EARLYS DAYS〈10〉




ブッ!! と飲み掛けのコーヒーを思い切り噴き出し、ゲホゲホゲホッ!! と激しく咳き込んで、冬香は目に涙を溜めた。
京介が差し出したティッシュの箱を受け取り、何度も鼻をかんで目元と口元を拭ってから、美顔を鋭く睨みつける。

「なに? おめえ、オレにケンカでも売ってるわけ?」

「いないのか」

「ったりめえだ。んな趣味ねえよ、オレにゃあ」

「なら、あれは嘘か」

「はぁ?」

「病院から帰って来る途中、おまえの恋人だという男に会った」

ぱかっ、と冬香の口が開く。

「………………な、なんだって?」

「あの子はどこだ。きみが隠してるんだろう。前にあの子ときみが一緒にいるところを見つけて追い掛けたが見失ってしまった。
そのあともずっと探してるのに全然見つからない。あの子を返せ。僕の恋人だ。可愛い顔もオレンジ色の髪も小さな身体も、
みんな僕のものだ。誰にも渡さない。───と言われた」

「……なんだよ、そりゃあ……?」

うんざりした表情の冬香である。

「それ、一体どんなヤツ?」

「特にこれといった特徴のない、ごく普通の男だ。年は20才前後くらいか」

「へー……。んで、おめえはどうしたわけ?」

「無視して、走って逃げて撒いてきた。住んでる場所が知られると厄介なことになるかもしれないから。
ちゃぺには可哀想だったが、あの場合しょうがない」

「だなあ。ぐらぐら揺れて気持ち悪かったかも」

と、冬香は愛猫の喉をくすぐるように撫でた。

「とにかくさあ、違うから。オレにゃそういう趣味はこれっぽっちもねえし、
自分のことボクなんていう知り合いも全然いねえよ。人違いだろ、きっと」

わかったと応えるように頷き、京介がコーヒーを飲む。

だが、人違いとは思えなかった。
可愛い顔、オレンジ色の髪、小さな身体の持ち主など、そうそういるものではない。冬香のことに相違ないだろう。
しかも、訴えてくる表情や目つきは、ひたすら真摯で気迫があった。嘘を言っているようには、とても見えなかった。

どういうことなのか真相はわからないが、念のため、あの男と冬香の遭遇は避けさせたほうがいい。
もし出くわしたら、たぶん男は熱烈に求愛し、冬香は火がついたように怒って殴り掛かるに決まっている。
絶対ただでは済まない。

ひとりで出掛けないという約束を冬香と交わしておいて良かった。
そばにいれば彼を止められる。どんな事態になっても迅速に対処できる。

(―――それより、気になるのは……)

ソファーの上で毛づくろいをしている猫に、京介は視線を据えた。
見たところ、変わったような様子はない。以前と同じだ。

どうしようか散々悩んだ挙げ句、決して
他人(ひと)には明かせない手段を使ってしまった。固く固く禁じたものだった。
それゆえ、苦い思いは確かにある。
けれど、後悔は欠片もしていない。あの事実を目の当たりにしたら冬香が悲しむと、わかりきっていたからだ。
彼のそんな姿は見たくなかった。絶対に。

ただ、前例がないため、今後ちゃぺがどうなるのか、まったく予想できない。
このまま変わらずにいるのか、それとも、なんらかの変化が生じるのか。
できることなら、前者であってほしい。そう祈るばかりだ。


 *   *   *   *   *   *   *   *   *


その日、出前の昼食を終えたあと、
京介はソファーに寝そべって本を読み、冬香はテレビ・ゲームで遊び、
ちゃぺは窓のそばで日差しを浴びながら4本の脚を伸ばして横になっていた。
実に穏やかな時間である。

冬香の携帯電話が鳴り出した。2番目の兄からだった。

「ナッちゃん? 元気?……うん、変わんねえよ。今どこ?……そっか。
ちゃんと喰って寝てっか?……あは、オレぁ大丈夫だってば。……うん。
……そう、もうすぐだ。……え? や、いいよ、そんな。……うん、ハルちゃんとアキちゃんもムリだってさ。
……いいって、平気だから。……そう、だから謝るこたぁねえよ。……うん。……うん。じゃ、また。元気でな」

