DISTRESS〈3〉




冬香がベッドの中で目覚めたとき、枕元の時計は9時半を過ぎていた。

隣に京介の姿はない。キッチンのほうから物音がかすかに聞こるので、コーヒーでも淹れているのだろう。
開け放たれた扉の向こうでは、ちゃぺが走り回っている。朝から元気一杯だ。

冬香は上体を起こし、深い深い溜め息をついて、がっくりと肩を落とした。

(……話しちまったんだなあ、オレ……)

ゆうべのことは、しっかり憶えている。
昔の出来事を京介に話し、喋り疲れ、そのまま眠ってしまったのだ。
彼が着替えさせてくれたらしく、きちんとパジャマを着ている。

(誰にも言うつもりなんかなかったのになあ……。なんでだろ……?)

酒を飲んだからだろうか? でも、自分を見失うほどは酔わなかった。
もし泥酔したら、ゆうべのことなど記憶に残っていないはずだ。

理由はわからないが、とにかく話してしまった。
話してしまったものは仕方がない。出した言葉を口に戻すことはできない。
一応、覚悟だけはしておこう。それが賢明だ。

(……けど、なんで酒なんか飲んだんだっけ、オレ? えっと……?)

違う、自分で飲んだのではない。京介に飲まされたのだ。口移しで何度も何度も。
それを思い出し、冬香は顔を赤くした。

(うっわ〜〜〜っ……!)

恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。……でも、ちょっと嬉しかったりする。

(いやいやいや、喜んでる場合じゃねえって……)

そもそも、どうして彼は無理やり酒を飲ませたのだろう?
もう2度と飲まないと決めたことを知っているはずなのに。

(―――あっ……!)

段々記憶がよみがえってきて顔を強張らせた冬香は、慌ててベッドから下り、ドアへ向かって走った。
ちょうど京介が入って来たため、ドスンと体当たりしてしまう。
その弾みで後方へよろめいたところを、伸びてきた彼の腕に抱き支えられた。

「すまない。大丈夫か」

「う、うん。オレこそ、ごめん」

「いや。―――少し前に、おまえの兄貴から電話があった」

「え……ハルちゃん?」

「ああ。まず朝刊を読め、読んだら連絡しろ、という伝言だ」

「朝刊? って新聞? コンビニで売ってるよな?」

「もう買ってきた」

と京介が顎をしゃくってテーブルを示す。そこにスポーツ新聞が乗っている。

冬香はテーブルに駆け寄り、それを取って広げた。

1面に大きく載っていたのは【ルイ 淫行で逮捕】の見出しだ。
その横に【盗作の疑いも】と、やや小さい字で書かれていた。
ざっと記事を読むと、人気音楽プロデューサーのルイ湯浅が16才の少年に淫らな行為を強要、昨夜未明に逮捕、
余罪があるとみて追求、実刑確実、一連のヒット曲は盗作との噂、盗まれたと訴えるアマチュア・バンドが数組、
レコード会社は急遽CDを回収、曲の配信も中止、地に堕ちた名声、偽りの栄光、などの文字が目についた。

冬香は新聞をテーブルに放り投げ、その隅に置かれている携帯電話に手を伸ばし、急いでボタンを押した。
コールは2回で切れ、長兄の声が聞こえてくる。

『おはよう。読んだか?』

「おはよ。うん、今。でも、淫行ってなに? どういうこと?」

『実は、昔おまえとカズミに頼まれて湯浅に会ったあと、奴の素性を調べたんだよ。
なんだか胡散臭い男だったから気になってな。
そうしたら、そういう性癖の持ち主で、男娼を買ったり、
プロ・デビューの代償にバンド少年に身体を要求したりしているということがわかった』

思わず眉を寄せ、最低……と冬香が呟く。

『あのあと、奴はもう現われなくなったが、おまえのことを妙に気に入っていた様子だったから、
いずれまた接近してくるかもしれないと考え、その場合すぐ動けるように調査だけは続けて証拠を集めていたというわけだ』

「そんで、こんな早く逮捕ってことに……」

『もう何年も経つから、そろそろ調査を打ち切るつもりでいたんだがな。
今になって、こんな形で役に立つとは思わなかったよ』

と言いつつ、春弥は苦笑をもらした。

『盗作に関しても、そういう話は昔からあった。じきに証拠が揃って、容疑が固まるだろう。
おまえにしてみれば盗作のほうが許せないだろうが、世間から見れば淫行のほうが遥かにイメージが悪い。
奴を社会的に抹殺するには、そっちを全面に出すほうが効果的なんだ。わかるな?』

