CAMPUS〈6〉




槇村の愛車ポル●ェ・カイエンの後部座席に、ふたりは乗り込んだ。

冬香は京介に抱きついたまま離れない。依然、精一杯のチカラを入れている。
なにも言わず、思い詰めたような眼差しで、きつく唇を咬み締めながら。

槇村の運転は実に穏やかだ。京介の傷に障らないようにという配慮である。

「……あの、京介さん。差し出がましいと思いますが、病院へ行かれたほうがよろしいのではないですか?」

「いえ、本当に大丈夫です。それより、なぜ正門に」

「ファン・クラブの方が理事長にメールで知らせてくださったんですよ。おふたりが怪しい男と揉めている、と。
いいタイミングでした。ちょうど外出から戻って来たところでしたので」

車はすぐマンションに着き、ふたりは降りた。

槇村も降車し、さりげなく周囲の様子を窺う。

「……槇村さん、もしかして尾行のこと」

「はい、それもファン・クラブの方から。
やめるよう再三注意したのに聞いてくれないと、嘆いていらっしゃいました。
ファン・クラブとは関係のない学生の仕業だそうですが。
―――大丈夫ですね。さあ、行きましょう」

3人はマンションの中へ入り、エレベーターに乗って5階へ上がった。

「わたしはこれで失礼します」

そう槇村が言ったのは、501号室の扉の前だ。

「すみません、近いのに送っていただいて」

「いいえ、こき使ってくださって結構ですよ。では、どうぞお大事に」

正門に現われたときから厳しい顔つきをしていた槇村だったが、ようやく普段通りの温柔な笑みを見せ、一礼して帰って行った。
冬香には声を掛けなかった。ただ、束の間、心配そうな目を向けただけだ。

ドアを開けて玄関に入り、京介は冬香を見下ろした。
傍からはわからないだろうけれど、ずっと小さく震えている。かすかながらも、確かに震えが伝わってくる。

「……冬香」

こんなに静かに名前を呼ぶのは、たぶん初めてだ。

「心配するな。大丈夫だ。大した傷じゃない」

そっと頭に手を置き、そっと撫でた。オレンジ色の髪が煌めく。

「とりあえず腕をほどけ。これじゃ靴が脱げないし、手当てもできない」

ぴくっと細い肩が揺れた。

「……で、でも、離したら、血―――血が……」

「もう止まってる」

「だ、って……あんな、あんないっぱい、出てたのに……」

「おまえの止血が効いたんだろう」

「………」

「だから大丈夫だ。心配ない。離せ」

「………」

ひとつ息を飲んで、冬香は腕から力を抜いた。
真っ赤に染まった京介のシャツを見て、また息を飲む。

「―――て、手当て……手当てしなきゃ」

弾かれたように素早く動き、スニーカーを脱いで廊下を駆け出した冬香は、
途中、収納棚から救急箱を取り出し、ぱたぱた走って居間へ持って行った。
京介も続く。

冬香が救急箱をテーブルに置くと、ちゃぺがソファーの上で身体を起こした。

「あと、なに? なにほしい? なにいる?」

「いらない。それより、おまえも手当てだ。手の甲から血が出てる」

「え……」

言われてみれば、両手の甲の皮が剥け、ピンクの肉が少し覗いている。
さっき男をがむしゃらに殴りまくったせいだろう。

「いいよ、こんなの。かすり傷だから。それよか、おめえだ。早く」

頷いてソファーに座り、京介はシャツのボタンをはずし始めた。

「手を洗って着替えてこい。見ててもしょうがないだろう」

「あ……う、うん」

冬香が洗面所へ向かう。

京介はシャツを脱ぎ、それで血を拭き取った。
刺されたときの予想が当たっていれば、恐らく内臓まで達していたはずだ。
しかし、もう傷は塞がりかけている。痛みも消えた。
本当は手当てなど必要ない。放っておいても勝手に治る。
だが、冬香の手前、それらしいことをしなければならない。
ガーゼを取り出して傷に当て、上から保護シートを貼り付けた。
当分は、こうやって形ばかりの治療を続けるのが賢明だろう。

