EARLY DAYS〈7〉
「なあ、たまにゃ外にメシ喰いに行かねえか?」
そう冬香が言い出したのは、一緒に暮らし始めてから3週間近く経ったある日の夕方のことだった。
いつも出前かコンビニで売っているものばかりの食事なので、さすがに少々飽きてしまっていた。
冬香から食事に誘うのは、すでに日課になっている。
そうしないと京介が食べないからだ。
空腹でも平気で、食べることにまったく興味がないらしい。
「ダメか? ちゃぺは少しくらいなら目ェ離しても大丈夫だしさ」
「なら、駅のほうへ行くか」
「こっから歩いてどんくらい? 喰いもん屋、いっぱいある?」
「約20分だ。いろんな食べ物屋が並んでる」
「じゃあ行く」
ふたりは仕度して、外に出た。
海神学院大学の創設により学生たちが来るようになって以降、大きく変貌した。
まず駅舎の改築工事が行なわれ、それに続いて駅前商店街も整備・拡張され、様々な店が次々とオープンし、
随所にマンションやアパートまで急増するに至り、一気に活気付いたのだ。
現在では学生以外の住人も増え、買い物客が集まるようになり、以前の暗かった町のイメージは影も形もない。
ひとえに海神
幸一郎の功績といえるだろう。
「へえ、いろんな店があるんだなあ」
大勢の人間が行き交い、大変にぎわう中、冬香はキョロキョロしながら歩いている。
商店街に来るのは初めてゆえ、見るものすべてが目新しい。
「なあ、なに喰う? 喰いてえモンある?」
「いや、なんでもいい。おまえが決めろ」
「うーん、なんにしよっかなあ」
冬香は駆け出し、中華料理店の前で立ち止まった。しかし、店内を覗いただけで、すぐ踵を返してしまう。
そして隣のイタリアン・レストランに行ったのだが、また同じように中の様子を窺っただけだ。入ろうとしない。
そうやって次から次と飲食店を見て回る彼のあとを、京介は黙ってついて行った。
決して離れ過ぎず、ひとめで連れだとわかるような距離を保ちながら。
ようやく冬香が足を踏み入れたのは、商店街から少々はずれた場所にある古い定食屋だった。
座敷にテーブルが4つしか置かれていない、とても小さな店だ。
客の姿はなく、厨房に夫婦らしき老人たちがいる。
その奥の席に、ふたりは向かい合って座った。
テーブルが低いため、脚がつかえてしまって、京介はかなり窮屈そうだ。
それに気付いた冬香は顔をしかめ、あちゃ〜……と吐息混じりに呟いた。
「やめよっか? ほかの店に行く?」
「いや、ここでいい」
老婦人が茶を持って来たので、冬香は刺身定食、京介も同じものを頼んだ。
「1人前だけで足りるのか」
「ううん、全然。まあ、とりあえず、だから。
それよか、ごめんな。客がいねえ店のほうがいいだろうと思って、ここに決めたんだけど、
おめえの脚の長さとかテーブルの高さまでは考えてなかったよ。失敗したぜ」
「なぜ客がいないほうがいいんだ」
「だって、すごかったじゃん、さっき歩いてるとき。みんなして、おめえのことジロジロ見てさ。
まあ、ヤツらの気持ちはわかるけど、でも、おめえにしてみりゃあんなに見られたら居心地悪ィだろ?
だから、なるべく人目のねえとこのほうが落ち着いてメシ喰えるんじゃねえかと思ったわけさ」
京介は内心、溜め息をついた。
(自分も注目されてたのに、気付かなかったのか……)
特に若い男の大半は、あからさまに視線を向けていた。
中には、恋人らしき女性を同伴しているにも関わらず、すっかり見惚れてしまっている者もいた。
あのような状態では、普通なら、いやでも気がつくはずだが。
(……ああ、そうか)
たぶん、そんな余裕がなかったのだ。
最初は商店街を眺めるのに夢中で、そのあとは客のいない店を探すのに懸命で、
己れに注がれる周囲の視線など目に入らなかったのだろう。
冬香らしいといえば、らしい。
それに、1人前しか注文しなかったのは、恐らく、すぐ帰るためだ。
窮屈な思いをさせて申し訳ない、ここに長居させたくない、と考えているに違いない。
(人一倍不器用なくせに、気なんか遣って……)
けなげというか、なんというか―――
京介は茶を飲んでから、改めて冬香を見据えた。
「俺のことは気にしなくていい。無遠慮に見られることには、もう慣れてる」
「え……そうなのか?」
「ああ。それから、確かに窮屈だが、おまえが満腹になるまで食べるくらいのあいだは我慢できる。
だから、食べたいだけ頼め」
「……なんだ、バレてんのかよ。隠し事できねえな、おめえにゃ」
そこに定食が運ばれてきたので、冬香は5人分の追加注文をした。
老婦人は驚いたが、すぐ笑顔で承諾し、厨房へ戻って行った。
「んじゃ、おコトバに甘えて遠慮なく」
「ああ」
意外に美味だった食事を終えて店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
商店街へ引き返し、来たときとは違う道を通る。
ほかにどんな店舗があるのか見たいと冬香が言い出したので、それに京介が応じたのだ。
冬香は興味深そうに周りを眺めながら、軽い足取りで進んでいく。
だが、不意に立ち止まった。身体が固まったようだった。
大きな双眸は更に大きく見開かれ、瞳には異様な光が宿り、顔色まで変わってしまっている。
少し先にライブ・ハウスの看板があり、傍らに楽器ケースを抱えた5人の若い男女が立っていた。
彼等の中のひとりに、冬香の目が釘付けになっている。
しかし、それは、ほんの束の間のこと。
何度か瞬きしながら深い息を吐くと、振り切るように歩き出した。
「……大丈夫か」
「え? あ、うん、ちょっとビックリしただけ。知ってるヤツかと思ってさ。
でも、雰囲気が似てるだけで、ほかは全然違う。なんで間違えたりしたんだろ?
