DISTRESS〈9〉




「えっ!?」

思いも寄らない京介の発言に、冬香は目を見張った。

「海神さんには俺から話す。きょう中に荷物をまとめて実家に戻るから、おまえは今まで通りここに―――」

「待て待て待て待てっ。ちょっと待てよ、きょおすけっ」

急いでペット・ボトルをテーブルに置き、美顔を凝視した。

「なに? なに言ってんの? なんでンな話が出てくるわけ?」

「もうおまえと一緒に暮らせない」

「!」

「おまえだってそうだろう。俺が怖いはずだ」

「あぁ? 誰が言ったよ、んなこと? 怖くなんかねえぞ、ちっとも」

次いで冬香は、少しだけ俯く。

「正直いうと、すげえ怖かったさ。だから、おめえに会いたくねえって思ってた。
でも、いざ会ったら、んなこと全然なかったよ。逆に安心したっつうか」

それと同時に、自分は京介が好きなのだと改めて実感した。
あんな仕打ちを受けたというのに、この想いは変わらない。なにひとつ変わらない。
彼を嫌いになる方法なんて、どこにも存在しないのかもしれない。

「オレにとっちゃ、おめえと一緒にいらんなくなるほうが遥かに怖ェよ。
もう一緒に暮らせねえって言われるほうが、何十倍も何百倍も痛ェよ」

京介は首を横に振った。

「おまえの気持ちは嬉しいが、俺には無理だ。これ以上同居できない」

「―――……」

いつになく頑なな感じがして、二の句を告げられなかった冬香である。

でも、負けるものか、ここで引き下がってたまるか。
この際、もうはっきり訊いてしまおう。そうしないと、たぶん話が進まない。

「えっと、そりゃひとまず置いといて、だな。やっぱ、先にオレが質問していっか?
言いたくねえかもしんねえけど、こりゃどうしても答えてほしいんだ」

「……なにが訊きたい」

「あのさ、おめえ、二重人格とかっつうんじゃねえの?」

「―――」

「だって変じゃん。おかしいじゃん。
いつも信じらんねえくらい優しいヤツが、いきなり別人みてえになって殴ってゴーカンするなんてさ。
ホントのおめえだったら、あんなこと絶対するわけねえもん。だから、おめえの中に別のヤツがいて、
ソイツが出てきたのかもしんねえって考えたんだけど、どうだ? 違う?」

「………」

的確ではない。しかし、あながち遠くもない。
ゆえに京介は、肯定することにした。

「違わない。その通りだ」

「やっぱりか」

と冬香が頷く。納得がいった。

「でも、ここに住んでから初めてだよな? ってこたあ、ソイツはあんまり出てこねえってことか?」

「ああ、時々だ」

「ソイツが出てきてるとき、おめえはどうなってんの? 眠ってるみてえな?」

「いや、意識は一応ある」

「だったら、ソイツがなにやってんのか、おめえは理解できるわけ?」

「ああ、全部わかる」

「ソイツがゴーカンなんてしたこと、前にもあんのか?」

「いや、ない」

「なんで、おめえの中にソイツが生まれたんだ?」

一瞬、京介が黙り込む。

「……すまない。言えない―――言いたくない」

「あ、や、オレこそ、ごめん。こりゃナシ、ナシにする」

今のは訊いてはいけなかった。ゆうべの一件と直接関係がないし、京介の過去に関わることだからだ。
無神経な質問だった。反省。

「えっと、二重人格を知ってんのって、おめえの親と、おっちゃん?」

「ああ」

「ほかには?」

「いない」

「そっか。だったら、もういいんじゃねえ?
もうオレにゃ隠す必要ねえんだから、一緒に暮らしたって問題ねえだろ?」

京介は首を横に振った。今度は何度も振った。

「なぜあんなことをしたのかわからないが、もしかしたら、おまえを気に入ったのかもしれない。
だとすれば、同じことを繰り返す可能性がある。止めたくても俺には止められないんだ。
またおまえを傷つけてしまうかもしれない。そんな恐れがある以上、一緒にはいられない」

