DISTRESS〈5〉




『あのあと彼女をカフェへ連れて行って話を聞いたんですが、実にお粗末な内容でした。
京介さんのお耳に入れるのが申し訳ないくらいですよ』

そう言って苦笑をこぼし、槇村は詳細を語った。


女性は最初、とにかく京介に会わせろの一点張りだった。
娘の父親なのだから会うのが当然の権利だ、他人が介入する必要はない、と。

そこで槇村が、本当に京介の子供なのかと訪ねると、
女性は自分が言っているのだから間違いないと主張した。理論的な答えではなかった。

「では、その証拠を示していただけますか」

「証拠? 血液型でも調べようっていうの? だったら―――」

「いいえ、そんな曖昧なものではありません。
DNA検査です。彼の実子か否か、ほぼ100パーセントの確率で判明します」

途端に女性の態度が一変した。急に弱気になったのだ。

「や、やだよ……そんな検査、なんか怖いよ……」

「なにも怖いことはありません。毛根か唾液を採取するだけですので」

「……で、でも、アタシ、お金が……」

「ご心配なく。費用は全額こちらで負担させていただきます。
医師も手配しますが、こちらの息のかかった者は信用できないとおっしゃるなら、
あなたのほうで病院を選んでくださって結構です」

「……い、いらないよ、そんなの。間違いなく冬野の娘なんだから」

「おや、おかしいですね。間違いないのであれば、進んで検査を受けるべきではありませんか?
彼の子だと実証できる絶好の機会なんですよ?」

しばし黙り込んだあと、女性は突然、泣き出した。
そして、京介とは一度だけ関係を持ったが当時ほかに付き合っている男がいたこと、
妊娠を機に結婚して幸せな日々を送っていたものの少し前に彼が同僚の女と共に失踪してしまったこと、
途方に暮れていたとき高校時代の同級生から久し振りに連絡があり、気晴らしのため盆休みに彼女に会ったら
「あたしの友達が海神大に行ってるんだけど、すっごいカッコイイ人がいるんだって。背が高くて綺麗な顔してて、
外国人にしか見えなくて、名前は確か、冬野京介っていったかな? ファン・クラブまであるらしいよ?」
という話を聞かされ、あの冬野だと思い出したこと、彼を探して娘の父親になってもらおうと考えたことを、
啜り泣きながら白状した。

「彼の子などという嘘が通用すると思ったんですか?」

「だって、娘はアタシと同じ血液型だし、アタシに顔そっくりだし、
冬野の子供じゃないって証明できるものはなんにもないから……」

呆れるしかない槇村だった。


『―――というわけです。そんな嘘をつくのは犯罪であり、
訴えられても文句は言えないのだと説明したら、彼女は青くなっていましたよ』

「そうですか」

短く応えつつ、本当に粗末な話だと京介は思った。

『とりあえず彼女の名前と住所と電話番号を聞き、それらを確認してから帰らせましたが、
どうなさいますか?』

「そのまま放っておいてください」

『わかりました。今回のことは一応、理事長に報告させていただきますね』

「はい。あの、槇村さん、なぜあの女と一緒にいたんですか」

『大学の警備員から連絡があったんですよ。
数日前から子供を連れた女性が毎日のように現われ、正門付近を長時間うろついている、と。
それで、わたしが様子を見に行ったら彼女がいたので、声を掛けて話を聞いたというわけです』

なるほど、と京介は思う。

「お手数をお掛けしました」

『いいえ。ところで、冬香さんは大丈夫ですか? 真っ青になっていましたが』

「はい、今はもう」

『それは良かった。よろしくお伝えください。では、またお会いしましょう』

「はい。失礼します」

電話を切った京介は、ソファーの上で愛猫と遊んでいる冬香の斜め向かいに座り、槇村から聞かされた詳細を話した。

あんぐりと口を開け、しばし固まったあと、いきなり彼が激怒する。

「なにっ!? なにソレッ!? アッタマおかしいんじゃねえのっ!?
見るからにバカっぽかったけど本物のバカなのかっ!? 信じらんねえっ!!
ふざけた真似しやがって、あンのクソアマッ!! あーもー、ムカつくっ!!
めっちゃくちゃハラ立つっ!! ブッ飛ばしてやりてえっ!!」

