EARLY DAYS〈6〉




しばらく雨や曇りの日が続き、久し振りに晴れ渡った日の午後のこと。
土産にシュークリームを持って、海神が訪ねて来た。いきなりの来訪だった。

京介が迎え入れ、コーヒーを用意し、ソファーに向かい合って座る。

ありがとうと告げ、海神はカップに口をつけた。

「冬香くんは? いないのかい?」

「寝てます。鼻血を出してしまって」

「鼻血? なぜそんな?」

「午前中に掃除と洗濯をしたんですが……」

ここへ来て初めての本格的な家事だった。
まず洗濯機で洗えるものと洗えないものを分け、そして洗剤を取り出すと「オレ入れる」と冬香が言い出したので、
「スプーン1杯分でいい。あとは、このボタンを押せ」と教え、京介は掃除機を持ってリビングに移動した。
しかし、急いで戻らざるを得なくなった。驚き混じりの叫び声が聞こえてきたからである。
脱衣所では無数のシャボン玉が飛び交い、床も洗濯機も冬香も泡まみれだった。
訊けば、洗剤を1箱分、全部入れたのだという。理由は「いっぱい使ったほうがキレェになると思ってさ」だ。
呆れながらも、とりあえずシャワーで泡を流すように言い渡すと、冬香は頷き、そのまま浴室へ向かったのだが、
バスマットにつまづいて前のめりに倒れ、顔面をガラス戸に強打してしまった。
どうやら泡が目にまで入って痛くて開けられず、ほとんど周りが見えなかったらしい。
「どうして見えない状態で歩くんだ」と問うと、
「だって、もう慣れた場所だから、適当に歩いても大丈夫だと思ったんだもんよ」という答えだった。

事の詳細を聞き、海神は苦笑している。

「鼻血が出ただけで、ほかに異常はありません。心配なさらないでください」

「うむ。それで冬香くんを休ませ、結局きみが洗濯と掃除を全部ひとりで?」

「はい」

泡だらけの脱衣所を綺麗にしたのも、洗濯機で洗えないものを1階のクリーニング・ショップへ持って行ったのも、
京介だった。

「そのあと様子を見に行ったら、ぐっすり眠ってました。
たぶん寝不足だと思います。2、3時間置きに猫にミルクをあげてるので」

「ああ、そうだったね。きちんと世話をしているのかな?」

「はい、意外に」

「同居が始まって10日余り経つが、あの子との生活はどうだい?」

「海神さんがおっしゃった、なにかにつけて大変だろうが、という言葉を痛感しています」

「いやになった?」

「いえ、そうは思いません。正直いって助かってます。
いろいろとやらかしてくれるんで、その後始末に追われてると時間が過ぎるのを早く感じますから」

「……なるほど」

海神は組んでいた脚をほどき、少しばかり身を乗り出した。

「ところで、その後、体調のほうは? 変わりないかな?」

かすかに瞼を伏せ、京介が口を開く。

「ここへ来て2日目の夜中に、いつもの発作のようなものがありました」

「というと、もう冬香くんがいたね。その晩、あの子は?」

「俺の部屋の出入り口に倒れてました。ドアを開けて、まともに浴びてしまったんでしょう。
普通の人間なら気を失って当然です」

「あの子は、なぜきみのところへ?」

「堪えたつもりだったんですが、俺の呻き声がもれてしまって、それを聞きつけて様子を見に来たんだと思います。
次の日の朝、ゆうべ苦しんでたけど大丈夫かと訊かれましたから。
夢でも見たのかと言って誤魔化しましたが」

「ふむ……」

冬香に問うてみたいと海神は思った。
本当に京介の呻き声が聞こえたから、彼の部屋へ行ったのか? そこで一体なにを目撃し、どう感じたのか?
そして、黙って見ていただけなのか、それとも行動に出たのか? 後者だとしたら、どんな行動を取ったのか?
だが、残念ながら問えない。そこまで割り込んではいけない。
それは、ふたりが己れの意志で互いに打ち明けなければ意味のないことなのだから―――

