CAMPUS〈7〉




『大変だったね、京介くん。怪我のほうは大丈夫かい?』

「はい、以前お話した通りですから。それより、すみません、お手数をお掛けしてしまって」

『いいや、きみが謝ることはないよ。むしろ、よくやってくれた。
冬香くんを守ってくれて本当にありがとう。心から感謝するよ』

「いえ、とんでもない」

『それで、あの子の様子は?』

「落ち着いてます。最初は自分のせいだと言って落胆してましたが」

『そうか……。では、とにかく詳しく聞かせてもらおうか』

「はい。俺たちにもわけがわからないんですが」

と前置きして、京介は詳細を語った。
先月に初めて男と会ったときのことから、きょうの出来事までを、すべて包み隠さずに。

その途中、冬香が戻って来て、ソファーに座った。

海神の溜め息が京介の耳に聞こえてくる。

『なるほど。つまり妄想というわけか。道理で話がおかしいはずだ。
冬香くんを自分の恋人だと言うくせに、あの子の名前すら知らないのだからね』

ぼやくように呟き、そして海神は口調を改めた。

『ひどい怪我で病院へ運ばれたが、男に詰問して聞き出したよ。
冬香くんが浮気したから、痛い目に遭わせて懲らしめてやるつもりだったそうだ。
包丁は、暴漢に襲われた経験があるので護身用に持ち歩いていたらしい。
それと、半年ほど前まで精神科へ通院していたことがわかった』

やっぱりか、と京介は思う。そうではないかと予想していたのだ。

『それで、きみたちはどうする? どうしたい? 望み通りにするよ?』

「ちょっと待ってください」

受話器を口元からはずし、京介は冬香を見た。
そして、海神から聞かされたことを手短に話す。

ちゃぺと猫じゃらしで遊んでいた冬香は、思い切り顔をしかめ、

「けっ、どうするもこうするもねえよ。んなアタマのイカレたヤローになんか2度と会いたくねえ。そんだけだ」

と憎々しげに吐き捨てた。

受話器の向こうから苦笑が響く。

「聞こえましたか」

『ああ、おチビさんらしい返答だ。きみは?』

「同じ気持ちです」

『うむ。あの男がきみたちの前に現われることは恐らくもうないだろう。
顔の形が変わるまで冬香くんに殴られたのが相当ショックだったようで、
彼女には幻滅した、こちらから捨ててやる、などと言っていたからね』

「好都合です」

『まったく。では、事後処理はわたしに任せて、もう忘れなさい。
あしたからゴールデン・ウィークだ。のんびり過ごすといい。
冬香くんによろしくね』

「はい」

礼を告げて電話を切った京介は、ソファーに腰掛け、海神の言葉をそのまま冬香に伝えた。

「うん、だな。忘れんのが一番だよ」

ちゃぺを猫じゃらしで飛び上がらせながら、冬香は楽しそうに遊んでいる。

その姿を眺め、本当に良かったと改めて実感する京介だ。
あの凶器が冬香の身体に刺さっていたら、もしかしたら命に関わっていたかもしれない───そう考えるだけでゾッとする。
実際そんなことになっていれば、海神が受ける衝撃も計り知れないものだったはずだ。
自分が怪我を負ったために落ち込ませてしまったことは、致し方ない。
その気になれば無傷で済ませられたが、それを実行するには人目が多すぎた。
いくらなんでも不自然に見え、無用の騒ぎに発展していただろう。

「……あれぇ? なんだよ、飽きちまったのか?」 

冬香が残念そうに言った。
ちゃぺが遊ぶのをやめ、ソファーの上で毛づくろいを始めたからだ。

「ちぇっ、つまんねえの。
んじゃ、そろそろ風呂入ろっか。じゃんけんしようぜ―――あ、や、おめえはダメだ。
2、3日くらいは身体拭くだけにしといたほうがいいよな」

「ああ。おまえこそ入れるのか、その手で」

「平気だよ。ビニール袋かぶせて輪ゴムで止めときゃ濡れねえさ」

「ちゃんと洗えるのか」

「あー……どうだろ? わかんねえ。うーん……じゃあ、やめよっかなあ。けど、きょうも汗かいたし、髪洗いてえしなあ」

ぽりぽりと冬香は指先で頭をかいた。

「なら、髪は俺が洗ってやる」

「え? や、いいよ、そんな」

「今更遠慮するな」

「あー……うん。んじゃ、悪ィけど頼むわ」

洗面台で洗髪したあと、身体も拭いてもらい、結局は入浴しなかった冬香である。
そして、「んじゃオレがおめえの背中拭いてやる」と京介に言ったのだが、「その手じゃ無理だ」と却下され、
自分で身体を拭く彼を浴室に残してリビングへ戻るしかなかった。ちょっと悔しかった。



