EARLY DAYS〈5〉




「あ、もしもし? おっちゃん? 今、大丈夫?……あのさ、頼みがあんだよ。ネコ飼っちゃダメかな?
……うん、そう。拾ったんだ、さっき外で。真っ黒いメスのガキんちょ。や、まだ赤ん坊っつってもいいな。
きょおすけは、おっちゃんが許したら飼ってもいいって。なあ、頼むよ」

海神は最初、難色を示した。京介が予想した通り、レジデンス・コウはペット禁止のマンションだったのだ。
しかし、拾った経緯と獣医師から言われた言葉を聞き、冬香に繰り返し懇願されるうちに、ついに折れた。
責任を持って飼うこと、決して部屋から出さないこと、という条件つきで許可したのだった。

「あんがと、おっちゃん!……うん。……うん。んじゃ、またな」

冬香は満悦の表情で電話をテーブルに置いた。

「OKしてくれたよ。あと、おめえにヨロシクってさ」

「ああ。それで、世話のほうは大丈夫なのか」

「おう、バッチリ。経験者だもん。ワンコっつうイヌ飼ってんだけど、オレが拾って育てたんだ。
アイツと同じで、生まれて1ヶ月も経ってねえ頃に捨てられてたの見っけてさ。
ひとりで面倒見るんなら飼ってもいいって言われたんで、兄ちゃんたちに世話する方法だけ教えてもらって、
ちゃんと育てたよ。すんげえ寝不足になったから授業中に寝てたけどな」

「なら、いいが」

「でなきゃ、飼いてえなんて言わねえって。ただでさえ迷惑かけまくりなんだから、
これ以上おめえの負担になるようなことしたくねえもんよ。―――あ、そうだ、名前。名前つけなきゃ。なんにしよ?」

ソファーの上であぐらをかき、腕を組んで、うーん……と考える。

「……うん、ちゃぺ。ちゃぺがいいや。よし、決めた」

「方言か」

「へえ、よく知ってんな」

「本で読んだ」

「ふうん。オレぁタカじいに聞いたよ」

東北地方のある地域で、猫のことを ”ちゃぺ ”というらしい。
高木の父親の出身地なので、子供の頃よく遊びに行き、そこで覚えたのだそうだ。

「音がカワイイよなあ、ちゃぺって。うんうん、アイツにぴったりだぜ」

「―――話がある」

突然、京介が告げた。珍しく冬香の目に視線を据え、じっと凝視しながら。

「あ? なんだよ、急に改まって。なんの話?」

「大学には俺が同行する。もちろん帰りも、ほかの行きたい場所へもだ。
だから道を覚える必要はない。もう出掛けるな」

冬香は双眸を見開き、何度か瞬きした。

「ダ、ダメだよ、そんな。絶対ダメだ。そこまで面倒かけるわけにゃ―――」

「この5日間、ひとりで出掛けて大学に着けたことがあったか」

「う……」

ない。ただの1度も。
途中で男から声を掛けられて喧嘩し、行く気が失せて帰って来る―――その繰り返しだった。

「俺が一緒なら、迷子になることもナンパされることもない」

「そりゃ、そりゃそうだけど、でも、ただでさえ迷惑かけてんのに……」

「心配させられるほうが迷惑だ。また道に迷ったり暴れたりしてるんじゃないか、
今度は大怪我をして帰って来るんじゃないか思うと、心配で落ち着かなくなる。
それよりは目の届くところにいてくれたほうがいい。遥かに気楽だ」

「……でも……でもさ……」

「猫の件で、尚更それを痛感した。おまえだけだったら、怪我をするだけじゃ済まなかったかもしれない。
最悪の場合もあり得ただろう」

「あー……うん、まあ、確かに……」

それは認める。あのままブロック塀に激突して打ち所が悪かったら、大変な事態になっていたと思う。
京介のおかげで、かすり傷ひとつ負わずに済んだ。

「あんな無茶をする奴だとわかった以上、危なくて、とてもひとりにしておけない。
俺がそばにいればフォローできる。海神さんも安心するはずだ」

「……けど、さすがに、そこまで面倒かけんのって、やっぱり、なあ……」

渋り続ける冬香に、京介は畳み掛けた。

「ここに越して来たとき、なにか要求があれば聞くと言ったのを憶えてるか」

「あ、うん。憶えてるよ、もちろん」

「今後、絶対ひとりで出掛けるな。どこへでも連れて行くから、行きたいところがあれば必ず俺に言え。約束しろ。
―――これが俺の要求だ」

「え……え? なんか、おかしくねえか、それ?」

「自分から言い出したことだろう。聞けないのか」

冬香は少々ムッとした。

「失敬な。男に二言はねえぞ? 聞くさ。聞くに決まってんだろうが」

「だったら約束しろ」

「おう、約束したる。ひとりじゃ出掛けねえよ、もう絶対。……あれ?」

なんだか、上手く言いくるめられたような。気のせいか?

