DISTRESS〈2〉




一臣の葬儀が行なわれた。喪主は鳳吉だった。
式の最中に、「こんな年寄りが、なぜ若い者を次々と送らねばならんのか……」と祖父が呟いたことを、
あとになってから冬香は兄たちから聞いた。
無理もない。息子夫婦に続き、末の孫と同い年の一臣にまで先立たれたのだから、
彼がそう嘆きたくなったのも至極当然だったろう。

冬香は葬儀に参列できなかった。
一臣が絶命した直後に体調を崩し、しばらく寝込んでしまったからである。
両親が亡くなったときと同様だった。

泣いた。泣きじゃくった。泣き叫んだ。
一臣がいなくなったことが悲しくて、寂しくて、自分のせいで彼を死なせたことが申し訳なくて、苦しくて。
祖父からも兄たちからも「おまえのせいじゃない」と言われたが、そうは思えなかった。
自分が悪い連中と付き合うようになったのが発端で、それさえなければ一臣が傷つけられることも、
彼の心が壊れてしまうことも、心臓麻痺を起こして死ぬこともなかったのだ。
元をただせば全部自分の責任だった。

それから、自室に籠もるようになった。まったく外へ出なかった。
高木が頻繁に様子を見に来て、祖父と兄たちも帰宅するたびに部屋を覗いたらしいのだが、
冬香には全然わからなかった。
なにも見えず、なにも聞こえず、なにも感じられず、なにも考えられなかった。ただただ、ぼんやりしていた。

食事は、家族と高木が交替で半ば強引に口内へ押し込めたそうだ。
咬まないから固形のものは与えられなくて、流動食ばかりだったと後に聞いた。
睡眠も満足に取らなかったという。
高木の話によれば、気を失ったように眠りにつくことはあったけれど、すぐに目覚めてしまうのが常だったらしい。




パンッ。
そんな音が鳴った。突然、かすかに。

バシッ!
少し間を置いて、もう一度。今度は強い。

ガツッ!
続けて、また。もっと強かった。

じんわりと頬に鈍痛を感じ、真っ暗だった視界が薄明るくなっていく。

「チビ、聞こえるか」

遠いけれど、なんとか聞こえた。祖父の声だ。怒気を含んでいた。

「目は見えるか」

かすんでいるが、見えた。目前に祖父の顔があった。険しい表情だ。

「殴られたのはわかったか」

ああ、そうか、と思った。だから頬が痛いのか、と。

祖父に胸ぐらをつかまれているのも、なんとなく理解できた。

「……じ……ちゃ……」

ちゃんと声が出ない。上手く言えない。

「喋り方まで忘れたか」

そうかもしれない。もうずいぶん長いこと喋っていないから。

「―――アキが仕事先で倒れた」

「……え……」

「先週はハル、その前はナツが倒れて病院に運ばれた。心労が原因だ」

「……え……?」

ゆっくりと冬香は瞬きした。

「当たり前だ。むしろ今までよく持った。
冬馬と香織が亡くなってから何年経つと思う。カズミが亡くなってから何年経つと思う。
両親を失くしたというのに3人とも悲しみに浸っていなかった。そんな余裕はなかった。
おまえのことが気掛かりで仕方なかったからだ。
それに仕事もある。いろんな国を飛び回りながら己れの責務を完璧に果たし、
家に帰って来ればおまえに話をしたり怒ったり殴ったり喧嘩したりだ。
仕事中もおまえのことが頭から離れなかったに違いない。
肉体的にも精神的にも相当の負担だったろう。だが、弱音ひとつ吐かなかった。
カズミが亡くなったときも、弟同然のあの子を失ったというのに悲しんでいられなかった。
まるで死人のようになってしまったおまえのことが心配でたまらないからだ。
近年はただ黙っておまえを見守っているだけだが、3人とも常々辛そうにしていた。
そんな生活が一体何年続いていると思う。いつ倒れてもおかしくなかった。当然の結果だ」

一気に喋って、鳳吉が深い息を吐く。
彼らしくない、感情に任せた言葉の羅列だった。

「……に、ちゃ……」

「大丈夫だ。ハルとナツはもう退院して仕事に戻ったし、アキも大事ない。
だが、このままだったら、いつまたどうなるかわからん。
……チビ」

祖父が冬香の胸ぐらをそっと放し、声から怒気を消した。

「おまえは、3人の兄までも失うつもりか……?」

「―――」

殴られた頬の鈍痛が鮮明になり、激痛に変わったような気がした。

次の瞬間、鳳吉の瞼がすうっと落ちる。
そして彼の身体がぐらりと揺れ、その場に倒れ込んだ。

「……じ、ちゃ……?」

床に伏した祖父は動かない。真っ青な顔をしている。

「……じ、ちゃん……じいちゃん……じいちゃんっ……」

しがみついて繰り返し呼んだが、まったく反応がない。

どうしようと考え、高木に知らせることを思いついた。
途中、何度か転びながらもベッドまで行き、枕元の電話を取った。

「タ、タカじいっ。じいちゃんが、じいちゃんがっ!」



鳳吉は救急車で病院へ搬送された。極度の過労という診断だった。
兄たちだけではなく、祖父もまた冬香のことを気に掛けながら仕事をこなすという日々を長いあいだ続けたので、
心労が祟らないわけがなかった。

皆、もう限界だったのだ。ひどく疲れ、やつれ果てていた。

そんな事態になって、ようやく冬香は覚醒した。
自身の感情に囚われるばかりで、周りの人間の気持ちを配慮しなかったことに、やっと気付いた。
どれほど彼らに甘えきっていたかということも痛感した。