「………」

ゆうべの行為を思い返すと、やはり背筋が寒くなる。
同じ目に遭うなんて真っ平だし、また京介のあんな冷たい微笑を見るのもご免だ。
だが、それでも、京介と離れたくない。離れてはならないとも思う。
彼が実家に帰ったら、もう2度と外へ出ないような気がする。死ぬまで一生、家に閉じ篭もっているような予感がする。
そんなことをさせてはいけない。
せっかく長い引き籠もりから脱し、人並みの生活を送っているのに―――せっかく命を授かり、この世に生まれて生きているのに。

冬香は身を乗り出した。

「あのさあ、きょおすけ。単純に、純粋に考えたら、どうなんだ?
おめえ、オレと一緒にいてえ? いたくねえ? どっち?」

「……言ったはずだ。今の生活が気に入ってる、と」

「だったら、いいじゃん。このまま一緒に―――」

「だめだ」

ムッとした冬香は、勢い良く立ち上がって京介の前へ行き、その胸ぐらをつかんだ。
急に動いたので疼痛が激しくなったが、それを感じる余裕などない。

「おめえ、自分から離れるこたぁねえっつっただろうがっ。
オレが望むなら、ちゅーでもなんでもするっつっただろうがっ。
ありゃウソだったのかっ? それとも忘れちまったのかっ? あぁっ?」

「忘れてない。嘘でもない」

「だったら、ちゃんと守れよっ。てめえの言葉に責任持てっ」

「あのときとは、もう状況が違う」

「大して違わねえよっ。おめえが隠してたことバレただけじゃねえかっ」

京介はきつく目をつむった。

「……また俺にレイプされても構わないのか」

「おめえじゃねえっ! おめえの中にいる別のヤツだっ!」

「―――」

「それと、構わねえわけねえじゃんっ。すっげえヤダよっ。ハンパなく怖ェよっ。
めっちゃくちゃ痛くて苦しくて、もう死んだほうがマシだって思ったんだからっ。
けど、どんな目に遭ったって、オレぁおめえと一緒にいてえんだよっ。おめえと離れたくねえんだよっ。
おめえも同じなんだろっ? オレと一緒に暮らしてえんだろっ? じゃあ今の生活続けようぜっ。
もしまたソイツが出て来たら、オレぁ即行で逃げるっ。必死こいて逃げるっ。
逃げらんなくてゴーカンされちまっても、なんとかどうにか我慢するっ。
そしたら、おめえは全力でオレを慰めて看病して面倒見ろっ。そんでチャラだっ」

「………」

ゆっくりと瞼を持ち上げ、京介が冬香を見た。濡れたような瞳で見つめた。

ようやく視線を合わせてくれたので、ほっとした冬香だ。
途端に痛みを自覚する。たまらず顔を歪め、とっさに京介にしがみつく。

「うっ―――くっ……!」

大きな手が素早く痩身を支えた。

「大丈夫か」

「……う、うん……じっとしてりゃ、そのうち治まるから……」

広い肩に顔をくっつけ、その匂いを嗅ぐ。たっぷり吸い込む。

そうしながら、冬香は思った。これって、オレのエゴなのかな……と。
そうかもしれない。自分本位の欲求を京介に押し付けてしまっている。

でも、無理強いするつもりは毛頭ないのだ。
同居を解消したいというのが彼の本心なら、きちんと応じよう。悲しいけれど、寂しいけれど、やむを得ない。
だが、そうでない限りは一緒にいる。絶対そばを離れない。

こんな形で終わるのはいやだ。
このまま別れたら、きっと後悔してしまう。京介を放なさければ良かったと、腹の底から悔いるに決まっている。
だから、できるだけのことをやりたい。できるところギリギリまで、とことんやりたい。
たとえ、どれほどの苦汁を舐める結果になったとしても、やるだけやってだめだったら、むしろ本望だ。

やっと痛みが引いて、冬香は小さく吐息した。

それを待っていたかのように、京介が呟く。

「本当にいいのか、同居を続けても……」

「ったりめえじゃん。でなきゃ引き止めたりしねえってば。
それに、おめえがいねえと困るんだ。オレひとりじゃ迷子になっちまって大学に行けねえし、
時間割りも教室の場所もサッパリ覚えてねえから授業受けらんねえんだぞ?」

