EARLY DAYS〈4〉




同居を始めて6日目の昼下がり。
京介は居間のソファーに横たわり、時折コーヒーを飲んだりタバコを吸ったりしながら本を読んでいた。
定期的なペースでページをめくっていく。

冬香はいない。道を覚えるために外出中だ。いつ帰るかはわからない。

ここ数日、快晴の日が続いていたのに、きょうは朝から曇っている。
天気予報によれば、夜には本格的に雨が降るだろうということだった。

不意に京介が顔を上げ、窓の外を見た。いきなり空が一段と暗くなったからだ。
予報ははずれるかもしれない。今にも降り出しそうな空模様である。

(早く帰って来ればいいが……)

そう思ったとき、まるでタイミングを計ったように、ぽつぽつと雨の粒が窓ガラスを打ち始めた。

それと同時に電話が鳴り出し、室内の静寂を壊す。

『あ、きょおすけ? オレだけど』

冬香だった。電話を掛けてくるのは初めてだ。

『あのさ、迷っちまったんだよ。えっと、ブックス・サトウっつう本屋があって、
その隣にゃ花屋と八百屋とケーキ屋が並んでんだ。どこだかわかるか?』

「ああ」

ここへ来た初日に行った書店だ。
このマンションから遠く離れているわけではないが、少々道が入り組んでいるため、理解しやすく説明するのは難しい。

「そこにいろ。迎えに行く」

『え、いいよ、そんな。教えてくれりゃひとりで帰っから』

「傘を持ってないだろう」

『平気。濡れても気になんねえもん』

「いいから待ってろ。すぐ行く」

電話を切った京介は、自室へ入って部屋着からコットン・シャツとジーンズに着替え、
ロング・コートを無造作につかんで玄関へ急いだ。
シューズ・ラックの隅に2本の傘が用意されていたことを思い出しながら。



降りしきる雨の中、冬香は書店の軒先に立っていた。
トレーナーとセーターを重ねて着込み、ボア地のコートを羽織っているにも関わらず、
寒そうに首をすくめて両手をポケットに突っ込み、身体を軽く揺らしている。

早く彼のところへ行きたい京介だが、赤信号に阻まれてしまった。

ひとりの若い男が冬香に近付き、なにか話し掛けた。
冬香はプイとそっぽを向く。
しかし、男は諦めない。しつこく話し掛ける。
冬香の表情が段々険しくなっていくのが、離れた場所からでも見て取れた。

まずいと京介は思う。あのままでは堪忍袋の緒が切れ、手を出してしまうだろう。
信号が青に変わるやいなや、書店へ急行した。

その姿に気付いた冬香はホッとし、小走りで駆け寄って京介の傘に入った。

「悪ィな、わざわざ」

「いや。間一髪か」

「あ、見てた? うん、もうちょっとでブン殴るとこだったよ。助かったぜ」

「寒いのなら、本屋の中で待ってれば良かったのに」

「最初はそうしたさ。でも、ナンパされちまって、暴れたら店に迷惑かかると思って外に出たんだ。
ソイツが追っ掛けて来なかったからケンカしなくて済んだけど」

冬香は後ろを振り返った。
先程の男は、もういない。早々に立ち去ったらしい。

「んで、どうする? このまま帰るか? それとも、どっか寄る?」

「俺は別に用はない」

「じゃあ帰ろっか」

もう一本の傘を京介から受け取り、それを開こうとしたとき、ふと冬香は気付いた。いつの間にか小雨になっていることに。
空も若干明るくなっている。

「じきに止みそうだな。あー、良かった。カサ持って歩くの嫌ェなんだよオレ。
なあ、とりあえず、おめえのに入れてってくんねえかな?」

京介は頷き、ふたりは相合傘で歩き出した。

分かれ道が見えると、京介が即座に「そこは右」とか「このまままっすぐ」などと行くべき方向を告げる。
おかげで冬香は、悩むことも足を止めることもなくスムーズに進んで行ける。
優秀なナビゲーターといえよう。
しかも、京介が曲がり角で自然に位置を換え、常に車道側を歩くようにしている。
車が通るたびに上がる水しぶきを、すべて自分が受けているのだ。

それに気付いた冬香は、驚き、感嘆した。

(ホントすげえな、コイツって……)

初めて会った日の夜、隣県まで迎えに来てくれたときもそうだった。
そういう細やかな気遣いを当たり前のようにする男なのだ。
いくら恩人である海神の頼みだからといっても、普通、そこまではやらないだろう。いや、できないだろう。
彼の人間性から出てくるものなのだと思う。

(それに、コイツ、たぶんタバコも―――えっ!?)

