CAMPUSU〈8〉




今度は誰だ? 誰が冬香を連れて行った?
この前の女ふたりか? 6人の中の男のほうか? どちらにも脅しをかけておいたのに、効かなかったのか? 
それとも、冬香に余計なことを吹き込んだ4人の女たちか? 以前のストーカーか?
あるいは、今まで接触のない新たな人間が出て来たのか? もしくは、理事長室で会った彩家という男の仕業か? 

だめだ。見当がつかない。みんながみんな怪しく思えてくる。

いや、そんなことはどうでもいい。誰の仕業かなんて今は問題ではない。

なにより重要なのは、冬香の状態だ。いなくなってから数時間が経っている。
もしかしたら、もう大変な目に遭っているかもしれない。最悪の事態になっているかもしれない。すでに手遅れかもしれない。

(もし、もしそんなことになっていたら……!)

立て続けに破壊音が室内に響き渡り、ちゃぺが驚いて身をすくませ、京介はハッと我に返った。

顔を上げると、壁と天井に無数の亀裂が生じていた。
それに、リビングの窓ガラスが粉々に砕け散っているのが見える。

(……ああ……そうか……)

そうなのか。そういうことなのか。

(……俺は、こんなにも……)

こんなにも、あの子を大切に思っているのか―――

皮肉なものだ。忌み嫌った血に、己れの気持ちを認識させられるなんて。

最初は確かに義務だった。海神に頼まれたから冬香の面倒を見た。
そうでなければ、あれほど親密には接していない。

彼は、まっすぐ飛び込んで来た。ありのまま、なにひとつ飾らないまま、ぶつかって来た。
昔、接近してきた連中は、男なら媚びへつらい、女なら色目を使うのが大半だったのに。
だから、誰とも深く関わらなかったのに。

そばにいるのが当たり前。いないと、おかしい。調子が狂う。
いつの間にか、そういう存在になっていたようだ。

今は、ただ純粋に冬香が可愛い。顔立ちだけでなく、やることも言うことも、すべてが愛しくてたまらない。
彼のいない生活は、きっと味気ないだろう。手が掛からなくなったら、絶対つまらないだろう。
もし彼に恋人ができたら、祝福する反面、寂しくてヤケ酒を浴びてしまうかもしれない。

(……俺にも、まだ、そんな人間らしい感情が残ってたか……)

とにかく、冬香が無事なら、それでいい。笑顔で帰って来てくれれば充分だ。
だが、もし少しでも傷ついていたら、決して許さない。
どんな手を使ってでも必ず相手を探し出し、死んだほうがマシだと思うくらいの苦痛を与えてやる。

(一生、与え続けてやる……!)

再び破壊音が響いた。

いけない。落ち着け。気持ちを静めろ。
下手をしたら、この部屋どころか、このフロア―――いや、このマンションごと壊しかねない。

目を閉じ、深呼吸を繰り返す。そして、いつもの平常心を取り戻す。

(よし。……まずは、海神さんに報告だ)

ちゃぺを片手で拾って立ち上がり、京介は靴のまま中へ入った。
玄関と同様、居間の天井も壁もヒビだらけで、その破片が散らばっているが、
家電製品や家具など室内に置いてあるものは無傷のようだ。電話機も壊れていない。

電話を掛けると、海神は即座に出た。

『ああ、京介くん。ちょうど良かった。きみに連絡しようとしていたところだよ。
冬香くんが黙って来たと言うから、ひどく心配しているだろうと思ってね』

「! 冬香と一緒なんですか」

『いいや。あの子は今、病院にいる』

(病院? もしや怪我でも?)

『きみたちと理事長室で別れて出掛ける途中、早乙女家の執事の高木さんから電話がきたんだ。
御前が倒れた、冬香くんに知らせたいのだが携帯の電源を切っているようで一向に繋がらない、と』

「御前とは、冬香の」

『そう、おじいさまだ。
それで、すぐ槇村に連絡したら、きみたちは帰ったばかりだと言うではないか。
だから急いで冬香くんを探して病院に連れて来るよう頼んだんだ。
槇村は洗面所の前であの子を見つけたらしい』

ああ、そういうことだったのか……と京介は思った。

『あの子と高木さんはもちろん、わたしも槇村もさすがに気が動転してしまってね。
もう大丈夫だと主治医に言われるまで生きた心地がしなかったよ。
そのせいで、きみのことを失念してしまっていた。本当に申し訳ない』

「いえ」

『落ち着いてから、そういえば京介くんはどうしたんだと冬香くんに訊いたら、
トイレに置いてきてしまったと慌てていたよ。
あの子が自分できみに連絡すると言ったんだが、おじいさまのそばを離れたくなさそうだったので、
わたしが電話するからと言い残して一足先に病院を出て来た次第だ』

「そうですか……」

冬香は無事だ。拉致されたわけではなかった。良かった。

―――いや、ほっとしている場合ではない。

「海神さん、ひとつ報告があるんですが」

『うん? なんだい?』

「部屋を半壊にしてしまいました。すみません」

『半壊? というと?』

「冬香が誰かに連れ去られ、ひどい目に遭わされてるんじゃないかと考えて、動揺してしまったんです。その影響です」

海神は絶句したが、ほんの一瞬のこと。次いで、柔らかな笑みをこぼす。

『うむ、わかった。謝る必要はないよ』

「ですが、隣の部屋にも被害があって、住人に迷惑が掛かったかもしれません。
それに、けっこう音が響いたんで、ほかの階の人間が不審に思ったかも」

『ああ、大丈夫。5階に住んでいるのはきみたちだけだから。
きみたちが隣人に気を遣わずに済むよう、501以外は空室にしてあるんだ』

「……そうなんですか」

知らなかった。
だが、思い起こせば、このフロアで誰かと出くわしたことはない。エレベーターの中でだけ、だ。

『あと、もし
階下(した)の住人からなにか言われたら、適当に説明しておこう。
きみはなにも心配しなくていいよ。
とにかく、まずは部屋の修理を頼まないとね。
直すのに何日かかるかわからないが、その間きみはホテルに泊まりなさい。
これから予約するから、いったん電話を切らせてもらうよ?』

