EARLY DAYS〈3〉
京介はコーヒーをもう1杯用意し、タバコを咥えて火をつけた。
ひとりになると、やけにリビングが静かだ。おまけに、とても広く感じる。
冬香がよく喋る上、ちょこまかと動き回るせいだろう。
しかし、どうしてあれほどなにもできないのか。いくらなんでも、ひどすぎる。まるで小学生のようだ。
いや、まだ小学生のほうが物事を知っているし、もっとまともに行動できるはず。もう幼稚園児といっても差し支えない。
海神に頼まれたので承諾したものの、実は、あまり彼に構わないつもりだった。
方向音痴以外、自分のことは自分でできるはずだから、そんなに面倒を見る必要はないだろうと考えていたのだ。
けれど、あの様子では、そういうわけにいかない。手取り足取りのようなサポートが不可欠だろう。
正直いって、これから先が思いやられる。それなりに覚悟しておいたほうがいいかもしれない。
深々と紫煙を吐き出し、京介は瞼を伏せた。溜め息がこぼれた。
それにしても、我ながら意外だったと思う。
言う気など欠片もなかったのに、訊かれるままに個人的なことまで話してしまった。
彼には独特の妙な勢いがあるので、それに引っ張られ、つい口を割ってしまったのかもしれないが、
まったくもって自分らしくなかった。調子が狂うというか、なんというか。
今まで、他人にペースを乱されることなど皆無だったのに―――
「ただいまあー」
冬香が帰宅したのは正午前、出掛けて1時間も経たない頃のことだった。
その髪はボサボサに乱れ、服や顔に汚れがつき、右手の甲には血が滲んでいる。なにをやってきたのか、一目瞭然の格好だ。
京介は読んでいた本を閉じ、ソファーから身を起こした。
「またナンパされたのか」
「うん。シカトしたのに、しつこくてさあ。まとわりついて中々離れねえから、アッタマきて暴れちまった。
ちょっとばかし手こずっちまったけど」
「その血は」
「え、あ、これ? 相手の歯がぶつかっちまったんだよ。
ホントはハナ狙ったんだけどな。ちっこいのが恨めしいぜ、ったく」
「消毒しよう。まずは手と顔を洗って来い。それから着替えも」
「や、いいよ。ほっといて平気だって。大した傷じゃねえし」
「念のためだ。もし化膿したら困る」
「あー……うん、わかった」
冬香は洗面所へ向かい、京介は廊下の収納棚へ行って中から救急箱を取り出し、リビングに戻ってテーブルの上に箱を置いた。
蓋を開けると、様々な傷薬が大量に入っている。こうなることを予想して、海神が買い揃えたのだろう。
間もなく居間に姿を見せた冬香は、そのまま自室へ入って行ったが、中々そこから出て来ない。
一体なにをやっているのか、ごそごそと物音が聞こえる。
「なあ、おい。オレの部屋着、どこかなあ?」
開け放たれたままのドアの向こうから、そう問う声が飛んできた。
部屋着というようなものは、あれしか思い浮かばない。
京介は問い返した。
「あの着ぐるみのことか」
「うん、そう。ゴ●ラのとかキング●ドラのとか動物のとか、いろいろあっただろ?
あったけえんだぞ、あれ。厚い生地だし、帽子もついてるし」
「クローゼットの左下のほうだ。まとめて積んでおいた」
「左下?……あー、あったあった。
悪ィなあ。おめえに片付けてもらったから、なにがどこに置いてあんのかよくわかんなくってさあ」
そして冬香は、世界的に有名な緑色の怪獣の着ぐるみタイプのパジャマを着て、そのボタンを留めながら、自室から出て来た。
長い尻尾までついているので、それを引きずってしまっているが、当人はまったく気にしない。
「……ずれてる」
「え?―――あ、ホントだ」
段違いになっているボタンを掛け直してから、京介の隣にちょこんと座り、救急箱の中を覗き込む。
「えーっと、どれが消毒のヤツ? これか? これ?」
「手を出せ。俺がやる」
「え、や、いいよ。自分でできるよ、こんくらい」
「利き腕の手当ては自分ではやりにくい」
「あ、そっか、そうだな。んじゃ、頼むわ」
差し出された右手を取り、傷口を見ると、大きくはないが少々深そうだ。
きっと思い切り殴ったため、相手の歯が喰い込んでしまったのだろう。
その傷に京介は、たっぷりの消毒薬を塗りつけた。
「ってえ――――――――――――っ!!」
たまらず手を引っ込めようとした冬香だが、できない。びくともしない。
しっかりと京介に手首をつかまれているからだ。
「我慢しろ」
「できねえよっ!! 痛ェってばっ!! しみるってっ!!」
「自業自得だろう」
「あたたたたたっ!! ま、まだっ!? まだ終わんねえのっ!?」
「もう少しだ」