このままではいけないと思った。
最悪の場合、祖父と兄たちを過労死させてしまう危険性だってある。
だから変わらなければならない、と。

その決意を入院中の祖父に伝え、まず冬香は、しっかり食事を摂るようにした。
いくら食欲がなくても、1日3回、高木に出されたものを残さず食べた。もちろん自力で咬んで、だ。
給仕する高木は、とても嬉しそうだった。やはり彼も長年に渡って心配してくれたのだろう。
それから、きちんと睡眠を取るようにした。夜に寝て朝に起きるという規則正しい生活を心掛けた。

兄たちが家に帰って来たときは、昔のようにキスとハグで迎え、そして謝った。土下座して詫びた。
「馬鹿、そんな真似するな。おまえが親父とおふくろを失くしてどんなに悲しかったか、
カズミを失くしてどんなに苦しかったか、俺なりにわかっているつもりだ。
非行に走ったことも、抜け殻みたいになってしまったことも、無理はないと思う。だから謝らなくていい。
おまえが元に戻ってくれさえすれば充分だ。可愛い弟に手を上げるなんて真似は金輪際やりたくないし、
おまえの死んだような顔を見るのも2度とごめんだからな」
3人は異口同音に、そう言った。安堵した笑みを浮かべて。



冬香が夢にうなされるようになったのは、同じ頃のことだ。
麻痺していた感覚が再稼動するのを待ち構えていたかのように始まった。

夢には一臣が現われる。例の男にうつ伏せに押さえつけられ、
両手を縛られ、身体を切り刻まれ、陵辱されて、涙を流しながら悲鳴を上げる。
彼を助けたくて冬香が腕を伸ばしても届かない。思い切り叫んでも声が出ない。
彼が傷つけられるのを見ているしかない。胸が潰れそうになる。

ほとんど毎日、その夢にさいなまされた。
罰だと思った。だから誰にも内緒にして、ひとりで耐えた。

だが、やがて兄たちの知るところとなり、やはり3人から異口同音に
「自責の念に駆られているから、そんな夢を見るんだ。もうやめろ。もう自分を責めるな」
と言われたけれど、それは到底無理だった。

祖父や高木も、なにかあると薄々勘付いていたかもしれない。
人の何倍も食べ、たっぷりの時間を睡眠に費やすようになっていたにも関わらず、
いつも冬香の顔色が優れなくて、生気のない目つきをしていたから。



ある晩、冬香の私室へ鳳吉がやって来た。そして静かに告げた。

「幸一郎のところへ行ってみないか」

「え―――おっちゃん……?」

意外な名前が出たので驚いた。

そういえば、もうずいぶん会っていない。
引き籠もっていた時期、槇村と共に何度か訪ねて来てくれたらしいが、気付かなかったので記憶にはない。

「幸一郎の大学へ行くということだ。環境を変えて、新しい生活をするのがいいのではないかと思う。
おまえにその気があるなら、幸一郎に頼んでみる。きっと引き受けてくれるはずだ」

ゆっくり考えろと言い残し、祖父は出て行った。

そのとき、冬香は18才。
中学へもまともに通わなかったが、卒業証書はもらえた。鳳王グループ会長の孫ゆえの特別措置だったのだろう。
高校にも行かなかった。勉強など、なにもしていない。

そんな人間が、大学へ入って、ちゃんとやっていけるのだろうか?

でも、このまま家にいて、特にこれといったこともしない不毛な日々を送り続けるより、遥かにマシだとは思う。
なにより、そうすれば祖父も兄たちも一層安心するに違いない。彼らのためなら、がんばれる。がんばりたい。



祖父が海神に連絡を入れたら、できるだけ早く当人に会わせてほしいという返事だったそうで、
彼の都合を優先し、その日の夜遅くに海神邸を訪ねた。
彼は懐かしい笑顔で迎え、優しく抱き締めてくれた。
そして、ふたりきりで様々な話をした。自身の思いを正直に打ち明けた。
祖父や兄たちに言えないことも、海神になら言えた。不思議だったが、なんの躊躇もなく言えた。
彼は時折質問を交えながら、最後まで聞いてくれた。

「ほかに話したいことはあるかい?」

「ううん、ねえ。これで全部。なんかスッキリした。あんがと、おっちゃん」

「どういたしまして」

次いで海神は、再び抱き締めてくれた。今度は少しばかりきつく。
しばらくのあいだ、彼は腕を解かなかった。無言のまま、冬香を胸の中に納めていた。




長兄が作ってくれた自宅のスタジオは、そのままにしてある。
両親が亡くなって以降、1歩も足を踏み入れていない。一臣が亡くなってからは、益々近付けなくなった。
マイクもギターもエフェクターもアンプもリズム・ボックスも、みんな埃をかぶってしまっているだろう。
壊そうとは思わなかった。祖父と兄たちも、そうは言わなかった。
未だに中へ入れない。入れば辛くなりそうだから。もう一生、入れないかもしれない。でも、保存しておきたい。
一臣との思い出が詰まった場所なのだ。悲しいことだけでなく、楽しいことや嬉しいこともたくさんあった。

山ほど買い集めたCDも然りだ。両親が亡くなって以降はケースに触れることさえなかったけれど、
どれも一臣と一緒に聴いたものばかりなので、彼との思い出が染み付いている。
もう聴くことはできないかもしれない。でも、手放したくない。身近に置いておきたい。
だから、海神が用意してくれたマンションへ引っ越すとき、迷わず荷物に入れた。一臣が気に入っていたコンポと共に。



祖父と兄たちのために生きようと決めたはずだった。
高木と海神と槇村にも、これ以上の心配をかけたくないと思った。
自分のことは捨てたはずだった。

なのに―――なのに…………