悪態を撒き散らしながら、クッションを思い切り投げ飛ばしたり、
ソファーの背もたれをドスドスと何度も殴りつけたりする。凄まじい剣幕だ。
ちゃぺが怯え、京介のところへ逃げて行って彼の陰に隠れたほどである。

「そんなに怒るな」

愛猫の頭を撫でつつ京介がなだめると、冬香はキッと美顔を睨みつけた。

「だって、おめえ、あの女のせいで昔のことオレに話す羽目になったんじゃねえかっ!
喋りたくねえこと喋らなきゃなんなくなったんじゃねえかっ!」

「構わないと言っただろう」

「なんで怒んねえのっ? ハラ立たねえのっ?」

「腹を立てる価値もない。いいから落ち着け。ほら、来い」

京介が片手を上げて差し延べたので、冬香は引き寄せられるように歩み寄って行って彼の隣に座り、
その腕にしっかりと抱きついた。そして鼻先をくっつけ、たっぷりと匂いを嗅いだ。

やがて、京介のシャツに顔をうずめたまま、声を絞り出すようにして告げる。

「もう……もう、おめえと一緒に暮らせねえかもって、思ったんだ……。
もしも、万が一、あのガキんちょがホントにおめえの子で、おめえが結婚するなんてことになったら、
もう同居解消しなきゃいけねえなって……つまんねえけど、すげえ寂しいけど、しょうがねえなって……」

「そうか」

つまらないとか寂しいとか、そんな程度のものではなかっただろう。内心ひどく恐ろしかったに違いない。
ちゃぺと遊んでいたときの冬香は、そういう眼差しをしていた。
その心情を察すると、とても切なくなる。

「―――いい機会だから言っておく」

オレンジ色の髪にさりげなくキスを落としてから、京介が口を開いた。

「たとえ今後なにがあっても、俺のほうから離れることはない。
おまえが俺をいやになって離れていくことはあるかもしれないが、その逆は絶対ない」

反射的に冬香が顔を上げる。瞳には鋭い光が宿っている。

「それもねえよっ。あるわけねえじゃん、オレがヤんなるなんてことっ」

「……だったら嬉しいが」

「じゃあ喜んでろっ。絶対絶対ねえからっ。ずっとずっと一緒だからっ」

「……そうか」

「そうだよっ」

いやになるなんて、あるわけがない。あってたまるか。
こんなに好きなのに、ひとり占めしたくてたまらないのに、触れたくてしょうがないのに―――

しばらくのあいだ見つめ合ったあと、無言で顔を寄せたのは京介のほうだ。
鼻がぶつからないよう少しだけ傾け、瞼を伏せて、そっと冬香の唇に口づけた。

「―――え…………………………えっ!?」

大きな目が更に大きく見開かれ、耳まで真っ赤に染まる。

「ななななにっ!? ななななんで、ちゅちゅちゅちゅーなんかっ!?」

「おまえがそうしてほしそうだったからだ。違ったか」

「〜〜〜っ……!」

否定できない。確かに今、そういう表情をしてしまったかもしれない。

「ででででも、だからって、んなことっ……。じゃ、じゃあ、なにかっ?
おめえはオレがしてほしいっつったら、ちゅーでもなんでもやっちまうのかっ?」

「当たり前だ。おまえが望むなら、俺にできることなら、なんだってする」

微塵の躊躇もない即答だった。

「今までも、そうしてきたつもりだが?」

「……う……うー……」

その通りだ。状況が許す限り、いつも京介はこちらの希望を優先してくれた。
だが、そんなことを堂々と宣言されると、ものすごく嬉しい反面、
妙に照れ臭いというか、くすぐったいような気持ちになる。