左側の個室の扉が開き、冬香が目元をこすりながら出て来た。
白いウサギの着ぐるみ姿だ。フードには長い耳、尻には丸いシッポがついている。

「ごめん、きょおすけ。いつの間にかオレ、すっかり眠っちまって……え?」

来客の姿を見つけた途端、びっくり眼になった。

「あれえ? どうしたんだよ、おっちゃん。きょう、休み?」

そう言いつつ海神に歩み寄って、軽くハグし、頬を交互に合わせる。

「いや。急に少し時間が空いたから、きみたちの顔を見に寄らせてもらったんだよ。
顔をぶつけてしまったそうだが、大丈夫かい?」

「うん、もう平気。血は止まったし、鼻も痛くねえし」 

「それは良かった。で、そのパジャマは秋斗くんの趣味?」

「お、すげ、当たり。よくわかったな。いっぱい買ってくれたよアキちゃん」

「やはりか。いかにも彼が好きそうだからねえ」

海神の隣に腰掛けた冬香の前に、キッチンへ行っていた京介がコーヒーを運んで来て置いた。
もちろんミルクも忘れずに添える。

「あんがと。いただきま。―――あ、なあ、掃除と洗濯は?」

「もう終わった」

「うわー、ごめん。ホント悪ィ」

「気にするな」

京介は立ったまま、海神に視線を移した。

「すみません。ちょっと出掛けて来ます」

「えぇ? なに言ってんだオイ。別に今じゃなくてもいいだろうが」

「構わないよ。行って来なさい。気をつけてね」

「はい」

自室へ入ってコートを取り、海神に会釈して、京介は出て行った。

冬香はコーヒーを啜りながら憮然としている。

「ったく、もう。よりによって、おっちゃんが来てるときにわざわざ出掛けるこたぁねえのにさあ。
アイツってば一体なに考えて―――あ!」

いきなり目を見開き、慌てて海神を見上げた。

「気ィ悪くすんじゃねえぞ? 違うから。おっちゃんが来てるから、だから」

「だろうね。きみとわたしをふたりきりにさせてくれたのだと思うよ?」

「あ、なんだ、わかってんのか。だったらいいや。良かった」

ほっと吐息した冬香を眺め、海神はほほえんだ。
かなり鈍感な子なのだが、他人のさりげない厚意は敏感に感じ取る。
幼い頃からそうだった。今も変わっていない。それが嬉しい。とても嬉しい。

「では、おチビさん。せっかく京介くんが機会を作ってくれたのだから、ふたりきりでしかできない話をしよう。
彼との生活はどうだい?」

途端に冬香は、がっくりと肩を落とした。

「も、きょおすけに迷惑かけまくり……。オレ、自分がなんもできねえヤツだってこたぁ一応わかってたけど、
ここまでヒデェなんて思わなかったよ……」

「おやおや」

「でも、アイツ、気にしてねえって感じで面倒見てくれてんの。
すんげえ優しくて、気ィ利くしな。アタマ上がんねえぜ、んっとに……。
この前なんか、行きてとこはどこでも連れてくから、もうひとりで出掛けんなって言い出してさ」

そのことを冬香が詳しく話すと、海神は少々驚いた。

「では、外でも京介くんと一緒に?」

「そ。今んとこ、コンビニに迎えに来てもらっただけだけど、
大学に入ったらもっと―――あ、や、その前に、ペット・ショップ連れてってもらわなきゃ。
もうミルクが残り少ねえんだ。ついでにトイレのシートも買わねえと」

冬香は壁の時計に目をやり、立ち上がってキッチンへ急いだ。

「ごめん、おっちゃん。ちょっと待ってて。ちゃぺのメシの時間だから」

「ちゃぺ? そう名付けたのかい?」

「うん。カワイイだろ? 実物は何倍もカワイイけどな」

手際良くミルクを作って哺乳瓶に入れ、自室から子猫を連れて来た冬香は、
海神の隣に腰掛けて、膝の上で授乳を始めた。実に慣れた様子である。

それを見ていて、海神はふと思い出した。
まだ子犬だったワンコを冬香が育てていたとき、彼の祖父が「自分の世話はまともにできないくせに、
犬の世話は驚くほどしっかりやっている。まったく不思議なものだ」と言っていたことを。

「ほう、すごい勢いだね。そんなにたくさん飲ませていいのかい?」

「うん。医者が、ハラ壊したりしてなきゃ飲みてえだけ飲ませてやれって。
コイツってば、よく飲むし、よく寝るし、元気に育ってくれそうだよ」

「そうか。―――うむ。確かに、とても可愛らしい顔立ちをしているね。
それに、見事に黒くて綺麗な体毛だ。まるで京介くんの髪の毛のような」

思わず冬香は吹き出した。

「うんうん、オレもそう思ったよ。ホント同じ、アイツと」

そして不意に口調を変え、静かに問う。

「なあ、おっちゃん。きょおすけって、すんげえ美人だよな?」

「そうだね」

「笑ったら、もっとずっと、めちゃくちゃキレェだよな?」

「きっとね」

「どうしたら笑うのかな? どうすればいいと思う?」

「それは恐らく、きみ次第だろうね」

「は? オレ?」

きょとんとした冬香は、次いで苦笑いをこぼす。

「ムリムリ。できるわけねえじゃん、そんなのオレに。
アイツを呆れさせたり怒らせたりするこたぁあっても、笑わせるなんて絶対ねえよ。絶対ムリ」

ただ微笑するだけで、海神はなにも言わなかった。
なにか言う必要などない。早くも成果が出始めている。
京介は以前より口数が増えたし、冬香の様子は穏やかだ。
好ましい関係を築きつつあるように見える。
今のままでいい。今のまま進んでいけば―――

「そろそろ、おなかいっぱいになったかな?」

「うん、終わり。ごっそさんだ、ちゃぺ」

「ところで、きみたちの食事はどうしているんだい?」

「コンビニで買ったり、出前頼んだり。だから鍋とか使ってねえよ、全然。
ごめんな、おっちゃんがせっかく用意してくれたのに」

「いや、構わないよ。きちんと食べているのなら」

「オレが喰わねえわけねえだろ?」

「確かに。―――おっと、呼び出しかな?」

海神は懐から携帯電話を取り出し、その画面を見た。

「マキちゃん?」

「ああ、メールだ。さて、仕事に戻るとするよ。
次はいつ会えるかわからないが、元気でね。なにかあったら連絡しなさい」

「うん、おっちゃんも元気でな。もう年なんだから、あんまムリすんなよ?」

「あはは、まったくだ。気をつけるよ」

そして海神は出て行き、彼と入れ替わるように京介が帰って来た。
買い物をしてきたようで、タバコと洋酒、それから猫用ミルクとトイレ・シートを持っていた。
感心するしかない冬香だった。