「うん、わかる」

『俺にできるのは、ここまでだ。これでおまえが納得いかないのなら、
おじじに頭を下げるか、おじさんに頼んで動いてもらうしかない』

「ううん、充分。あんがと、ハルちゃん。ごめんな、忙しいのに」

『いいや。正直、俺もかなり頭にきてるんだ。
おまえが言ってたCDを探して聴いてみたら、確かにカズミが作ったものとよく似た曲が収録されていたよ。
“KA−FU”のファン第1号としては絶対に許せないさ』

「あは……」

そういえば“ファン第1号”は長兄の口癖だった。久し振りに聞いた。

『ところで、冬香、元気なのか? 夏バテはしていないか?』

「うん、ぴんぴんしてる。ハルちゃんは? 変わりねえ?」

『相変わらずだ。きちんと食べて寝て、順調に仕事をこなしてるよ』

「そっか、良かった。今、どこにいんの?」

『キャンベラだ。このあと移動になるが―――ああ、そろそろ時間だ』

「んじゃ、気ィつけて。元気でな」

『おまえも元気でいろ。あまり冬野くんに迷惑を掛けるんじゃないぞ?』

「うん、気ィつける」

もう一度礼を告げ、冬香は電話を切った。

(いいよな、カズミ……? これで、おめえも納得してくれるよな……?)

長兄がやってくれた。殴るより何倍も大きなダメージを奴に与えてくれた。
いい気味だ。ザマーミロ。

ふと気付くと、すでに京介はソファーに座り、コーヒーを飲んでいる。
テーブルの上には冬香の分も用意してあった。もちろんミルク入りだ。

「あー、あんがと」

「ホットで良かったか」

「うん。いただきま」

京介の斜め向かいに腰を下ろし、カップを取って、ふーふーと息を吹き掛ける。
少しだけコーヒーを啜ってから、横目で美顔を見やった。

(やっぱ、ちゃんと報告しなきゃいけねえよな。面倒かけたんだし)

そう考え、長兄から聞いた話を伝えることにする。

京介は無言で耳を傾け、最後に軽く頷いた。
次いで尋ねた。

「具合はどうだ」

「へ? 具合?」

「頭痛とか吐き気とか、二日酔いの症状はないか」

「あぁ、うん、平気。なんともねえ」

「そうか。すまなかった、強引に飲ませてしまって」

「や、おめえが謝ることねえよ」

ぶんぶんと冬香は首を横に振った。

「ありゃオレのためにしてくれたんだから。おめえが止めてくんなきゃ、あのヤローんとこ乗り込んでってブン殴って、
そしたら警察沙汰んなって、また家族に迷惑かけちまうとこだった。そんなことになんなくて、すげえ助かったよ」

そして俯き、睫毛を伏せる。

「オレのほうこそ、ごめん……」

「なにが」

「だから、ゆうべ、変な話聞かせちまって……。
やな気分だっただろ……? 大事なヤツ死なせた、なんて話……」

おまえのせいじゃない、と京介も思う。冬香の家族と同じ意見だ。
しかし、彼らが言っても無駄だったのだから、
それを自分が口にしたところで冬香は聞き入れないだろう。彼が己れを許せない限り。

カップを置き、まっすぐ見据えて、京介は告げた。

「別にいやな気分にはならなかった。おまえの過去は俺には関係ない。昔のことなんかどうだっていい。
今のおまえが、俺にとってのおまえだ」

「―――……」

のろのろと冬香は顔を上げた。

「……幻滅とか、軽蔑とか、しねえの……?」

「おまえに対してか」

「うん……。だからオレ、覚悟したんだけど……おめえに嫌われても、しょうがねえって……当然の罰だなって……」

「そんな覚悟なんかするな。幻滅も軽蔑も嫌うこともない。
前にも言ったが、俺は今の生活が気に入ってる。同居相手がおまえで良かったと思う。海神さんに感謝したいくらいだ。
おまえの昔話を聞いても、この気持ちは変わらない。たとえ今後おまえがどんなことをやらかしたとしても、きっと変わらない」