「もういいか。それとも、もっとか」

「あ……も、もう、いい……」

嘘だ。もっとキスしたい。けれど、さすがに恥ずかしくて言えない。

すると、また京介が顔を近付け、己れの唇で冬香の唇を覆った。

「―――おおおおめっ……!」

「違わないだろうが」

「そそそそりゃ……そりゃそうだけど……っ」

これでは我慢した意味がない。なんだか自分が馬鹿みたいに思えてくる。

そのとき突然ちゃぺが鳴いた。仲間はずれにしないでよー、と訴えるように。

「えっ? あ、あぁ、おめえもちゅーか?」

冬香は愛猫を抱き上げ、その口元に何度かキスを繰り返す。

「にゃー、にゃーにゃーにゃ?」

「おう、んなの決まってんじゃん。おめえも一緒、3人一緒だ。ずーっとな」

「にゃあ〜」

ちゃぺが嬉しそうな声を放ち、冬香の頬にすりすりと鼻をこすりつけた。

雨降って地固まる、というべきか。
愚かな女の嘘に振り回されてしまったものの、互いの意思を確認できたので、
ふたりにとって無駄な出来事ではなかった。

冬香は幸せを感じた。京介は満ち足りた気分だった。

だが、それらは後日、まさに悲惨と称すべき事件によって掻き消されることになる。
むろん彼らには、その事件を予測することなど不可能だった。


  *     *     *     *     *     *


夏休み最後の週末。遅い昼食を店屋物で済ませた冬香は、
コンビニへ行くために部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ。

京介は本屋へ行くと言って出掛け、まだ帰って来ていない。
冬香も同行しようと思ったのだが、きょうは一段と残暑が厳しくて長いあいだ外を歩く気になれなかったので、
結局は留守番することにしたのだ。

(えーっと、おやつ用のお菓子と、飲み物と、それからアイスクリームもほしいなあ。
あと、なんか適当に雑誌も買うか)

そんなことを考えているうちに1階に着き、エレベーターの扉が開く。

そこに、辰巳が立っていた。

「げっ」

「やあ、チビちゃん」

冬香は顔をしかめたが、辰巳は相変わらず笑顔である。

「俺、さっき引っ越して来たんだ。あとでソバ持って、改めて挨拶に行くよ」

(いらねえ、来んな。めんどくせえ)

そう思った冬香だが、口には出さない。

「あれ? ひとりかい? 彼は一緒じゃないの? 珍しいね」

(ほっとけ。てめえにゃ関係ねえ)

そう思ったが、やはり口には出さない。

ぷいっと顔をそむけ、なにも言わずに辰巳の脇を通り抜けて行く。

次の瞬間、後ろからガバッと抱きすくめられた。

「っ!? な、なにすんだ、てめっ! 放せっ!」

「チビちゃんが俺を無視するから仕方なくだよ。こうでもしないと喋ってくれないだろう?」

「てめえと喋ることなんかねえっ! 放せってばっ! オレに触んなっ!」

ジタバタもがいても、辰巳の腕は全然ゆるまない。

「んー、いい匂いだなあ。シャンプー? 香水? いや、体臭かな?」

「知るかっ! んなことより放せよっ! 暑苦しいだろうがっ!」

「じゃあ、ちゃんと俺と口聞いてくれる? そしたら放すけど?」

「う〜〜〜っ!―――わかったっ! わかったから放せっ!」

「ほんとに? 約束する?」

「するっ! だから放せってばっ!」

「ハイハイ」

解放された途端、冬香は急いで逃げ出し、べたっと背中を壁に張りつけた。
双眸は辰巳を睨んだままでいる。

「そんな怖い目つきしないでよ、チビちゃん。可愛い顔が台無しだよ?」

「やかましいっ! 大体てめえ、気安いぞっ! チビチビ言いやがってっ!
オレをそう呼んでいいのは、じいちゃんとおっちゃんだけだっ!」

「あれ? そうなの? まあ、でも、いいじゃない」

「良くねえっ! っとに人の話を聞かねえヤローだなっ!」

「あははは、まったくだよねえ」

「笑い事かっ!」

不意に辰巳が笑みを消し、真摯な表情になった。まるで別人のようだ。

彼のそんな顔は初めて見る。ドキッとしてしまった冬香だった。

「あのね、チビちゃん。俺の部屋、202号室なんだ」

「……は?」

「もし助けが必要になったら、いつでも構わないから必ず俺のところへおいで」

「……へ?」

「わかった? それ、忘れないでね?」

にっこり笑って普段の表情に戻ると、ひらひらと手を振りながらエレベーターに乗り込み、辰巳は立ち去った。

ひとり残った冬香は、首をひねるしかない。

(なに言ってやがんだ、あのヤロー?)

いきなり真顔になったと思ったら、わけのわからないことを。

「……もしホントに助けがほしくなったとしても、てめえんとこだきゃあ行かねえよ。
行くわけねえだろうが、絶対。ふん」

と呟いて、コンビ二へ向かう。

外に出たとき、歩いて来る長身が見えた。

「あ。お―――い、きょおすけ――っ。おかえり―――っ」