CAMPUSU〈9〉
長い長い抱擁だ。一向に終わる気配がない。
とうとう冬香は耐えられなくなって、思わず呻いてしまった。
「く……苦し……っ」
その声を聞いて京介が我に返り、小さな身体を急いで解放する。
「すまない、つい。大丈夫か」
「うん、平気……」
深く呼吸して、両腕を撫でさすり、冬香は改めて美顔を見上げた。
「オレのこと、そんだけ心配してくれたってこったろ? おっちゃんもそう言ってたし。
だから我慢しようと思ったんだけど、おめえ、ハンパじゃねえチカラなんだもんよ。オレ、もう限界で―――」
苦笑しながら喋っていたのに、突然ぽろりと涙がこぼれる。
止まらない。ぽろぽろと流れてくる。
「あ、あれ? っかしいな。なんで、こんな……っ」
冬香は顔を歪めて京介にしがみつき、京介は今度は優しく冬香を抱き包んだ。
「し……死んじまうじゃねえかって、思ったんだっ……。
どんなにブン殴っても、どんなに蹴っ飛ばしても、簡単にくたばるような、んなヤワなジジイじゃねえけど……
でも、いい年だし、紙みてえに真っ白な顔してるし、だから、もう、もうダメかもしんねえってっ……」
「それで、おじいさんの具合は」
「過労だって……しばらく静養すれば、元気んなるって……」
「そばにいなくて良かったのか」
「だって、じいちゃん、目ェ覚ました途端、マンションに帰れっつうんだもん……
ここでなにしてんだ、まだ夏休みじゃねえだろ、って……。
ちょっとムカついたけど、いつものじいちゃんに戻ったから、まあ、いいかなって……」
冬香は両手で涙を拭き、ハーと吐息した。そして、エヘヘと小さく笑う。
「ごめんな。おめえの顔見たら、なんかすげえホッとしちまってさ。今頃んなって気ィ緩んだみてえ」
「……そうか」
京介はオレンジ色の髪をくしゃっと撫でた。
「奥へ行こう。ちゃぺがいる」
「あ、うん。どんな様子? 場所が変わってソワソワしてねえ?」
「すぐに慣れた」
「そっか、良かった」
京介が浴室のドアを開けると、ちゃぺが飛び出し、そのまま冬香に走り寄って行った。
彼の膝に、すりすりと顔をこすりつける。
ちゃぺを抱き上げ、その頬にキスをしてから、冬香はソファーへ移動し、京介と並んで腰を下ろした。
「なあ、マンションの壁、崩れたんだって? ビックリしたよ。
おめえもちゃぺも怪我とかしてねえって、おっちゃんに聞いたけど」
「ああ、見ての通り無事だ」
「うん、安心した。―――オレも当分ここにいるけど、いい?」
「もちろんだが、おまえが来ると思ってなかったから着替えを持って来なかった。どうする」
「んじゃタカじいに連絡して届けてもらうよ」
と言ったとき、冬香の腹部から大きな音が上がった。
「あー、そういやメシまだだっけ。それどこじゃなかったもんなあ」
「ルームサービスで注文するか。それとも外へ食べに―――いや、だめか」
「だな。ちゃぺひとりにしておけねえもん。なんか持って来てもらうわ」
京介がフロントへ電話して食事を頼み、それが届くのを待つあいだ冬香はシャワーを浴びた。
パジャマがないので、京介の部屋着を借りることにする。だが、大きくてブカブカだ。しかも長く、足首まである。
だからズボンはいらない。シャツだけで事足りてしまう。
食事のあと、しばらく他愛のないことを喋り、いつものように同じベッドに入った。
ふたり一緒に寝た。むろん愛猫も。
疲れていたらしく、冬香はすぐに寝入った。
長い腕にくるまるようにして横たわり、規則正しい寝息を立てている。
その寝顔を眺めているうちに愛しさが込み上げてきて、京介は唇を寄せた。
冬香の額に、そっと。
もし子供を持ったら、こういう気分になるのだろうか?
