CAMPUS〈5〉




4限目の講義が終わり、ぞろぞろと学生たちが教室から出て来る。
その中に、京介と冬香の姿もあった。

きょうの彼等の授業は、これで終了。
しかも、あしたからゴールデン・ウィークが始まる。
冬香の表情が明るくて足取りも軽いのは、至って当然のことだ。

「なあ、このあとどうする? まっすぐ帰る?」

「買い物がしたい。いいか」

「うん、もちろん。なに? タバコか? 酒? それとも本?」

「全部だ」

「じゃあ、まず本屋だよな?―――あ」

ファン・クラブの3人組が階段の近くに立ち、談笑している。
ふたりに気付くと、嬉しそうに笑みをこぼしながら揃って頭を下げた。

冬香は軽く手を振って応え、そのまま通り過ぎて行く。

彼女たちと構内でばったり出くわすことがあっても、必要以上に接近することも、執拗に声を掛けてくることもない。
ただ、そんなふうに挨拶するだけだ。
新しいメンバーと思われる女子学生たちも同様で、無闇に近付いて来たりしない。
海神の厳命が効いているのだろう。

ふたりは中央玄関から外に出て、校庭を歩いた。
空が少し暗い。そのせいか、芝生でくつろぐ者の数は多くない。

「あ、そうだ。オレさ、やっぱ実家に帰るよ、ゴールデン・ウィーク中に。2、3日くらいかな。
タカじいの顔見て、ワンコと遊んでくる」

「ああ、それがいい」

「オレが留守のあいだ、ちゃぺのこと頼める? 
連れてこうかとも考えたんだけど、まだガキだから、あんまり環境とか変えねえほうがいいだろうと思ってさ」

「わかった。俺が世話をする」

「悪ィな」

そして正門を通り抜けたのだが、その直後、ふたりは同時に足を止めた。
待ち構えていたかのように、ひとりの人物が近付いて来たからである。
特にこれといった特徴のない、ごく普通の若い男だ。年令は20才前後か。

「見つけた……! やっと見つけた……!」

男が震えた声を絞り出す。

京介はかすかに眉をひそめ、冬香は首をひねった。

「誰? おめえの知り合い?」

「いや。……おまえの恋人だと言った男だ」

途端に冬香の眼差しがきつくなる。

「あー、そういや前にンな話があったっけな。けど、知らねえぞ、オレ。見たこともねえ。初めて会うヤツだよ」

男は愕然とした。

「な、なに言ってるんだ。知ってるに決まってるだろう? きみは僕の恋人じゃないか。
なぜそんなひどいことを―――ああ、そうか……」

ふっと薄く笑う。

「そうか、わかった。拗ねてるんだね? きみを長いあいだ、ほったらかしにしてたから。
それは謝るよ。ごめん。本当に悪かった。でも、僕だって一生懸命きみを探したんだよ? 毎日毎日、探し回ったんだ。
なのに見つからなくて、途方に暮れてた。そうしたら、ここの学生が喋ってるのを聞いてね。
オレンジ色の髪をした、とても可愛い子だと話してたから、きみのことだとすぐにわかったよ。
だから待ってたんだ。ここで待ってれば会えると思って。その通りだった。ようやく見つけたよ。やっと会えた。
もうこれからはほったらかしにしないから、ずっときみと一緒にいるから、そんなに拗ねないで―――」

「ちょっと待て!」

男の言葉を断ち切るように冬香が叫んだ。
その顔は思い切り歪み、不快感を露にしている。

「気色悪ィこと言うなよ、てめえ。オレぁ男なんだぜ? てめえの恋人なわけねえだろ。天地が引っくり返ったってあり得ねえよ」

男の表情が曇った。

「なぜだ? どうしてそんな嘘を―――」

「ウソじゃねえ」

「嘘だ。そんなことあるわけないじゃないか」

冬香はムッとした。

「あるんだよ。んなウソついたって仕方ねえだろ。
それに、てめえのことなんかホント知らねえって。ほかの誰かと間違えてんだよ。人違いだ」

「し、知らない? ほんとに? どうして? 僕を忘れてしまったのかい?」

「元々知らねえんだってばっ! 忘れるもクソもねえっ!」

イライラする。一体なんなんだ、こいつは。

そんな冬香の怒鳴り声を聞きつけ、正門から出て来た学生や通行人が足を止めた。
野次馬は徐々に増えていく。

構わず冬香は更に怒鳴った。

「新手のナンパかっ!? これ以上しつこくしやがると許さねえぞ、このタコッ!
ブン殴られたくなきゃ消えろっ! とっとと消え失せろっ!」

「いやだっ! やっと見つけたのにっ!」

訴えるように叫び、そして男は弱々しく笑った。

「ほら、思い出してくれよ。先月のことだ。きみが助けてくれたじゃないか。
3丁目の公園で、僕が暴漢に襲われてたときだよ。助けてくれただろう?」

「え……」

具体的な時期と場所が出て来たので、思わず冬香は記憶を辿った。
先月、公園、暴漢―――そういえば、と思い出す。

「身に覚えがあるのか」

京介に問われ、こくんと頷いた。

「3丁目かどうかわかんねえけど、確かに公園だったな。
そこでカツアゲされてるヤツがいてさ。黙って見てらんなくて、つい手ェ出しちまったんだよ。
大学までの道覚えるためにオレひとりで出歩いてた頃のことだ」

