DISTRESS <1>




冬香は物心がつく前から母・香織に連れられ、彼女の故郷である養護施設を頻繁に訪れていた。
だから、そこに住む子供たちとはもう顔見知りで、会えば仲良く遊ぶのが常だった。
時々喧嘩もしたが、それは子供同士ゆえ致し方ないだろう。

その日、いつものように香織に手を引かれて施設へ行くと、見知らぬ幼児がひとりいて、
ほかの子供たちが遊んでいるのを離れたところから黙って眺めていた。
愛嬌のある顔立ちをした、痩せっぽちの男の子だった。

「ほら、冬香。あの子、先週来たばかりなんですって。挨拶しましょう」

母に促され、彼女と一緒に歩み寄って行った。

「こんにちは。あたしは早乙女 香織といいます。小さい頃ここで暮らしてたの。よろしくね」

彼女が笑顔で話し掛けると、その男児ははにかんだ笑みを見せ、

「こんにちは。はじめまして。おいかわ かずみです」

と自己紹介して、頭を下げた。

「こんにちはっ。はじめましてっ。さおとめ ふうかですっ」

冬香も負けじと挨拶を返し、ぺこりと一礼する。

そんな彼等を見て、香織は小さく笑った。

「ええと、
及川 一臣(おいかわ かずおみ)くん、よね?」

「はい」

「この子は、冬香というの」

「はいっ」

「あんたは返事しなくていいのよ」

当時、ふたりは共に4才。
もう自分の名前くらい正しく言えるはずの年頃なのだが、まだ彼らにはできなかった。

それ以降、「カズミ」、「フウカ」と呼び合うようになる。それは終生、変わらなかった。



どちらかといえば口数は少なかったけれど、一臣は真面目な上しっかり者で、
施設の職員の手伝いを率先してやり、年下の子供たちの面倒をよく見た。
いつも微笑を浮かべていて、感情的になることが皆無だった。

幼い頃から喜怒哀楽がはっきり表に出る性格だった冬香は、
そんな一臣が不思議で仕方なく、なぜ怒ったり泣いたりしないのか疑問だった。
だから、最初は単なる好奇心だった。
どういうときに、どういうふうに感情を露にするのか、それが知りたくて極力一緒にいるようになった。

しかし、何年経っても一臣の笑顔以外の表情を見ることは叶わず、
ただ彼と仲良くなるばかりで、いつの間にか好奇心は消えていた。
彼と共に過ごすことが楽しくて、その温柔な笑みを眺めているとポカポカな気分になるため、
それだけで充分になっていたのだ。

幼稚園も小学校も違ったが、時間が許す限り一緒にいた。誰よりも親しい友人だった。
冬香は一臣をよく自分の家へ連れて行ったし、
早乙女家の人間も時々やって来る海神と槇村も、彼をカズミと呼んで身内のように可愛がった。

「いっそのこと、きちんと籍を入れて、カズミを我が家の息子にしたらどうだ」

と祖父・鳳吉が言い出したのは、ふたりが10才のとき。

皆、その提案に大賛成した。

それを告げられた本人は驚き、そして、いつものように笑んだ。

「ありがとうございます。すごく嬉しいです。でも、俺、よその家の子にはなれません。
いつか母さんが迎えに来たとき、寂しがるかもしれないから」

一臣の母親は「1年か2年経ったら必ず迎えに来ます」と言い残し、彼を施設に預けていったのだという。
だが、すでに6年が経過している。連絡も皆無ゆえ、もう迎えはないと判断するのが妥当だった。
しかし、一臣は諦めていなかった。まだ母親の言葉を信じていた。

その気持ちを尊重し、鳳吉は養子の申し出を撤回した。
母親が自らの意思で迎えに来なければ意味がないと考え、彼女の捜索は行なわなかった。

そのとき冬香は、なんと表現していいのかわからない気分になった。
切なくてたまらない、というのが最も近いかもしれない。
同時に、“じゃあ母ちゃんが来るまで、カズミはオレが守る。もし来なかったら一生守る。
ずっとカズミが笑ってられるように守る ”と決意した。子供ながらも真剣だった。


ふたりが音楽に興味を持ち始めたのは、それから間もなくのことだ。
3人の兄たちの影響を受け、揃って洋楽に夢中になり、暇さえあればCDを聴いたりコンサートへ行ったりした。

自分で演奏してみたいと思うようになるまで、長い時間は掛からなかった。
それを知った春弥が、ふたりの手のサイズに合ったギターを買い与えた上、
自宅の一室を完全防音にする工事を依頼し、様々な機材を揃え、相応のスタジオに匹敵する場所まで用意してくれた。

