DISTRESS〈8〉




「はい、どうぞ。ちょっとハチミツを入れてあるからね」

「……あんがと」

辰巳から差し出されたホット・ミルクを、ベッドの中の冬香は両手で受け取り、
何度か息を吹き掛けて冷ましてから、ゆっくり啜った。
美味い。ほんのり甘くて温かな液体が、身体中に染み渡っていく。

散々号泣した末、泣き疲れて眠ってしまい、目を覚ましたのは午後のことだ。
「朝、軽くランニングするのが日課になっててね。走りに行く途中、チビちゃんを見つけたんだよ」
と辰巳が説明し、よりによってヘンタイヤローの世話になるなんて笑い話にもなんねえ……と冬香は思った。
そう思うくらいには気持ちが落ち着いていた。

ベッドの端に座る辰巳を、冬香は直視できない。なんだかバツが悪いからだ。
それゆえ顔を上げることができず、俯いたままカップに口をつけるしかない。

「……これ飲んだら、帰るから」

「帰る? どこに?」

「……実家」

と答えてから、すぐ思い直す。

いや、だめだ。こんな姿を高木に見せたくない。また余計な心配を掛けてしまうし、
どうしたのだと問われたら返答に困る。本当のことなんか言えない。

かといって、京介のところにも戻れない。今は会いたくない。

(うわ、どうしよ……? 行くとこねえじゃん、オレ……)

すると、にっこり笑って辰巳が告げた。

「不本意だけろうけど、ここにいれば? もう少し休んだほうがいいよ。
まだ顔色が悪いし、声がかすれてるし。それに瞼が腫れちゃってるから、ちゃんと冷やさないとね」

「……おめえに借り作んの、すっげえヤだ」

「あはは、正直だねえ。でも、もう遅いよ? すでに作ってるじゃない」

「う……」

「そんなこと考えないで、頼ってほしいな。
言っただろう? 助けが必要になったら、いつでもいいから俺のところへおいで、って」

(―――あ……っ)

冬香は目を見開き、とっさに辰巳を見た。

「あれ、どういう意味だったんだ……?
まさか、おめえ、オレになんかあるって、わかってたのか……?」

「いや、そこまでは全然。ただ、チビちゃんがひとりで泣いてたんだよ」

「は……?」

「俺の夢の中でね」

そして、にこやかな表情が一変。辰巳が真顔になった。

「予知夢、って知ってるかい?」

「え……?」 

「未来の出来事が夢の中で起こること、だ。
俺は子供の頃から、それをよく見るんだよ。でも、見た夢が全部現実になるわけじゃないし、
日時とか場所とか具体的にわからないことも多いから、ほとんど役に立たないんだけどね。
で、何日か前に、チビちゃんが泣いてる夢を見たんだ。
暗闇の中で自分を抱き締めて、声も出さずにポロポロ涙こぼして、ひとりで泣いてた。
だから心配になって、ああいうことを言ったというわけ」

次いで、再度にっこり笑う。

「まあ、信じるかどうかはチビちゃんの自由だけど」

「―――……」

冬香は視線を元に戻し、またホット・ミルクをゆっくり啜った。

「……あの、さ」

「うん?」

「……なんで、なにがあったんだって、訊かねえの……?」

「訊いたら話してくれるのかい?」

「絶対やだ……」

「だろう? 無駄だとわかってるから訊かないんだよ」

そう答えた辰巳だが、問うまでもないというのが真相だ。
冬香の両頬が腫れているのは一目瞭然だし、パジャマの尻の部分に鮮血が染みているのも垣間見た。
また、完全に自失していた上、異様なくらいの取り乱し様。性的虐待を受けたことは明白だった。
逃げなきゃ……と呟きながらマンションの外へ出ようとしていたのだから、相手は恐らく―――いや、間違いなく彼だ。
そんな下劣な真似をするような男だとは思っていなかったが。

