を枕に戻し、瞼を閉じる。

目が痛い。開けているのがつらい。視界もぼやけていた。

(―――え……? あれ……? なんか、変……)

なにが変なのか、しばらく考え、わかった。匂いだ。
兄たちは3人とも香水の愛用者で、それぞれ違うものを使っている。
だから絶えず芳香を漂わせていて、その香りだけで何番目の兄なのかが判別できる。

しかし、これは香水ではない。タバコだ。ほんのりタバコの匂いがする。

(なんで……? コロン使うの、やめたのかな……?)

どの兄だろうと思い、冬香は再び顔を上げ、確かめた。

だが、そこにいるのは兄ではなく、京介だった。黒い瞳が、こちらを見ている。

「っっ!!!」

驚きのあまり、跳ね起きた。そのまま飛び退いた。
危うくベッドから落ちそうになるが、伸びてきた大きな手に腕をつかまれ、事なきを得た。

「落ち着け」

「だだだだだだだって……っ」

それは無理というものだ。兄と間違え、キスまでしてしまったのに。

「ああああああの、あのさ、うち、昔っから外国人がいっぱい出入りしてて、ちゅーとかハグとか当たり前で、
オレもガキん頃から
両親(おや)や兄ちゃんたちと挨拶代わりにやってて、だから、その、それが普通っつうか、なんつうか―――」

「気にしなくていい。別に構わない」

そう言いながら上体を起こした京介は、枕元からミニ・ペットボトルを取り、それを差し出した。
ミネラル・ウォーターだ。

頷いて受け取り、冬香は一気に飲み干した。はーっと息を吐く。
そして、遅まきながら、そこが京介の私室であることに気付いた。

「えっと、あの、なんでオレ、おめえの部屋にいんの……?」

「ゆうべのことを憶えてるか」

「へ? ゆうべ? って―――あ……」

そうだ、夢を見た。あの夢だ。ここしばらく見なかったのに。

「じゃあオレ、うなされてた……? おめえ、起こしてくれたのか……?」

「ああ。それから俺を兄貴と間違えて、抱きついて泣き出したんだ。
ひとりにしておけないと思って俺のところで寝るかと訊いたら、
おまえがそうすると答えたんで、ここに連れて来た。そいつも一緒に」

と、京介が顎で軽く机のほうを示す。
その足元に、猫用のベッドがあった。中に黒い塊が見える。

「最初はおまえのそばで寝てたんだが、おまえがまた俺に抱きついてきたり何度も寝返りを打ったりして、
潰しそうで危なかった。だから、そっちに移した」

「そ、っか……。ごめん、面倒かけて……」

冬香はペコリと頭を下げた。そして、そのまま、うなだれてしまう。

「……よく夢にうなされるのか」

「ううん、最近は全然……」

「以前は」

「……しょっちゅう……」

単なる夢ではない。過去の出来事の鮮明な再生だ。己れの罪でもある。
どうして今になって、また夢に出て来たのだろう? 
似た人物を見掛けたからだろうか?
それとも、やり直すなんて許さない、新しい生活をするなんて認めない、ということなのか?

(そうオレに言いてえのか、カズミ……?)

言われても仕方ない。それだけのことを自分はやったのだ。

呪いたければ、呪え。殺したいのなら、殺せ。好きにしていい。
でも、今はだめだ。もう少し待ってほしい。せめて祖父と兄たちを安心させるまで。
そのときは抵抗しないから―――どんな仕打ちでも受けるから。

「うなされるたびに、兄貴が来たのか」

「あ、うん、部屋が近ェから……んで、自分のベッドにオレ連れてって、一緒に寝てくれて……。
最初っから、一緒に寝たこともあったし……」

そう、あのときも3人でスケジュール調整して、必ず誰かが家にいるようにしてくれた。
ずいぶん無理をさせた。心配もかけた。だから、これ以上は避けたい、なんとしても。
わかってくれ。一生のお願いだ。頼む。