一臣は熱心に練習を重ね、めきめきと上達したが、
冬香のほうは元々不器用なせいか、どんなに練習しても中々弾けるようにならなかった。

「歌ってみれば? フウカってボーカル向きだと思うよ?」

そう勧められ、実際に歌ってみたら非常に楽しかった。のめり込んだ。

最初は曲をコピーしていたのだが、それだけでは物足りなくなり、オリジナルを作るようになった。
作曲が一臣、作詞が冬香の担当だ(といっても、ただ歌いやすいような英単語を並べただけで、あまり意味のない内容だが)。
アレンジは、ふたりでアイデアを出し合いながらやった。


やがて一臣の身長が冬香より頭ひとつ分ほど高くなり、中学に進学して、オリジナル曲が50を超えた頃、
ライブをやってみないかという打診があった。
春弥の友人にライブ・ハウスの経営者がいて、ふたりの作ったデモ・テープを聴き、いたく気に入ってくれたのだ。
冬香と一臣は喜び、もちろん快諾した。

しかし、ボーカリストとギタリストだけではライブができない。ベーシストとドラマーが必要になる。
かといって、ほかの誰かを仲間に加えて一緒にプレイする気にはなれなかったため、
ステージではリズム・ボックスを使うことにした。普段から使用しているため、特に不都合はなかった。

それに、ふたりの通う学校が少々厳しいところで、ばれると面倒な事態になりそうだったので、
念のため変装しようということになった。
結果、長毛のウイッグをつけ、うっすらとメイクを施し、普段は着ないような服を着た。
ウイッグも化粧道具も洋服も、夏輝と秋斗が調達し、
プロのファッション・コーディネーターとメイクアップ・アーティストまで呼んでくれた。

“KA−FU”というユニット名をつけたのは、春弥である。
ふたりが音楽以外のことには無頓着で、なにも考えていなかったため、
「じゃあ、おふくろの真似して、おまえたちの名前から一文字ずつ取ろう」と、そう名付けた。

“KA−FU”のデビューライブは、兄たちが友人や知人をたくさん集めてくれたおかげで、大変にぎやかな中で行なわれた。
緊張などすることはなく、ふたりは存分に楽しみながら演奏ができた。最高の気分だった。

そのライブ・ハウスに定期的に出演することが決まり、ライブを重ねるに連れて口コミで客が増え、一応ファンがついた。
自主制作のCDも結構売れた。

そんなあるとき、音楽プロデューサーだと名乗る男が現われた。
彼が差し出した名刺には、ルイ湯浅という名前が書かれてあった。

「プロになる気はない? きみたちなら、いいとこまで行けると思うよ。
僕が全面的にプロデュースするし、巧いサポートメンバーも連れて来よう」

ふたりは、その場で即座に断わった。
そんな気など更々ない上、ふたりきりで好きなように曲を作ってライブができれば満足だからだ。
加えて、他人に管理や干渉や指図をされたくない、という理由もある。

しかし、湯浅は引き下がらなかった。
ライブのたびにライブ・ハウスへやって来て、くどいくらい勧誘を続けたのだ。
相手が子供だと思って舐めて掛かっていたようなところもあった。

いいかげん我慢できなくなり、ふたりは春弥に助けを求め、彼が湯浅に会って話をつけてくれた。
その件は、それで終わった。

ところが、デビューから1年も経たないうちに、突然“KA−FU”は活動停止を余儀なくされた。
冬香の両親が急逝したからである。もう音楽どころではなかった。



何日ものあいだ泣き暮らした末、冬香は札付きの連中と行動を共にするようになった。
暴行・窃盗・恐喝などを繰り返し、警官に追い掛けられたことも数え切れない。
学校へは行かず、家に帰るのは深夜、眠るときだけだった。
暴れていれば、なにも考えなくて済んだ。悲しみも忘れていられた。

その間、一臣は可能な限り冬香のそばにいた。
どんなに彼が帰れと言っても聞き入れず、かといって悪事に加担することはなく、

「フウカのやりたいようにやればいいよ。どこまでも付き合うよ」

そう告げて、いつもの温柔な笑みを浮かべ、ただひたすら一緒にいた。
つるんでいた連中に「金魚のフン」と嘲笑されたが、まるで気にしなかった。

もちろん祖父も兄たちも静観していたわけではない。
陰で冬香の悪行の尻拭いをしつつ、彼に優しく諭したり、怒鳴りつけたり、手を上げたりした。
冬香は聞く耳を持たず、家族に殴られたら殴り返し、取っ組み合いになることも珍しくなかった。
家の中には絶えず殺伐とした空気が満ちていた。

のちに冬香は兄たちから聞いたのだが、一臣が当時こう言ったのだという。

「今のフウカは悲しみを忘れることだけで精一杯で、自分がなにをしてるのかよくわかってないと思うんだ。
でも、そのうち、なんて無意味なことをやってるんだろうって気付くよ。時間がかかるかもしれないけど、きっと自分で気付く。
だから、ハル兄もナツ兄もアキ兄も、長い目で見てあげてよ。ね? フウカは大丈夫。それほど馬鹿じゃないから」