「でも、ひとつだけ訊いていいかな?」

「……なに?」

「チビちゃんが俺の部屋にいること、冬野くんに知らせる? 黙ってる?」

「……わかんねえ……」

「そう。だったら、とりあえず黙ってようか。―――飲み終わったかい?」

「うん……ごっそさん」

「おかわりは?」

「あー……いらねえ」

冬香の手からカップを取って立ち上がった辰巳は、寝室から出て行き、タオルで包んだ氷を持って戻って来た。

「ほら、これ目に乗せて横になって。俺はリビングにいるから、なにか用があったら声かけてね。
じゃ、おやすみ」

辰巳が退室すると、冬香は身体の奥の疼痛に障らないよう静かに横たわり、瞼を冷やした。
冷たくて、とても心地好い。

(……今頃、どうしてんだろ……?)

つい京介のことを考えてしまう。脳裏に美顔が浮かんでしまう。

我ながら不思議だ。あんな目に遭わされたのだから、本当なら恨んだり憎んだりすべきなのに、
そういう感情はちっとも湧いてこない。
ただ、怖い。恐ろしい。ゆうべの出来事を思い返すと、全身が震え出す。

(……もしかして、罰なのか……?)

そうだ、そうに違いない。身の程をわきまえず、ひとりだけのうのうと生きて人並みの生活を送って、
京介を好きになったばかりか彼に大事にされ、嬉しくて幸せで、すっかり有頂天になっていたから、
ああいうことが起きたのだ。一臣と同じ苦痛を味わったのだ。当たり前の仕置きだ。

(―――あ……そういや、あんとき……)

ふと思い出した。あの直前に、一臣と両親の声が頭の中に響いたことを。

あれは、一体なんだったのだろう? 幽霊とか霊魂とか?
正直いって、そういう類のものは大の苦手だが、あの3人なら大歓迎だ。

(また、聞こえるかな……?)

試しに、少しだけシャッターを開けてみた。意識を集中した。
しかし、なにも感じない。なにも聞こえない。
残念だと思いつつ、そっと閉じる。

あのとき3人は「早く逃げろ」と繰り返し言っていた。
つまり、京介が凶行に及ぶつもりなのを察知し、避難させようとしてくれた、ということなのだろうか?

(じゃあ、カズミは、オレを恨んでねえの……? 憎んでねえの……?)

なぜだ? どうして? 死なせてしまった張本人なのに。

(……オレのこと、許してくれんの……?)

生きることを認めてくれるのか? 人並みの生活を送ってもいいのか? 京介を好きになったことを咎めないのか?
そう解釈するのは、あまりにも身勝手な気がする。
でも、だけど―――

リビングのインターフォンが鳴り、対応する辰巳の声が聞こえてきた。

「やあ、きのうはどうも。……え? いや、知らないなあ。なに? いなくなっちゃったの?……そう。
でも、俺のところには来ないと思うけど? なんせ、こっぴどく嫌われちゃってるからねえ」

(……きょおすけ?)

そうだ、きっと彼だ。捜しに来たのだ。

辰巳の部屋にまで来たということは、恐らく、
少しでも関わりのある人間のところまで隈なく訪ね回っているということなのだろう。

(……心配してくれてる、のかな……?)

している。しないわけがない。だって、この上なく優しい男なのだから。

今までずっと優しかった。いつも変わらず優しかった。
だが、ゆうべだけ違った。風呂に入るまでは普段通りの彼だったのに、そのあと突然おかしくなった。
まるで別人みたいだった。

(そ、そうだよ―――あれ、まるっきり別のヤツだったよ……)

なにか、なにかあるのかもしれない。たぶん普通ではない、なにか事情が。

でも、一体どんなことがあるというのだろう?

いろいろ考えてみた。不得手な作業だが、がんばって脳みそを稼動させた。
その結果、ひとつの仮説に辿り着く。

(……もしかして、そういうこと? そういうことなのか?)