結婚するつもりなど毛頭ないので、現実には絶対あり得ないことだけれど。
(―――俺が守る……)
必ず守る。
恐らく大学へ行く4年間しか共にいられないだろうが、そのあいだは決して誰にも傷付けさせない。
決意を新たにして、自分に誓う。固く固く、誓う。
目が覚めると京介の姿はなく、枕元に「買い物に行く」と書かれたメモが置いてあった。
ちゃぺはベッドの周りを走り回っている。
カーテンが締め切られているため、部屋の中は薄暗い。
横になったまま、冬香は思い切り伸びをした。
頭ははっきり、身体はすっきり。よく寝たという感じだ。
(……きっと、きょおすけのおかげだよなあ……)
彼の顔を見ると、とても安心する。彼の匂いを嗅ぐと、とても落ち着く。
彼のそばにいるだけで、なんだか満ち足りたような気分になる。
薄々わかっていたことだが、ゆうべ改めて実感した。確信した。
まるで兄たちと同じ―――いや、それ以上の効力があるようだ。
実際、兄の誰かと一緒に寝ても、あの怖く悲しい夢を見ることがあったのに、
京介が一緒だと見ない。ただの1度も見ていない。毎日熟睡している。
なぜだろう?
考えたが、わからない。見当もつかない。
(ま、いっか。理由なんか別にどうでも……)
枕元の電話が鳴った。
むくっと起き上がり、冬香は受話器を取った。
「おう、誰だー?」
『おや、おチビさん。京介くんが出ると思っていたのに』
「あ、おっちゃん? おはよー」
『おはよう。といっても、もうお昼だけれどね』
「え、ホント?」
壁の時計を見ると、確かに12時を回っている。
『起きたばかりかい?』
「うん、オレはな。きょおすけならいねえぞ。買いもん行ったみてえ」
そのときドアの開く音が聞こえ、間もなく美丈夫が現われた。
「あ、帰って来た。替わるか?」
『頼むよ』
「ちょっと待ってて」
そばに来た京介に、冬香は受話器を差し出す。
「おっちゃん」
「ああ」
持っていた袋をベッドの上に置き、京介は受話器を受け取った。
「もしもし」
そう言いながら、袋を指差す。
(へ? こん中、見ろってこと?)
冬香は袋の中を覗き込んだ。
タバコが3カートン入っている。
それに衣類だ。SサイズのTシャツとトランクスが2枚ずつ。
(え……もしかして、オレの?)
もしかしなくても、そうだろう。京介が着るにはサイズが合わない。
つまり、着替えが届くまでの代用ということか。
ありがたい。ジーンズはともかく、Tシャツと下着は早急に替えがほしかったところだ。
京介の電話が終わるのを待って、冬香は声を掛けた。
「あんがと、わざわざ買ってきてくれて。助かるよ」
「この近くにあった店で適当に買ったものだから肌触りは良くないかもしれないが、ないよりはマシだろう。
とりあえず、それで我慢しろ」
「うん、充分。けど、2枚もいらねえんじゃねえ?」
「一応予備だ」
「そっか。―――あ、おっちゃん、なんて?」
京介はベッドに腰掛けてから口を開いた。
「部屋の修理に2週間近く掛かるそうだ」
「え、そんなに? 壁直すだけなんだろ?」
「ついでに丸々リフォームするらしい」
嘘である。
実は、マンション5階の部屋すべての壁と天井に亀裂が生じていたため、修復に長い時間を要するのだ。
しかし、それを冬香に告げるわけにはいかないので、リフォームということで口裏を合わせようと海神が提案したのだった。
「あー、なるほど。んじゃ、時間かかんのは当たり前だな」
「それで、2週間もホテル暮らしをするのは窮屈だろうから、海神さんの別荘で過ごしたらどうかと言われた」
「別荘?
「いや、
冬香は首をかしげた。
「って、どこ?」
「神奈川県の海の近くにある」
「へえ。んなとこに別荘なんか持ってたんだ、おっちゃん」
「趣味で建てたもので、客を呼べるほど広くないが、環境は抜群らしい」
「ふうん。んで、行くのか?」
「ああ。ちゃぺも連れて行って構わないと言ってた。おまえはどうする」
「行く!―――あ、でも……」
一転、冬香が気まずそうな
「やめとこうかな、やっぱ……。
せっかくの夏休みなんだから、おめえ、オレの子守りなんか忘れて、のんびり過ごしてえだろ?」
「なにを今更。そんなことは気にしなくていい」
「ホントに?」
「ああ。ただ、海神さんが車を手配すると言ってくれたんだが、申し訳ないから断わった。
移動は電車になる。それでもいいか」
「わ、乗ってみてえ。オレ乗ったことねえんだ、電車って」
「なら、おまえの着替えが届き次第出発しよう」
「うん。わ〜い、楽しみ〜」
ちゃぺがベッドに上がって来たので、冬香は即座に抱き上げ、その鼻に自分の鼻をくっつけた。
「出掛けるぞぉ、ちゃぺ。ちょっとした旅行だ。一緒に行こうなあ」
鳴き声が返ってくる。
まるで「うん、行こう行こう」と応えたようだった。
<了>