「思い出してくれたのかい? ああ、良かった……」

男が歓喜に頬をゆるめ、冬香が怪訝そうに首をひねる。

「待てよオイ。あんときゃオレ、カツアゲした連中ブッ倒して、そのまんま別んとこ行ったんだぞ? 
てめえにゃ声かけなかった。ひとことも喋ってねえ。なのに、なんで恋人なんてことになるんだよ? おかしいだろ、それ」

「だって、きみは僕を好きなんだろう? だから自分の危険を顧みないで僕を助けてくれたんだろう? 
僕もきみが好きだよ。ひとめで好きになった。相思相愛の関係だ。だったら恋人同士に決まってるじゃないか」

冬香は呆れた。呆れ果てた。
さっぱり理解できない。まるで宇宙人と話をしているような気分になる。

「あ……あのなあ! オレぁてめえを助けたんじゃねえっ! カツアゲしてるヤローどもにムカついたからブッ飛ばしたんだっ!
てめえにもムカついたっ! 男のくせに一発も殴り返さねえでボコボコにされやがって、情けねえったらありゃしねえっ!
だから声かけなかったんだっ!」

「なに言ってるんだ……」

男が声を震わせ、そして京介に視線を移した。

「……そうか、わかったぞ。きみがなにか吹き込んだんだな? だから、その子が変なこと言うんだな? 
最初から気に入らなかったんだよ。その子を隠して、僕に会わせないようにしてたんだから。
どういうつもりだ? その子がほしいのか? ああ、気持ちはわかるよ。そんなに可愛い子、ほかにいないもんな。
でも、だめだ。絶対渡さない。僕のものだ。僕の恋人なん―――」

「うっせえっ!! いいかげんにしろよクソバカヤロウッ!!」

ついに冬香が切れた。

「もう1回だけ言うっ!! 消え失せろっ!! でなきゃカツアゲされたとき以上にボコボコにすっからなっ!!
2度とオレの前に現われんなっ!!」

本当は即行でボコボコにしたい。だが、できれば近付きたくない。触りたくない。
わけがわからなくて不気味だからだ。こういう奴は苦手だ。

京介が冬香の肩に手を置き、耳元に囁いた。

「もう相手にするな。なにを言っても無駄だ。まともな会話にならない」

「うん、そだな。じゃあ帰ろ。なんか、すげえ疲れちまったぜ……」

深く吐息しつつ、冬香がくるりと背を向けた。
次いで京介も身体を反転させる。

そして、ふたりが歩き出したとき、野次馬の中から無数の悲鳴が上がった。

冬香が振り返ると、男が突進してきていた。手には包丁が握られている。その刃が鋭く光っている。
とっさのことに対応しきれない。逃げられない。刺されると思った。
思った瞬間、視界が真っ白に変わる。京介のコットン・シャツだ。彼の広い背中で視界が覆われたのだ。

冬香の前に立ちはだかり、京介が男の凶器を受けていた。

男が京介から離れる。握った包丁から血が滴っている。
京介の脇腹が赤く染まっている。染みは見る見る広がっていく。

「きょ……」

名前を呼ぼうとしたとき、ブツン、という音が頭の中に響いた。なにかが断裂したらしい。

野次馬から沸きあがる叫び声を遠くに感じながら、冬香は男の腕を蹴り、凶器を落とさせた。
それから男のみぞおちに再び蹴りを入れて倒し、馬乗りになって顔を殴った。何度も何度も両の拳で思い切り殴りつけた。
本能に任せた行動だった。なにも考えていなかった。なにも考えられなかった。

不意に身体が浮き上がる。

(―――え……?)

見ると、京介に襟首をつかまれ、持ち上げられていた。まるで犬か猫の子のように。

「もうやめろ。これ以上やったら死んでしまう」

そう告げる美声は少しばかり苦しげだ。
美顔も少しばかり歪み、片手で脇腹を押さえている。赤い染みは胸元にまで広がっている。

すとんと地面に下ろされた冬香は、次いで思わず京介の腰を両腕で力一杯抱き締め、その脇腹に自分の身体を押し付けた。

「こら、なにをやってる。離せ。おまえの服が汚れる」

冬香は言うことを聞かない。
これでもかというくらい、ぎゅうっと京介を抱き締め、ぐいぐいと身体を密着させるだけだ。

ああ、そうか、止血のつもりか、と京介は察した。
間違った方法だけれど、この子のやることはいつも本当にいじらしい。

そこへ海神が現われた。槇村も一緒だ。
走って来たらしく、ふたりとも呼吸が少々乱れている。

気を失って倒れている男と転がった包丁、そして京介と冬香の様子を見て、海神の眼鏡の奥の目つきが険しくなった。

「京介くん、大丈夫かい? 怪我の具合は?」

「大したことありません。自分で手当てできます」

「では、槇村に車で送らせよう」

「すみません」

申し訳ないが、この場合やむを得ない。
さすがに、こんな血が滲んだ服のまま歩いて帰るわけにはいかない。

その場を収拾するために海神は残り、ふたりは槇村に伴われて駐車場へ向かった。