CAMPUSU〈7〉




校内の掲示板に、前期試験の日程が貼り出された。

それを見た冬香は、唖然・愕然・呆然である。

「……もしかして、試験があることを忘れてたのか」

京介の問い掛けに、弱々しく頷く。

正直いって、それどころではなかった。
入学以降、なんだかんだと様々なことが起こり、日々の授業を受けるので精一杯だったのだ。
勉強など、まともにやっていない。

「ど、どうしよ……?」

「心配するな。俺が教える」

「お願いシマス……」

その日から猛勉強が始まった。

そして、7月に入ってから約10日間に渡って行なわれた試験を、どうにかこうにか乗り切った。
悪くない手応えだった。




試験後、ふたりは理事長室を尋ねた。
翌日から試験休みを挟んで夏季休暇に突入するため、しばらく海神に会えなくなるので、顔を見に行ったのである。

冬香がノックしようとすると、突然ドアが内側から開いた。

開扉したのは、20才代後半くらいの男性だ。
脱色した長めの髪はボサボサで、赤い開襟シャツと黄色のジャケットをラフに着込み、
とても堅気とは思えない雰囲気なのだが、大変な
眼力(めぢから)がある。

「あ、ごめんね」

甘い響きを含んだ声で謝った彼は、冬香の顔を見るやいなや驚いて双眸を見開き、

「うっわ、なに、この子? めちゃくちゃ可愛い〜」

と楽しそうに言いながら手を伸ばし、指先で冬香の顎をクイッと持ち上げ、顔を寄せてキスをした。

だが、実際に唇を押し付けたのは、大きな手の甲だ。
京介が素早く冬香の口を手の平で覆い、男性の行為を阻止したのである。

とっさのことに半ばキョトンとしていた冬香だったが、状況を把握した途端に怒りが爆発。
渾身の頭突きを男性に見舞った。ガツッと鈍い音がした。

「なにしやがんだ、てめっ!!」

「……おー、効くなあ」

男性は片手で鼻を押さえている。どうやら鼻血が出たようで、赤いものが一筋、流れている。
しかし、依然にこやかな表情だ。

「いやあ、さくらんぼみたいな唇って本当にあるんだねえ。つい触れたくなっちゃったよ。
ほんと可愛いなあ。天使が現われたのかと思ったくらいだ」

「てっ……? ふざけんな、このタコッ!!」

「ふざけてないよ。本当にそう思ったし、思ったことしか口にしない性分だから。
―――そうか、後ろの彼が恋人か。突然ごめんね」

京介はなにも言わない。感情のない顔で男性を見ている。

「でさ、ものは相談なんだけど、どうしてもこの子にキスしてみたいんだ。
とりあえず1度だけでいいから許可してくれないかな?」

「どアホッ!! ブッ飛ばされてえのか、てめえっ!!」

「きみにはイイ思いさせてあげるから。上手いよ俺?」

「〜〜〜っ!!」

本当にブッ飛ばしてやろうと、冬香が拳を作って身構えたとき、男性の後方から声が聞こえた。

「もうやめなさい、
彩家(さいけ)くん。からかうのも程々にね」

海神だ。革張りの椅子に座り、呆れた表情をしている。

「おっちゃん! 誰なんだよコイツ! アタマおかしいんじゃねえのっ!?」

「あ、ひどいなあ。見掛けによらずキツいねえ、きみ」

「てめえは黙ってろっ!! オレぁおっちゃんに訊いてんだっ!!」

海神は苦笑し、改めて言った。

「一応、紹介しておくよ。彩家
辰巳(たつみ)くん。うちのOBで、9月から臨時講師をやってもらうことになった」

冬香がギョッと目を剥く。

「こ、講師ィ!? このイカレたヤローが!?」

「うわ、ほんとキツイなあ。可愛い顔してるのに、もったいないねえ」

「やかましいっ!! ちったぁ黙ってらんねえのかアホンダラッ!!」

再び苦笑し、海神が紹介を続ける。

「彩家くん、彼等がうちの大学のアイドルだ」

「ああ、ウインターズ? そうか、きみたちがねえ。ええと、冬野 京介くんに、早乙女 冬香ちゃんだっけ?」

「“ちゃん”じゃねえっ!!“くん”だっ!!」

「え、男の子? 嘘。ほんとに?」

「脱いで見せてやろうかっ!?」

「わお、それは嬉しいなあ。でも、ふたりっきりのときにしてくれる? 見るだけじゃ物足りないもの。
触ったり頬ずりしたり舐めたりしたいからさ」

「〜〜〜〜〜っ!!」

冬香の形相が、これ以上ないというくらい険しくなる。

そろそろ限界のようだ。このままでは切れて、本格的に手を出してしまうに違いない。
それを察し、京介は冬香の耳元に告げた。

「出直そう」

「え……あ、うん、そだな」

「ああ、いいよいいよ。俺、もう帰るとこだから。―――じゃあ、理事長、あとで連絡します。お騒がせしました」

「気をつけてね。鼻血の手当て、きちんとするんだよ?」

「はーい」

ひらひらと手を振り、辰巳は出て行った。
その際、ウインク付きの流し目を向けられ、総毛立った冬香は思わず身体をブルッと震わせた。

海神が告げる。

「掛けなさい、ふたりとも。
わたしはこれから出掛けなければならないから、あまり長く話はできないがね」

「え、んじゃ帰るよ。悪ィよ」

「せっかく来てくれたんだ。お茶くらい出させてくれ」

「そっか? じゃあ遠慮なく」

海神はインターフォンでコーヒーを持って来るよう頼み、ふたりはソファーに腰を下ろした。

「んで、おっちゃん、ホントにセンセーなのか、アレ?」

「本当だよ。産休に入る講師の代打で、来年の3月までという期限付きだが。
軽薄に見える言動が多いけれど、実はとても有能で優秀な子だ。
在学中に家庭教師をやって教え子12人全員を志望校に合格させたし、
彼自身も司法試験に1度でパスした上、卒業するまで法学部の首席を誰にも譲らなかったからね」