バカみてえだな、オレ。大体、こんなとこにアイツがいるわきゃねえのに」
努めて明るく言うものの、声は震えを帯び、視線が定まらない。あきらかに動揺している。
冬香がそんな態度を見せるのは初めてだ。
マンションに帰り着くまで、ほとんど喋らなかった冬香だが、
ちゃぺの顔を目にすると笑顔で話し掛け、楽しそうにミルクと離乳食を与えたり、トイレの片付けをしたりした。
普段の彼に戻ったようである。
その深夜。
いつものように入浴後もベッドの中で読書を続けていた京介は、
時計を見てキッチンへ行き、猫のミルクを作った。そろそろ授乳の時間だった。
だが、中々冬香が起きてこない。
ここしばらく不規則な生活が続いていたので、疲れが溜まってしまい、ぐっすり眠っているのかもしれない。
カリカリという音が聞こえてきた。爪でドアを引っかいているようだ。
開扉すると、ちゃぺが出て来て、京介の足に身体をすり寄せた。
―――驚いた。
冬香に言った通り、動物に懐かれたことはおろか、近付いて来られたことさえない。
正確には、怯えて近寄って来ないのだ。
子供の頃は不思議だったけれど、真実を知ったとき、そういうことだったのかと納得がいった。
しかし、この猫は違う。鈍感なのか、あるいは怖いもの知らずなのか。
なんにせよ、良かった。これで、わざわざ冬香を起こさなくて済む。
ちゃぺをすくい上げ、ソファーに移動して、京介はミルクを飲ませた。
まだ足りないようだったので、離乳食も作って食べさせた。
小さいくせに、すごい食欲だ。まるで冬香みたいだと思う。
満足したのか、ちゃぺは京介の膝の上で丸くなり、寝息を立て始めた。
布越しに伝わってくる体温が心地好い。身体の重みも、また然り。
なんだか奇妙な感じがする。
動物に触れることなど、自分には一生できないものだと思っていたのに―――
京介は突然、顔を上げた。
(……気のせいか?)
今、なにか聞こえたような。
―――いや、間違いない。また聞こえた。確かに聞こえた。呻き声だ。
ちゃぺをそっとソファーに移し、京介は冬香の私室へ急行した。
枕元の明かりをつけると、薄闇の中に苦しそうな顔が浮かぶ。
額から無数の汗の粒が流れ、唇が小刻みに震え、毛布を握り締めていた。
悪い夢でも見ているのか、途切れ途切れに唸り、「カズミ」という言葉を繰り返している。
「起きろ。目を覚ませ」
呼び掛け、肩を揺すってみたが、だめだ。何度やっても効果はない。
今度は頬を軽く叩き、思わず叫んだ。
「しっかりしろ! 冬香!―――冬香っ! 目を覚ませっ! 冬香っ!!」
こんなに大きな声で誰かの名を呼ぶのは、何年振りのことだろう。
それが届いたのか、冬香の震えが止まり、瞼が持ち上げられた。
しかし、目の焦点が合っていない。ぼんやりしている。なにも見えていないようだ。
やがて、瞳がのろのろと動き、美顔を捕らえた。
すると冬香は、両腕を伸ばして京介の首にしがみつき、泣き始めた。
何度も「兄ちゃん」と言いながら、まるで子供のように泣きじゃくる。京介を兄だと思っているらしい。
「ま……また、おんなじ夢……み……見ちま……っ」
「……どんな夢だ」
「カ、カズミ、の……怖ェ……悲し……」
「……俺のところで寝るか」
「ん、寝る……一緒に、寝る……」
京介は冬香を抱き上げ、自室へ運んでベッドに寝かせ、そのまま自分も横になった。
冬香が首にしがみついて離れないので、そうするしかなかったのだ。
彼の腕を無理矢理ほどく気には、とてもなれなかった。
やがて泣き疲れ、冬香が眠りに落ちる。
それを確かめてから起き上がった京介は、キッチンでタオルを濡らし、涙と汗で汚れた冬香の顔を丁寧に拭いてやった。
パジャマも湿っていたので、隣室のクローゼットから替えを持って来て着替えさせた。