「そうか……」

「そうだよ」

「……俺の、どこがいいんだ」

「え? あー……もう、全部っつうしかねえかなあ」

「……そんな価値なんかないのに……」

「は? なに言ってんの? あるぞ、いっぱい。オレにとっちゃテンコ盛りだもんよ。
おめえが知らねえだけさ」

「……そうか」

京介は自身の膝に冬香を座らせ、その痩身を抱き包んだ。

「え―――なに?」

「少しのあいだ、このままでいてくれないか……」

「あ、うん……別に、少しじゃなくてもいいけど」

「なら、そうさせてもらう……」

オレンジ色の髪に頬をうずめ、京介は双眸を閉じた。

自分が怖い。また冬香の心と身体を引き裂いてしまうかもしれないと思うと、恐ろしくてたまらない。
実際そんな事態になったら、きっと耐えられないだろう。

早々に離れたほうがいい。彼になんと言われても、聞き入れるべきではない。
ここから今すぐ出て行くのが最良の方法だ。よくわかっている。

だが、冬香は共に生活することを望んでくれている。
ひどい目に遭わされた相手なのに、再び同じ目に遭わされるかもしれない相手なのに、
それを承知の上で、冬野京介という人間を欲してくれている。

あれほど懸命に説得されたら、最後まで拒むなんて到底できない。できるものか。
自分だって、ずっと彼と一緒にいたいのだ。これが本音だ。
だから、腕をほどけない。冬香に触れていたい。抱き締めていたい。
このまま永遠に縛りつけて、どこにも行かせたくないとさえ思う。

すべてを諦めたはずだった。真実を知ったとき、そうするしかなかった。
なのに、まだ、こんな感情があった。残っていた。
いや。冬香によって芽生えさせられた、というべきか―――

ふたつの影は密着したまま、長いあいだ離れなかった。

向かい側のソファーの上では、ちゃぺが毛づくろいをしている。
ふたりの会話を心細げな様子で聞いていたのだが、もうすっかり安心したようだ。




その日を境に、冬香はそれまで以上に京介に甘え、一層スキンシップを求めるようになった。
そうすることで、いつまた起こるか予測のつかない惨劇に対する不安を無意識的に打ち消そうとしたのかもしれない。
京介のほうは以前にも増して冬香を可愛がり、甘やかすようになった。
むろん愛情ゆえの行為だが、どうやっても払拭できない罪悪感のせいでもある。
また、せめて“冬野京介”の意識を明確に持っているあいだは可能な限り優しく接したい、という思いもあった。


 *     *     *     *     *     *


昼を過ぎた頃、固定電話が鳴り出した。海神からだった。

京介が声を抑えて対応する。冬香の安眠を妨げないためだ。

『夏休みが終わって3日経つのに、きみたちが揃って大学に姿を見せないから気になってね。
ファン・クラブの子たちも心配しているよ』

「すみません。連絡すべきでした。実は、冬香が寝込んでしまって」

『おや、風邪でもひいたのかい?』

「たぶん夏の疲れが出たんでしょう。食欲があるので大丈夫だと思いますが、
念のため、もう2、3日は様子を見るつもりです」

『そうか。もし一向に回復しないようであれば医者を行かせるから、その場合は遠慮なく連絡しなさいね』

「ありがとうございます」

それから少し会話し、静かに受話器を置いて、京介はソファーを見た。

そこに冬香が横たわり、あどけない顔で昼寝をしている。
その胸の上では、ちゃぺが同じような顔で眠っている。
ほほえましい光景だ。

かすれていた冬香の声は、翌日には元に戻った。頬の腫れも、比較的早く引いた。
だが、秘所の傷はまだ治っていないらしく、中々薬を手放せずにいる。
それゆえ、完治するまで彼を休ませることにした。
無理をして大学へ行く必要はなかった。授業の遅れなど、あとで取り戻せばいい。

海神には嘘をついてしまったが、それは冬香が望んだことだ。
「なんですぐ大学に来なかったんだって訊かれたら、適当な理由言ってくれ。
おっちゃんにも誰にも、ホントのことは内緒だぞ? 頼むな?」と。
だから、そうした。



長かった夏が、ようやく終わる。
外では若干の冷気を含んだ風が吹き始め、秋の到来を告げつつあった。


    <了>