冬香の表情が歪む。泣き笑いのように。

彼の膝に、愛猫が頬をこすりつけた。そして顔を見上げた。

「にゃあ……?」

「あは……。んな心配しなくていいよ。大丈夫だから。それよか、おめえ、朝メシは? ちゃんと喰ったか?」

ちゃぺが首を横に振る。

「え、なんで? あ、切れてんのか、もしかして? 悪ィ、すぐ補充すっから」

冬香が立ち上がってキッチンへ向かうと、ちゃぺが追い掛けて行った。

京介はコーヒーを一口飲んでから、タバコを咥えて火をつけた。

(……幻滅や軽蔑や嫌うことがあるとすれば、冬香が俺に対して、だ)

いや、そんな程度では済まないだろう。
その場面を想像しただけで、背筋が寒くなってしまう。たまらないほど怖くなる。

とにかく、今回の件が早々に落ち着いて良かった。
もっと長い時間が掛かるようなら、冬香を静止するのも困難になっていたに違いない。
しかし、いくらなんでも早すぎる。彼の祖父だけでなく、長兄も相応の有力者のようだ。
警察とマスコミを自在に動かすことくらいは造作もないらしい。ほかの兄たちも同様かもしれない。
まったく恐れ入る。

だが、そんなことはどうでもいい。
それより気になるのは、冬香の過去だ。ひとつだけ引っ掛かることがある。

両親を失くして悲しみのどん底に落ちたのはわかるが、そのあとが解せない。
あの兄たちなら、全身全霊を込めて末弟の心を癒やそうとしたはずだ。
それに加え、一臣という掛け替えのない友人も献身的に支えた。
なのに、なぜ冬香はそんなに長いあいだ非行に走ったのだろう? 
愛する兄たちと大切な友人の尽力があったのだから、もう少し早く立ち直ることが可能だったのではないか?

そう思うのは、所詮他人事であって、彼の気持ちを理解しきれないせいかもしれない。
だが、それでも、なんだか釈然としないのだ。

(……もしかすると、両親が亡くなったこと以外に、なにかあるのか……?)

恐らく海神にしか言えなかった、なにか特別な事情が―――

「きょおすけ? どうかした?」

いつの間にか、冬香が戻って来ていた。

「いや、別に。ちゃぺにエサをやったのか」

「うん、モリモリ喰ってるよ。んで、オレたちの朝メシはどうする?」

「任せる。おまえが決めろ」

「えーっと……じゃあ、外に喰いに行こっか。いい天気だしさ」

「ああ」

京介はタバコを消して立ち上がった。 


*     *     *     *     *     *


9月に入った。まだまだ残暑の厳しい日が続いている。

夏休みも残り1週間となった某日の昼下がり、ふたりは外を歩いていた。
キャット・フードやトイレ・シートなどを買うため、ペット・ショップへ向かっていたのだ。

途中、海神学院大学の近くを通り掛かったとき、不意に冬香が足を止めた。

「……あれぇ? なあ、あの車って、マキちゃんのだよなあ?」

道路の隅に、ポル●ェ・カイエンが停まっている。確かに槇村の愛車だ。

「マキちゃん、この近くにいんのかな?」

「たぶん。大学の中にいるのなら車は駐車場に置くはずだ」

「探していいか? せっかくだから顔見てえや。しばらく会ってねえもん」

「ああ」

正門のほうへ回ってみると、門の前に槇村の姿があった。
しかし、ひとりではない。5才くらいの子供を連れた女性と話をしている。
女性のほうは背中を向けているため顔が見えないが、
槇村のほうは少々深刻な表情だ。ちょっと近寄り難い雰囲気が漂っている。

「……遠慮したほうがいい、かな?」

「そのようだ。またの機会にしよう」

ふたりが踵を返そうとしたとき、槇村が彼らに気付き、その視線に導かれるようにして女性が振り向いた。そして叫んだ。

「冬野っ!」

(えっ? きょおすけの知り合い?)

つないでいた子供の手を離し、女性が走り寄って来て、京介に詰め寄る。

「捜したんだよ、冬野。やっと会えた。久し振り。髪、ずいぶん長く伸ばしたんだね。今までどうしてた?
少年院に入ったってのは聞いたけど。ああ、なにから話していいかわかんないな。
ええと、あの子、アタシの娘。抱っこしてあげてくれない? アンタの子供でもあるんだからさ」

瞬間、ザッと冬香の血の気が引いた。