いきなり冬香は目を見張り、そして全速力で駆け出した。

十数メートル先の路上で、猫がうずくまっている。まだ子供だ。
うっすらと濡れた黒い身体を小さく震わせながら、みーみーと必死に鳴いている。

その向こうから、中型のトラックが来ていた。
乗用車や二輪車以外の進入が許されていないような住宅街の中の狭い道路なのに、
堂々と走って来る。かなりのスピードだ。
猫の存在に気付かないのか、減速する気配はまったくない。

冬香は子猫を拾い上げ、そのまま道路脇まで走り抜けた。
勢い余って、民家を囲うブロック塀に激突しそうになるが、
いつの間に移動したのか塀の前に京介が立っている。しっかりと彼に抱き留められる。
おかげで激突は免れた。

「クソバカヤロウッ!! んな狭ェ道ブッ飛ばしてんじゃねえよっ!!」

走り去って行くトラックに怒声を叩きつけてから、美顔を見上げた。

「あんがと。でも、ビックリしたぜ。まさか、ここにいるたぁ思わなかった」

「先のことを予想して動いただけだ。それより猫は」

手の中を見ると、依然みーみー鳴いている。冬香の指にしがみつきながら。

「うん、大丈夫みてえ。ノラかな? 母ちゃん、探してんじゃねえか?」

「いや。あそこから這い出して来たんだろう」

京介が視線を向けたのは、道路の反対側に立つ電信柱だ。
その陰に小さな段ボール箱が置かれ、”拾ってください ”と書かれている。

冬香は思い切り顔を歪めた。

「クソバカヤロウばっかだな、ったく……」

苦々しく呟きながらもコートの前を開け、胸元に子猫を入れてファスナーを半分ほど閉じ、そっと両腕で抱き締める。

そして念のため、足早に段ボール箱を覗きに行った。
ほかにも捨て猫がいるなら、一緒に保護するつもりだ。放っておけるわけなどない。
幸い、箱の中にはタオルケットが入っているだけだった。
一応あたりも見回したが、それらしき猫の姿はない。捨てられたのは1匹だけのようだ。

放り出したままの傘を取りに行っていた京介が、戻って来た。

「なあ、悪ィんだけど、寄り道していいかな?」

「ああ」

「えっと、この近くに―――」

「動物病院なら歩いて5分くらい、ペット・ショップなら10分はかかる」

「え……あ、じゃあ、まず近いほう。連れてってくれよ、頼む」

ふたりが病院とショップを回っているあいだ、雨は完全に上がった。
だが、帰宅する頃には、再び空模様が怪しくなっていた。




冬香の私室に置いた専用ベッドの中、子猫はすやすやと眠っている。
身体を乾かし、ミルクを飲ませてもらい、落ち着いたのだろう。安らかな寝顔だ。

その頬を指先で撫でながら、冬香は囁いた。

「良かったなあ、オイ。感染症とかの心配はねえってさ。すぐ元気になるって。
あんなとこで濡れてたのに風邪もひかねえなんて、すげえ丈夫なんだな」

中年の獣医師が言っていた。「この子はシャムかもしれません。こういう真っ黒な子が生まれる場合もあるんですよ。
シャムとは似ても似つかないから、いやがって捨ててしまう飼い主さんが時々いるんです。悲しいことです」と。

本当に悲しい。それに、腹立たしい。
ただ毛色が違うというだけで、存在する価値がないと思うのか。生きる権利がないと決めつけるのか。

(ったく、ふざけた真似しやがって。ブン殴ってやりてえぜ、んっとに……)

とにかく、きょうばかりは迷子になったことに感謝したい。
そうでなければ、あの道を通らなかった。通らなかったら、この猫を助けることができなかった。

「いっぱいミルク飲んで、いっぱいメシ喰って、ちゃーんと育つんだぞ? おっきくなれよ?
せっかく生まれたんだからさ。なあ、オイ―――あ?」

ノックの音が聞こえたので、振り返った。

開け放たれたドアのそばに、部屋着姿の京介が立っている。

「まだ着替えてなかったのか」

「コイツ見てた。めちゃくちゃ寝顔がカワイくて、目が離せなくって」

「コーヒーを淹れた。飲むなら来い」

「飲む飲む。あんがと」

子猫の安眠を妨害しないよう、冬香は静かにコートを脱ぎ、静かにタヌキの着ぐるみに着替え、
そっと自室から出た。ドアは少しだけ開けておく。

「―――あのさ、頼みがあんだけど」

そう切り出したのは、ソファーに座り、コーヒーを啜った直後のことだ。

「まず海神さんに訊け。このマンションはペット禁止かもしれない」

冬香の目が丸くなる。

「なんで? なんでわかんの? まだなんも言ってねえのに。
外いたときも、オレが訊く前に病院とペット・ショップのこと教えてくれたよな。なんで?」

「状況を考えれば簡単にわかる。わからないほうがおかしい」

「……そういうモンか?」

京介は頷いた。

「それより、きちんと世話ができるのか。断わっておくが、俺は手伝えない」

「え、ネコが苦手なわけ? アレルギーでもあんの?」

「猫に限らず、動物に懐かれないんだ。近寄って来ることさえない」

「へえ。なんでだろ? あんま美人だから近寄り難い、とか?」

「馬鹿を言うな。とにかく、ひとりで世話ができないのならだめだ。諦めろ」

冬香は身を乗り出し、京介の横顔を見つめた。

「じゃあさ、おっちゃんがOKしてくれて、ちゃんとオレひとりで世話するってんなら、
飼ってもいいのか? いいんだろ? いいんだよな?」

「ああ。俺は別に構わない」

「っしゃあっ!」

跳ねるように起立して自室へ行き、携帯電話を持って出て来た冬香だった。