冬香がリビングに戻って来た。
血のついた服は脱衣所に置いてきたらしく、上半身だけ裸だ。
まっすぐ京介のそばへ歩み寄り、彼の脇腹をじっと見つめる。

「痛ェ……?」

「いや、全然」

「ホントに……?」

「ああ、本当だ。―――座れ。おまえの番だ」

冬香は京介の隣に腰掛けた。

「手を出せ」

素直に応じ、両手を差し出す。
以前、傷口に消毒薬を塗ったときは、散々喚いて手を引っ込めようとした冬香だったが、今は静かだ。
傷そのものも、薬がしみるのも痛いはずなのに、黙って手当てを受けている。
ちょっと不気味だと思いながら、京介は包帯を巻く。

「これでいい。終わりだ」

「……あんがと……」

大きく息を吐き、冬香はうなだれてしまった。

「……ごめんな、きょおすけ……」

「なにがだ」

「ケガさせちまったこと……」

「おまえのせいじゃない」

「オレのせいだよ……オレかばって、おめえ刺されたんだから……」

京介は片手で冬香の顎を持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。

「誤解するな。おまえにはなんの非もない。だから責任を感じることはないんだ。
よく考えろ。元凶は誰だ。誰のせいでこうなった。さっきの男だろう。
正門で待ち伏せして、わけのわからないことを並べ立てて、挙句におまえを刺そうとした。
妄想癖があるのか頭がおかしいのか知らないが、全部あの男が悪い。おまえはむしろ被害者だ。
海神さんに訊いてみろ。槇村さんでもいい。おまえにはなんの責任もないと言うはずだ」

 「―――……」

冬香は目を見開き、何度も瞬きを繰り返した。
驚かずにいられない。そんなに長々と、しかも早口で喋る京介を、初めて見たからだ。
相変わらず抑揚のない口調だったけれど、例えようのない迫力があった。

「わかったか」

「……う、うん……」

にゃあーと鳴いて、ちゃぺが冬香の膝に前足を乗せた。

「あ……ごめん。おめえをシカトしたわけじゃねえぞ? 
ただ、その、構ってる場合じゃなかったっつうか、んな余裕がなかったっつうか」

再度ごめんと言いつつ、愛猫の喉元を撫でようとした瞬間、激痛に見舞われ、たまらずソファーにうずくまってしまう。
ちゃぺが驚き、飛び退いた。

「ってぇ〜〜〜っ……!!」

手を押さえたい。でも、できない。押さえたら、もっと痛くなるに決まっているから。
だから両腕を伸ばし、ぷるぷると手を震わせるしかない。

悶える冬香を見て、京介は安心した。
痛みを感じるということは、精神状態が元に戻ったということだからだ。
先程までの彼は明らかに普通ではなかった。

「どうする」

「うぁ……?」

「我慢するか、それとも病院に行って痛み止めを打ってもらうか」

「……ガマン、する……」

「なら、がんばれ」

「おぅ……」

可哀想だが仕方ない、と京介は思う。痛みを消してやることなどできない。
だが、気を紛らわせてやることなら、なんとかなる。

「―――前から訊きたかったんだが」

「んぁ……? なに……?」

「おまえ、ちゃぺの言うことが理解できるのか」

「え……」

「どう見ても、そうとしか思えないときがよくある」

冬香は身体を起こし、不思議そうに京介を見上げた。

「なんで? わかんだろフツー? ワンコの言うこともわかるぞ?」

「俺にはわからない」

「今まで動物飼ったことねえんだろ? だからだよ、きっと。そのうち、わかるようになんじゃねえか?」

「だといいが」

「なるさ絶対。おめえ、ちゃぺのこと可愛がってんもん」

「そのワンコというのは、どういう犬だ」

「ワンコ? うん、ちょっとマヌケ。でも、そこが可愛いんだよな、また。
ミックスで、かなりデカくて、身体が真っ白で、シッポがくるんって丸まってて、
呼ぶとワフッて鳴いて走って来て、それから―――」

しばらく動物のことを話しているうちに冬香の痛みがある程度治まり、その後ふたりは揃って着替えた。




結局、予定していた買い物には行かなかった。
京介が出掛けると言ったのだが、「まだ安静にしてろ。怪我人は酒なんか飲むな」と冬香が止めたのである。
タバコは、1階のコンビニに連絡して届けてもらった。
ついでに頼んだ夕食用の弁当と一緒に、泉水が笑顔で配達してくれた。




その日の夜。
京介がソファーに座ってタバコを吸い、冬香がトイレへ行き、ちゃぺが居間で走り回っているとき、固定電話が鳴った。
海神からだった。