「げっ、信じらんねえ……」

「そのまま弁護士か裁判官になるだろうと思っていたら、ふらりとアメリカに行ってしまったんだ。
この春まで、ずっと放浪していたらしい。
そういう変り種が少なくないんだよ、うちは。沢井くんも、その中のひとりだ」

「サワイ? って、誰だっけ?」

首をかしげた冬香に、

「マンションの1階にあるコンビニの店長だ」

と京介が説明し、海神が頷く。

「そう。在学中から頻繁に海外の遺跡巡りをして数々の興味深い論文を書き、
将来は考古学者として活躍するだろうと期待されていたのに、
卒業間際になったとき『この町に残って商売がしたい』と言い出してね。
だから、あの場所を提供したというわけだ」

「へえ。あのねーちゃんがなあ。なんか意外」

「ところで、試験はどうだったかな?」

途端に冬香は眉を寄せた。

「たぶん、できたと思うけど、自信ねえ……」

「京介くんは?」

「まあまあです」

「うむ。それから、夏休みは? どうするつもりだい?」

「んっと、兄ちゃんたちの都合に合わせて、適当に実家に帰るかな」

「俺はマンションにいます」

「そうか。しばらく会えないが、元気でいなさい」

「おっちゃんもな」

そこに槇村がコーヒーを持って現われ、海神は腕時計に目をやった。

「さて、そろそろ時間だ。せっかく来てくれたのに、すまないね」

「ううん、いいよ、おっちゃんの顔見に来ただけだし。また9月に会おうぜ」

「ああ。ゆっくり飲んで行きなさい。―――槇村、あとを頼む」

「はい。お気をつけて」

海神は退室し、槇村はふたりの前にカップとグラスを置いた。

「あんがと。マキちゃんは、おっちゃんと一緒に行かねえの?」

「まとめなければならない書類がありますので、それを片付けてから追い掛けるつもりです」

「そっか。悪ィな、忙しいとこ邪魔しちまって」

「いいえ、とんでもありません。では、わたしは隣にいますので」

笑顔で会釈して、槇村は出て行った。

「いただきま」

コーヒーにミルクを入れてストローで掻き回し、ぐびっと飲んで、冬香が京介を見やる。

「あんがとな、さっき。おかげで、ちゅーされなくて済んだぜ」

「防げて良かった」

「うん、助かったよ。しっかし、ホント信じらんねえや。いきなりするか、ああいうコト? 会ってすぐだぞ?
どういう神経してやがんだ、一体?」

「念のため、今後も用心したほうがいい」

「だな。あんま近付かねえようにしよ」

ふたりはコーヒーを飲み終えると、隣室の槇村に声を掛け、中央玄関へ向かった。

校内は静まり返っている。まだ試験が続いているのだ。

「どうする。このまままっすぐ帰るか」

「学食寄っていいかな? ハラ減ったよ」

「ああ」

しばらくして、不意に京介が立ち止まった。洗面所の前だった。

「あ、なに? トイレ? んじゃ、オレ、ここで待ってる」

「もしなにかあったら、大声を出して俺を呼べ」

「わかってるって。心配すんな。ほら、行って来い」

京介は洗面所へ入り、冬香は廊下の窓に歩み寄って外を見た。
日差しが校庭を照らしている。もう夕方も近いというのに、まるで日中のように明るい。
しかも依然とても暑そうだ。帰るときのことを考えると、心底うんざりしてしまう。

軽く溜め息をついたとき、背後から名を呼ばれ、冬香は振り返った。


 *     *     *     *     *     *


いつもは無表情の京介が、明らかに焦燥感を顔に滲ませ、マンションへ帰りついた。
いつの間にか、もうすっかり夜になっていた。

靴を履いたまま玄関に座り込み、うなだれ、深々と息を吐く。
ちゃぺが近付いて来たけれど、その身体を撫でてやる気力もない。

探した。探し回った。
槇村のところへ戻ったのかと思って行ってみたが、理事長室にも隣室にも鍵が掛かっていた。
学食も覗いたが、無駄足だった。
廊下にあまり学生がいなかったためか、目撃者も見つからなかった。
それから1階のコンビニと、マンション付近の飲食店、駅前のほうへも行ってみたが、やはり無駄だった。
当然だろう。彼ひとりで出歩くわけがない―――出歩けるわけがない。
もちろん彼の携帯に電話を掛けたが、まったく繋がらなかった。

(どこだ……どこへ行った……どこにいる……)

京介が洗面所から出ると、冬香の姿は消えていたのだ。