ベッドに入ったのが、午前1時を少し過ぎた頃。
京介は相変わらず本を読んでいる。
いつもと違うのは、傍らに置いてあるグラスの中身が洋酒ではなく、ミネラル・ウォーターだということだ。
その隣で、冬香は安眠していた。最初は中々寝付けなかったのだが、ちゃぺが枕元に来て丸くなり、
ごろごろ喉を鳴らし始めると、その音を聞いているうちに睡魔に襲われ、いつしか眠りの中へ入っていった。

とんだことに巻き込まれた1日だったけれど、終わりは普段と変わらない静かなものだった。


*     *     *     *     *     * 


ゴールデン・ウィークの終盤になってから、冬香は実家へ帰ることにした。
本当はもっと早い時期に帰るつもりだったのだが、京介の怪我が気掛かりだったので先延ばしにしたのである。
自分にできることはなにもないとわかっているけれど、それでも目を離したくなくて、そばにいたかった。

前日に高木に連絡を入れ、当日の午前中に車で迎えに来てもらい、そして約2ヶ月振りに我が家へ帰ったものの、
その日の夕方にはもうレジデンス・コウの前にいた。
やはり京介のことが気になったため、予定を変更して戻って来たのだった。

「あんがとな、送ってくれて。タカじいにヨロシク伝えてくれ」

そう運転手に告げ、車を見送ってから、冬香はマンションへ入ろうとした。
しかし、不意に方向を変え、コンビニへ向かう。
適当に食べ物を仕入れていこうと思ったのだ。

店内は結構混雑していた。
レジ・カウンターに泉水の姿がある。

「あら、こんばんは、ふーちゃん。―――まあ、包帯取れたの?」

「ちす。うん、絆創膏だけで平気になったよ」

「彼氏は? きょーちゃんのほうはどう?」

「大丈夫。まだガーゼはずせねえけど、順調に治ってるみてえ」

「そう、良かったわ。大怪我しなくてなによりだったわねえ、ほんとに」

先日の一件のことを泉水は知っている。
冬香が話したわけではなく、コンビニのアルバイトの中に海神大生がいて、その学生から聞いたのだ。
事件のことは当日のうちに校内に広まり、ほとんどの者が知るに至った。

「うん、あんがと。ところでさ、なんかえらく混んでねえ?」

「ええ、少し前から急に。せっかく来てくれたのに、ちょっとタイミングが悪かったわね。
今はやめたほうが無難だと思うわよ? 若い男性のお客さまが多いから、中に入ったらナンパ攻めだわ、きっと」

「あー、残念」

「また配達しましょうか?」

「うーん……んじゃ、頼みたくなったら連絡する。そんときゃヨロシクな」

「ええ、もちろん。遠慮なく電話ちょうだいね」

軽く手を振って、冬香は店の外に出た。

複数の人影が、彼に近付いて行く。揃って強張った面持ちだ。




冬香が鍵を開けて開扉し、スニーカーを脱いでリビングへ入って行くと、京介がソファーで上体を起こしていた。
その手には本がある。いつものように横たわって読書をしていたのだろう。

「泊まってくるんじゃなかったのか」

「うん、そのつもりだったけど、タカじいの顔見たし、半日ワンコと遊びまくったから、もういいかなと思って。
……あ、ただいま」

冬香は京介のそばへ行き、彼の首に軽く両腕を絡め、左右の頬を交互にくっつけた。
いつも海神などと交わしているような挨拶だ。

さすがに京介は驚いた。
今まで、そんな挨拶をしたことなどなかったのに。

「―――え? あ……ああ、ごめん。なんか、自分ちに帰って来て、家族に会ったみてえな感じがしたもんだから、つい。悪ィな」

「いや。……どうした」

「あ? なにが?」

「おまえだ。ぼんやりしてる。熱でもあるのか」

「そっか? あー、そういや、ちょっと疲れたかな。ワンコと遊び過ぎたかもしんねえ。
…………うん、なんか、すげえ疲れた。しばらく横んなるわ」

冬香は自室へ入り、半分だけドアを閉めた。
そしてベッドに転がり、目を閉じる。深くて大きな息を吐く。

(……参っちまうなあ……)

意外なところで意外なことを告げられた。
そのおかげで、少し気になっていたことを突き詰めて考えなければならなくなった。

いや、突き詰める必要などない。もう答えは出ている。

でも、いやだ。そんなことなんかしたくない。このままでいたい。
だが、これは自分のわがまま―――身勝手な望みだ。
京介の今後を考えれば、そうするのが最良に決まっている。よくわかっている。

にゃあと鳴いて、ちゃぺがベッドに上がって来た。
その小さな身体を、冬香は思わず抱き締めた。やわらかな体毛に鼻先をうずめる。

(……うん。やっぱ、オレ、きょおすけと離れたほうがいいよな……)


   〈了〉