「どれくらいのあいだ続いたんだ」

「え、っと……1年くらい、かな……」

「そんなにか」

「うん、長かったよ……すげえ長かった……」

このまま終わらないのではないかと思ったほどだ。

「だったら、当分ここで寝ろ」

「えっ……?」

冬香は驚き、顔を上げた。

「また続くかもしれないから、そのほうがいい。おまえがうなされたら、すぐ起こしてやれる。
幸い、このベッドはふたりでも余裕で横になれる大きさだ」

「で……でも、おめえに、またヤな思いさせちまうかもしんねえのに……」

「なにがいやな思いだ」

「だから、兄ちゃんと間違えて、抱きついたりとか、ぴーぴー泣いたりとか、ちゅーしたりとか……」

「構わないと言っただろう」

「……寝相悪くて、蹴っ飛ばすかもしんねえし……」

「ゆうべ何度か蹴られたが、痛くもなんともなかった」

「……でも……でもさ……」

「ここで寝ろ。これは俺の“要求”だ。わかったな」

きゅうっと冬香は唇を咬んだ。

「……いいのか、ホントに……?」

「ああ。俺から言い出したことだ」

「……じゃあ、そうさせてもらう。また面倒かけて悪ィけど……」

そのとき、ちゃぺが寝床から出て来た。
とことこ歩いてベッドに近付き、立ち上がって前足をマットにかけ、みーと鳴く。

「あ、起きたのか」

その小さな身体を冬香が拾い上げ、ベッドに乗せた。

すると、ちゃぺは冬香の手に顔をこすりつけてから、
京介のところへ行って膝の上に座り、そこで毛づくろいを始めた。実にリラックスした様子である。

冬香は目を丸くして、美顔と子猫を交互に見た。

「……ちゃんと懐いてんじゃねえか」

「ああ。こういう動物もいるらしい」

「へえ……。けど、良かった。うん、良かったよ。おめえとオレ両方に懐いてくれたほうが嬉しいもんな、やっぱ。
―――あ、そろそろメシにすっか」

冬香はベッドから下り、ぱたぱた出て行った。

その背中を見送ってから、膝の上に視線を移し、こいつのおかげで助かる……と京介は思った。
きのう、動揺していた冬香を元に戻したのも、
今、申し訳なくてたまらないという表情で沈んでいた彼を浮上させたのも、この猫なのだから。
動物は人の心を癒すものだが、冬香にとっては効果覿面のようだ。

「あ―――――っ!」

扉の向こう側から叫び声が聞こえてきた。大きな物音と一緒に。
きっと、また、なにかを落とすか壊すかしてしまったのだろう。

やれやれ……という気分で、京介はちゃぺを膝から下ろして立ち上がり、キッチンへ急いだ。



 *   *   *   *   *   *   *   *   *



ふと目が覚めた。まだ夜中らしい。
隣に、裸の背中がある。京介が横臥して本を読んでいるのだ。
枕元の明かりは彼の大きな身体に遮られ、こちらまで届かない。だから暗い。
そして静かだ。ページをめくる音だけが、かすかに聞こえる。
時折、氷がグラスに当たる硬質の音も、少しだけ響く。

「―――どうした」

肩越しに振り返り、京介が尋ねた。

「ううん、別に……ちょっと目ェ覚めただけ……」

「眠れるか」

「うん、大丈夫……。ちゃぺは……?」

「さっきまでリビングで走り回ってたが、今は寝てる」

「そっか……」

そういえば、いつの間に京介は、きちんと目を合わせて話すようになったのだろう?
以前は、ほとんどそうしなかったのに―――

「おまえも寝直せ。まだ2時だ」

「うん……」

冬香は再び瞼を閉じた。

同じベッドで就寝するようになって、きょうで3日目になる。
夢にうなされたことは全然ない。今夜もなさそうだ。安眠の夜が続いている。

(なんか、平気みてえだな、今回は……)

また何度も繰り返すかもしれないと思ったけれど、たった1回だけだった。
もう問題ないだろう。あしたから自分の部屋に帰ろう。ちゃぺのベッドも隣室に戻そう。
そうすれば、京介にかけている面倒が少しは減る。
良かった。安心した。

吸い込まれるようにして、冬香は眠りの中に入っていった。