でも、約束した以上、守らなければならない。
約束というのは、守るためにするものなのだから。
そう母から厳しく教え込まれている。

「……あ。なあ、コンビニは? コンビニも、ひとりで行っちゃダメなのか?」

「1階はいい。だが、もし店の中や外でナンパされたら無視して帰って来い。
相手に追い掛けられたら、その場で電話しろ。すぐ迎えに行く」

「え、なんで? 追っ掛けられたら、ここに帰って来ちゃマズいわけ?」

「マンションの中まで入って来るかもしれない。そうなると厄介だ」

「あー、そっか。そりゃめんどくせえな、確かに。うん、わかった」

冬香はコーヒーを飲み、ふう……と小さく吐息した。
そのとき、テーブルの上の灰皿が目につき、あ、と思い出す。

「あのさ、ひとつ訊きてえことがあんだけど」

「なんだ」

「おめえさ、もしかして、オレの前でタバコ遠慮してんじゃねえか?」

京介の眉が一瞬だけ動く。
驚いた。まさか気付いているとは思いもしなかった。

「そうなんだろ? だって、兄ちゃんたちと同じなんだもんよ。
オレの前じゃ絶対吸わねえし、吸ってるとこにオレが行くと必ず急いで消すしさ」

「当然の配慮だと思うが」

「そうかもしんねえけど、ヤなんだよオレは。目の前で好きなモン我慢されんのって、すっげえヤなんだ。
別に煙が苦手とか匂いが嫌ェとか、そういうの全然ねえし。
だから兄ちゃんたちに言ったんだ、気ィ遣うんじゃねえって」

「それで、兄貴たちは吸うようになったのか」

「なった。最後にゃ、吸わなきゃもう口利かねえぞって脅したけどな」

身を乗り出し、冬香は美顔を軽く睨みつけた。

「つうわけだから、おめえも吸え。オレに遠慮すんな。そういうのヤだから」

「……それは要求か」

「そうだよ。決まってんだろうが。オレの要求だ。聞いてくれるよな?」

「……わかった。もう遠慮しない」

冬香が引き下がりそうになかったので、とりあえず承諾したものの、
彼の前ではタバコの本数を控えようと思う京介だった。もちろん子猫の前でもだ。




ぱっと目が覚め、むくっと起き上がって、枕元の明かりをつける。
そして携帯電話の時間を見ると、午前3時を少し回ったところだった。

(よっしゃ、時間通り)

冬香はベッドから出て、ちゃぺの寝床を覗き込んだ。

もぞもぞと毛布の中で動いていた黒い塊は、冬香と目が合った途端、みーと鳴いた。
小さな身体に似合わない、やけに張りのある元気な声だ。

「うん、ちょっと待ってろ。すぐ用意すっからな」

ちゃぺの頭を撫でてから立ち上がり、自室のドアを開ける。

キッチンに明かりがついていて、そこに京介の姿があった。
上半身だけ裸の格好で、氷入りのグラスにバーボンを注いでいる。

「あれ、まだ起きてたのか?」

「いつも寝るのは明け方近くだ」

「へえ、そうなのか。でも、おめえ、毎朝9時くらいにゃ起きてんじゃん。
そんなんで足りんのかよ、睡眠時間。寝不足になんねえ?」

そう問いながら近付いて来た冬香に、京介は哺乳瓶を差し出した。
その中には適温のミルクが入っている。むろん子猫専用のものだ。

「え……なに? わざわざ作ってくれたわけ?」

「台所に来たから、ついでだ」

「……あんがと。助かるよ」

京介は軽く頷き、バーボンのグラスを持って自室へ戻って行った。

その背中を見送りながら、ウソばっかり……と冬香は思う。

(ついでに作ったのは、酒のほうだよな、きっと……)

しっかりと授乳の時間を見計らって、キッチンに立ったのだろう。
そうでなければ、こんなにタイミング良くミルクを用意できるはずがない。
手伝えないと言ったのに、さりげなく協力してくれる。やはり優しい男だ。

(けど、いつも明け方までなにやってんだろ? やっぱ、本読んでんのかな?)

昼間も大抵の時間を読書に費やしている。
よほど本が好きなのだろうが、でも、なんだか不自然というか、おかしいというか、
そういう感じがしないでもない。気のせいだろうか?

それにしても、相変わらず綺麗な裸体だった。
まともに見たのは数日振りだけれど、やはり男らしくて、魅力的で、うらやましい。憧れる。
自分も、あんな身体だったら……と思わずにいられない。コンプレックスが疼いてしまう。

(―――え?)

みー、と泣き声が聞こえた。開けっ放しの自室のドアのほうからだ。

見ると、ちゃぺがおぼつかない足取りで歩いて出て来たところだった。

「あー、ごめんごめん。ハラ減って待ってらんなくなったか」

冬香は慌てて駆け寄り、小さな身体を片手で拾い上げた。

「んじゃメシにしようぜ。きょおすけが作ってくれたぞー」

室内に入ってベッドに腰掛け、ちゃぺを膝の上に乗せ、哺乳瓶の乳首を咥えさせるやいなや、
すごい勢いでミルクが減っていく。いっそ見事なくらいだ。

「よしよし、いっぱい飲め。どんどん飲め。いくらでもやっからな」

その様子を眺めているうちに、ふと思った。
全身が黒一色の艶やかな体毛は京介の髪の毛によく似ている、と。