ひとりで思考を巡らせていても仕方がない。こうなったら本人に訊こう。
もし答えてくれなかったら、強引にでも口を割らせたって構わないと思う。自分には知る権利があるはずだから。

冬香は起き上がってベッドから出て、寝室のドアを開けた。

キッチン・カウンターの椅子に腰掛けていた辰巳が、振り返る。

「ああ、さっきの聞こえちゃった?」

「きょおすけなんだろ? オレを探しに来たんだろ? どんな様子だった?」

「そうだなあ。相変わらず無表情だったけど、妙に焦ってるような感じ?
あと、いつもより顔が白くて、なんだか青ざめてたみたいな」

「帰る。上の部屋に帰る」

「……いいのかい?」

「うん。いろいろあんがと―――あ……礼とか、ほしいか?」

辰巳は苦笑した。

「いいよ、今回は。チビちゃんが元気になったら、また口説かせてもらうから」

「……しつけえな、おめえも」

「まあね。―――歩ける? 送って行こうか?」

「ううん、平気」

「靴、ないでしょ。俺のサンダルでも履いてく?」

「いらねえ。裸足でいい」

「もし冬野くんが留守で部屋に入れなかったら、ここへ戻っておいで」

「そしたらドアの前で待つさ。世話んなったな。じゃあな」

202号室から出た冬香は、のろのろ歩いて最上階へ向かった。
絶えず疼いている痛みが激しくなる瞬間が頻繁にあり、そのたび顔をしかめて呻く羽目になったが、
なんとか遣り過ごして足を進める。

やっと501号室に着いたときには、息が切れて汗だくになっていた。
幸い鍵が掛かっていなかったので扉を開けると、玄関でうろうろ歩き回る愛猫の姿があった。
冬香に気付いた途端、弾かれたように駆け寄った。

「にゃー! にゃーにゃーにゃーにゃー!」

「うん、ごめん。心配かけて悪かった」

ちゃぺを抱き上げ、その場に座り込んで、深々と吐息する。

「……きょおすけは? いねえの?」

「にゃあ」

「そっか、またオレを探しに行ったんだな……」

壁に背中を預け、瞼を閉じた。汗が目尻を流れていく。

辛い。疲れた。もう動きたくない。暑い。
再び愛猫が鳴いたようだが、声が遠い。なんだか頭がぼんやりする。

やがて突然、ふわりと身体が浮いた。

(えっ?)

驚いて目を開けると、京介に抱き上げられていた。

その表情のない美顔を見て、冬香はホッとする。頬も自然にゆるんだ。

「えと……ただいま」

「おかえり」

どこへ行っていたのかという問いはなかった。

「話がある」

と短く言っただけの京介だ。

「オレも、ちょっと訊きてえことあんだけど……」

「その前に着替えよう。すごい汗だ」

「あー……軽くシャワー浴びてえ」

「ひとりで大丈夫か」

「うん、たぶん……」

浴室へ連れて行ってもらった冬香は、身体を洗い流し、前もって京介に渡されていた薬を秘所に塗った。
見えない場所なので苦労したが、どうにか塗れた。
洗い立てのパジャマを着たあと、また彼に運んでもらい、居間のソファーに下ろされる。隣に愛猫がいる。

京介は用意しておいた新しい冷却シートを冬香の両頬に貼り、
ミニ・ペットボトル入りのスポーツ・ドリンクをテーブルに置いて、斜め向かいに座った。

「それで、なにが訊きたいんだ」

そう尋ねるが、彼の双眸は冬香に据えられない。視線を伏せている。

その様子を見て、初めて会ったときのことを思い出し、不快になってしまった冬香だ。
当時、京介はまったく目を合わせてくれなかった。あの頃に戻ったみたいで、いやな気分だった。

「……あー、そりゃあとでいいや。おめえの話を先に聞くよ。どんな話?」

冬香がスポーツ・ドリンクを飲みながら問い返すと、

「すまなかった」

と京介は謝罪し、深く頭を下げた。

「俺を殴りたければ何度でも殴れ。おまえの気の済むようにしろ。気が済む方法なんてないかもしれないが。
それから……」

束の間沈黙し、そして視線を伏せたまま口を開く。

「きょう限り、同居を解消しよう」