消毒のあと、軟膏を塗って大きめの絆創膏を貼り、手当て終了。
「これでいい。ここをなるべく濡らさないようにしろ」
「うん、あんがと……。あ〜、痛かった〜……洗ったときゃ全然しみなかったんだけどなあ……。
なんで薬って、めちゃくちゃ痛ェんだろ……」
冬香の目には涙が浮かんでいる。
「どこで喧嘩した」
使った薬を救急箱に手早く戻しつつ、京介が尋ねた。
「え……さあ? どこだろ? わかんねえ。近くに目立つモンなかったし」
「大学に行かなかったのか」
「その途中だったんだよ、4人の男から声かけられたの。
ソイツらブッ倒したあと、な〜んか行く気が失せちまってさ。
まだ入学まで日にちがあるから、きょうはもういいやと思って帰って来たんだ。
ちょっと帰りに迷っちまったけどな」
やれやれ……と京介は思った。
きのうから、何度そう思ったことだろう。すでにもうわからなくなっている。
「なあ、ハラ減ったよ、オレ。コンビニ寄るの忘れちまって、
ほかんとこで買おうと思ったのに喰いモンの店が中々見つかんなくてさ。
そのうちナンパされて暴れて、なんも喰えなかったんだ。
おめえ、昼メシは? もう済ませた?」
「いや。いらない」
「えー? ダメだよ、朝も昼も抜いたら身体に悪ィって。一緒に喰おうぜ。な?」
冬香はテレフォン・ラックからメニューの束を持って来た。
「ほら、おめえが決めろよ今度は。オレぁなんでもいいぞ、別に嫌いなモンねえから。
―――あ、そりゃオレが仕舞ってくる。おめえは頼むモン選んでろ」
そう言って救急箱を両手で持ち、くるりと振り返って歩き出した冬香だったが、
次の瞬間、着ぐるみのシッポを踏ん付けて大きくバランスを崩し、そのままドタッ転んでしまった。
当然のことながら救急箱を取り落とし、衝撃で蓋が開き、中の薬が一気に床に散らばってしまう。
「あ〜、ビックリしたあ〜」
「大丈夫か」
「うん、平気。ハデな音がしたわりにゃ痛くもなんともねえや」
結局、京介が後片付けをした。
薬の量が多いので、うまく入れないと救急箱に収まりきらなかったからだ。
不器用な冬香には到底できない作業である。
「ごめんなホント、手間かけさせちまって」
「いや。それより、なにを頼むか決めろ」
「え? や、だから、そりゃおめえが―――」
「特に食べたいものはない」
「あー……そっか。うん、わかった。じゃあ、オレが決めるよ」
しばし悩んだ末、Lサイズのピザ6枚を注文した。
それと2リットルのペット・ボトル入りコーラを1本に、チキン・ナゲットを10本。
ちなみに、電話をかけたのは、もちろん京介である。
昨夜の夕食時と同様、ふたりはキッチン・カウンターに並んで座った。
「いっただっきまー」
ばくっと冬香がピザにかぶりつく。なにを食べるときも実に美味しそうだ。
そして急に隣を見やり、口を開いた。
「あのさあ、おめえ、大学の専攻ってなに?」
「文学部の英文学科だ」
「あ、オレも同じ。自分でそこに決めたのか?」
「ああ」
「ってこたあ、おめえに合わせたんだろうな。オレぁおっちゃんに勧められたから。
ま、勉強してえことなんか特にねえから、別にどこでも良かったけど」
冬香は再びピザを頬張って食べ、飲み込んで、また尋ねた。
「なあ、その髪の毛、洗うの大変じゃねえ?」
「乾かすほうが大変だ」
「あー、そっか、なるほど。すげえ時間かかりそうだわ確かに。
でも、そんな長く伸ばすなんて男じゃ珍しいよな。願掛けかなんかしてるわけ?」
「……ああ、一応」
「へえ。どんな願い事?―――あ、や、悪ィ。ナシナシ、今のナシ。
んなことまで訊かれたらヤダよな。迂闊だったよオレ。ホントごめん。忘れてくれ」
もう一度ごめんと謝り、ぺこりと頭を下げ、心持ち俯いたまま呟く。
「けど、そういうことしたら、願いって叶うのかなあ……」
京介は聞こえない振りをした。触れてはいけないことのような気がしたのだ。
グラスに入ったコーラをグビッと飲んで、冬香が明るく告げる。
「でも、すんげえキレェだよなあ、それ。まっすぐで、真っ黒で。
うらやましいや。オレなんか、ちょっと天パーだし、こんなミカンみてえな色だしさ」
「……染めてるんじゃないのか」
「よくそう言われっけど、地毛なんだな、これが。珍しいだろ?」
「遺伝か」
「さあ? どうかな? わかんねえや。誰にも訊けねえもん」
親に訊けばいいだろうと思った京介だったが、それを口にしなかった。
やはり触れてはいけないことのような気がしたからである。
自分と同様、冬香も単に悪さをしていただけではなく、なにか事情を抱えていそうだ。
それが一体なんなのか、知りたいという欲求は湧いてこないけれど。