冬香の愚行が1年余り続いた某日、ついに事件が起きた。
つるんでいた連中のひとりが「早乙女は俺のところにいる」と嘘をついて、一臣を呼び出したのである。
その男は新入りで、同性愛嗜好とサディズムを持っているような雰囲気があり、
仲間の一部から「ちょっとアブナイ奴」と評されていた。
一臣に目をつけ、密かに狙っていたようなのだ。

冬香は血相を変え、急いで男のアパートへ向かった。

狭くて汚い室内に、半裸の男がいた。布団の上であぐらをかき、薄笑いを浮かべ、赤い舌でナイフを舐め回しながら。
男の傍らに、一臣が伏臥していた。一糸まとわぬ姿で、両手を拘束され、涙に濡れた瞳は虚ろだ。
全身に無数の切り傷があり、すべての傷から血が流れ、臀部の谷間にも流血があった。なにをされたのか一目瞭然だった。

そのあとのことを、冬香はまったく憶えていない。
あまりにも激昂すると、記憶がごっそり抜け落ちてしまうものなのかもしれない。


気付いたら、どこかの薄暗い小部屋(警察署の取調室だと、あとで知った)にいて、硬い椅子に腰掛け、
机を挟んだ正面には鳳吉が座っていた。その顔は青白く、無表情だった。

「聞こえるか、チビ」

淡々とした口調で祖父が言った。

「カズミの命に別状はない。おまえが刺した男も一命を取り留めた。
病院に運ばれるのがもう少し遅かったら、出血多量で息絶えていたそうだ」

「……オレ、あのヤロー刺したわけ……?」

「男のナイフを奪って何箇所もな。ほとんどメッタ刺しだ。瀕死の状態だったらしい」

死ねば良かったのに―――ぼんやり、そう思った。

「このままだと、おまえは鑑別所を経て少年院送致になるだろう。
ハルもナツもアキも大反対しているが、おまえはどうする。どうしたい」

「……行く……」

「いいのか」

「……うん……」

あの連中の仲間に加わらなかったら、せめてもう少し早く手を切っていたら、
あんな事件は起こらなかった。一臣が傷つくことはなかった。
自分のせいだ。自分が悪い。
だから少年院に行くのは当然だと思った。
そんなことくらいで己れの罪を償えるわけはないと、よくわかっていたけれど。




一臣は、まだ病院にいる。身体の傷は完治したが、精神が病み、まるで人形のようになってしまった。
誰がなにを言ってもまったく反応しないのに、若い男性に対してだけは極端に怯え、奇声を発して逃げようとする。
だから春弥も夏輝も秋斗も、彼に声を掛けることはおろか近付くことすらできない。
―――それを、冬香は、少年院の中で知った。
祖父と兄たちは初め中々教えてくれなかったが、しつこく尋ねたら観念したのか、最終的には正直に話してくれた。
信じられなかった。目の前が真っ暗になった。

一日千秋の思いで退院を待ち、その日のうちに一臣に会いに行った。
彼は変わり果てた姿になっていた。細い身体が更に痩せ、げっそりと頬が削げ落ち、
焦点の合わない目をして、なにも喋らず、個室のベッドの中で丸くなっているだけだったのだ。
愛嬌のある顔も温柔な笑みも、完全に消えてしまった。
自ら食事を摂ろうとしないため、点滴で栄養補給させられていた。
ショックだった。打ちのめされた。

冬香は病院へ日参した。一臣が自分を見てくれることはなく、会話することもできなかったけれど、
それでも毎日、朝から晩まで彼の近くで過ごした。
そして、改めて決意した。“今度はオレが一緒にいる。とことん付き合う。
もう決して離れない。ずっと一生そばにいる。今度こそカズミを守る”と。

しかし、それは叶わなかった。

ある日の深夜、一臣の容態が急変したという連絡が早乙女家に入り、
祖父と共に冬香が病院へ駆けつけると、彼は心臓マッサージを施されていた。
専属のナースによれば、起因は不明だが、一臣が唐突に正気を取り戻して喋ったのだという。
次いで、なにかを思い出したようにハッと双眸を見開き、いきなり顔を歪めて悲鳴を上げ、
直後に心臓麻痺を起こしたということだった。

医師の懸命の処置も及ばず、蘇生は成らなかった。
冬香は一臣に飛びつき、力一杯抱き締め、繰り返し名前を叫んだが、
どんなに呼んでも返事はなく、彼の身体が腕の中で段々冷たくなっていくだけだった。


一臣が正気を取り戻して放った言葉は、たった一言、

「フウカ、どこ?」

だったそうだ。