「はい、お願いします」

京介は受話器を置き、まだ見ていなかった個室ふたつを覗いた。
やはりベッドや机などは無事だが、天井と壁と床の随所に亀裂が入っている。
冬香の私物に傷がつかなかったのは、せめてもの救いだろう。

間もなく海神から電話が掛かってきた。

『待たせたね。池部黒の鳳王インというホテルに、わたしの名前で予約を入れた。
それと、ちゃぺといったかな? その子も連れて行くといい』

「大丈夫なんですか」

『ちょっとコネのあるところだから、それくらいの無理は聞いてもらえる。猫が一緒だと伝えて了解を得たから』

「助かります。お手数をお掛けしました」

つくづく恐れ入る。本当に気の回る人だ。

『ところで、部屋が半壊したこと、冬香くんにはどう説明するつもりだい?』

「―――」

しまった。それは考えていなかった。不覚だ。

海神の小さな笑い声が耳に響く。

『そういう面を見せられると、なんだか安心するな。
普段しっかりしすぎているから、時々心配になることがあってね』

京介は無言だった。なんと言えばいいのかわからない。

『では、こうしよう。老朽して壁が崩れ、危険なので修理が済むまで立ち入り禁止、と。
実際それほど古い建物ではないが、あの子なら深く考えず、その説明で納得してくれるだろう』

確かに冬香ならば、そうだろうと思う。

「わかりました」

『あの子にはわたしから伝えるよ。きみはホテルに直行して、ゆっくり休みなさい。
修理の終わる時期がわかり次第、知らせるから。では、またね』

「はい。いろいろありがとうございました」

京介は電話を切り、溜め息をついた。

ちゃぺが手の中で、にゃあと鳴く。大丈夫? と問うかのように。

「ああ。―――出掛けるぞ。しばらく外泊だ」

ちゃぺをキャリング・ケースに入れ、
適量のキャット・フードとトイレ・シート、それに自分の着替えと本を持って、外へ出た。
マンションの前の通りでタクシーを拾った。




40分ほどのち、都内有数の繁華街・池部黒のホテルに着いた。
フロントで海神の名を告げると、案内されたのは最上階のスイート・ルームである。かなり広く、調度品も中々豪華だ。

まず京介は、ちゃぺをキャリング・ケースから出してやった。
初めは少々おどおどしていたが、すぐに慣れ、勢い良く走り始めた。

それを見届けてから浴室へ行き、シャワーを浴びた。
髪と身体を簡単に洗い流し、備え付けのバスローブを着て、部屋へ戻る。
そのままソファーに腰掛け、持っていたタオルで髪を拭いた。
そして洋酒をグラス2杯ほど飲んだ。

壁の時計は11時。長い夜になりそうだ。

走り回ることに飽きたのか、それとも疲れたのか、ちゃぺはベッドの上で丸くなっている。
しかし、眠ってはいない。顔だけを動かし、きょろきょろと周りを眺めている。なにかを探しているような様子だ。

「……冬香か」

思わず訊いていた。

すると、ちゃぺが京介を見据え、にゃあと鳴いた。何度も鳴いた。
まるで「そうだよ。どこにいるの? 会いたいよ。会わせてよ」と言っているようだった。

「残念だが無理だ。当分会えない」

瞬間、ちゃぺが起き上がり、美顔を睨んだ。そして、また繰り返し鳴く。

その声が「いやだ。会いたい。会いに行きたい。会いに行こうよ」と訴えているように聞こえ、
京介は冬香の言葉を思い出した。

(……そうか。動物の言うことがわかるというのは、こういうことか)

なるほど。確かに理解できるような気がする。

そのとき、ドア・フォンが鳴った。

途端にベッドから下り、ちゃぺが嬉しそうに駆けて行く。

「違う。冬香じゃない」

あとを追い、ちゃぺを拾い上げて浴室へ連れて行き、閉じ込めた。
廊下に飛び出されては厄介なことになる。

しかし、一体誰なのだろう? ルーム・サービスは頼んでいない。訪ねて来る者などいるわけがないのに。

そんなことを思いながら扉に歩み寄り、京介はドア・スコープを覗いた。

「!」

さすがに驚き、かすかに双眸を見張りつつも、急いで開扉する。

そこには冬香が立っていた。申し訳なさそうな表情だ。

彼は部屋へ入ってドアを閉め、京介に向き直り、上目遣いで美顔を見る。

「あの、ごめんな。ホントごめん。
おっちゃんから聞いたと思うけど、じいちゃんが倒れちまってさ。
んで、オレ、すげえパニクっちまって、アタマん中が真っ白で、
だから、おめえをほったらかして、マキちゃんと一緒に病院に―――」

話は打ち切られた。続けられなかった。

京介が冬香を抱き締めたからである。
長い腕で広い胸の中に包み込み、ありったけの想いを注ぎ込んで。