電話を切っった冬香は、リビングへ移動し、京介の足元に腰を下ろした。

「あのさあ、おめえ、入学式って出る?」

「おまえ次第だ」

「って?」

「おまえが出るなら一緒に行くが、出ないなら行かない」

「あー、そういうことか。おめえ自身は? 出たくねえの?」

「興味ない。授業だけ出れば充分だろう」

「だよなあ。んじゃ、オレもやめるわ」

本から目を離し、京介は冬香を見た。

「いいのか」

「うん。だって、じいちゃんも兄ちゃんたちも仕事の都合つかねえから行けねえっつうんだもん。
そんじゃあ出る意味ねえからさ」

「……わかった」

「さーて、んじゃオレ、ちょっとコンビニ行って来る」

冬香は自室へ戻り、牛の着ぐるみの上にコートを羽織って、そのまま玄関へ向かった。




「いらっしゃいませ―――あら、こんにちは、ふーちゃん」

店内に入ると、レジ・カウンターの中の女性が笑顔で迎えた。

彼女の名前は、
沢井(さわい)泉水(いずみ)。そのコンビニの店長兼オーナーである。
すらりとした長身の美人で、明るくて気さくな上、歯に衣を着せない物言いをする。
本人は年令を公表していないが、恐らく30代半ばくらいだろう。

彼女のことを冬香は気に入っていた。自分の母親を思わせるからだ。
見た目は似ていないけれど、雰囲気と竹を割ったような気性がそっくりで、初めて会ったときは驚いてしまったくらいだ。

ただ、ひとつだけ勘弁してほしいことがある。

「ちーっす。きょうは早ェな、ねーちゃん。いっつも夕方からなのに」

「そうなのよ。バイトの子がひとり急に来られなくなっちゃって、代打出勤なの。
ところで、最近会ってないけど、彼氏どうしてる? 元気?」

それだ。

以前「きょおすけは彼氏じゃねえよ。オレぁ男なんだから」と断言したのに、
「やあねえ。なんの冗談?」と笑われてしまい、信じてもらえなかった。同棲中のカップルと思っているらしいのだ。
何度も否定するのは面倒なので、もうほったらかしにしているが、「彼氏」と言われるたびに脱力しそうになる。

「う、うん、まあ、元気……」

「そう、それはなによりね。―――で、お昼ごはん?」

「あ、ううん、もう喰った。おやつ買いに来たんだ」

「ちょうど良かったわ。さっき納品したばかりだからバッチリ揃ってるわよ?
それに、今ほかのお客様がいないからナンパされる心配もないわ」

「うん、あんがと。んじゃ、とっとと買いもん済ませるよ」

冬香はカゴを取り、漫画雑誌と菓子類などを適当に選んで放り込んだ。
そしてレジへ戻って行く。

「じゃあ、ねーちゃん、これヨロシク」

「はーい、いつもありがとうございます。
―――そういえば、もうじき入学式じゃない? ふたりで行くんでしょ?」

「ううん、めんどくせえからパス。家族も来れねえしさ」

「あら、もったいない。きっと残念がるわよ、海神さん。
それに、気楽な立食パーティなんだから、ふたりで行って楽しんでくればいいじゃないの」

「え、パーティ? なのか?」

「聞いてない? 食べ放題、飲み放題のパーティらしいわよ?
何年か前から、そういう形の入学式と卒業式になったみたいね。
どうせなら、あたしがいるときからやってほしかったわ」

冬香は目を丸くした。

「って、ねーちゃん、海神大に行ってたわけ?」

「ええ、OGなの。―――はい、お待たせしました。4627円になります」

冬香が5000円札を出し、お預かりしますと言って泉水は両手で受け取った。

「出席したほうがいいんじゃない? せっかくの入学式だもの。いい思い出になるしね」

「うーん……」

「あら。ふーちゃん、ほら、お迎え」

「え?―――あ」

店の外の自動販売機の前に、京介がいる。タバコを買っているらしい。

「んじゃ、またな」

「ええ、またね。どうもありがとうございました」

釣り銭とレシートを受け取った冬香は、買い物袋を持ってコンビニから出て、京介に駆け寄った。

「なんだよ。タバコほしいんなら、さっきオレに頼みゃあ良かったのに」

「おまえが買ったら補導されるかもしれないだろう」

「う……」

それは否定できない。自分が中学生にしか見えない自覚はある。

「……なあ。おめえの誕生日、いつ?」

「なんだ、急に」

「こんだけ身体のデカさに差があんだから、もしかしたら生まれた日が1年近く違うのかもしんねえと思ってさ」

「関係ないだろう」

「かなあ? んで、いつ?」

「11月11日だ」

「おわ、1並びか。めでてえな、そりゃ。―――うえ? 11月?
じゃあ1ヶ月ちょっとしか違わねえじゃん。オレ、クリスマス・イブだぞ?」

「やっぱり関係なかった」

「だなー」

そんな会話を交わしながら、ふたりはマンションへ戻った。

海神学院大学の入学式は、その週の土曜日に予定されている。


   <了>