CAMPUSU〈5〉




6月に入って梅雨入り宣言されると、それを待ち構えていたかのように雨の日が増えた。
しかも、例年になく湿度が高いため、異様なくらい蒸し暑い。

「うえ〜、ムシムシする〜。気持ち悪ィ〜、たまんねえ〜」

マンションから外へ出た途端、冬香は顔をしかめて文句を言った。
毎日のように不快な気候ゆえ、心底うんざりしてしまう。

「学校までの辛抱だ。ほら、行くぞ」

そう告げながら、京介が傘を開く。本日は小降りなので、相合い傘だ。

「……おめえ、ホント汗かかねえよなあ。長袖のシャツなんか着て、んな長ェ髪して、見るからに暑そうなのにさ」

「平気だと言っただろう」

「うん、聞いた。うらやましいったらねえぜ、っとに」

冬香の顔には早くも汗が浮かび、滝のように流れている。
歩き出してから、まだ3分も経っていないのに。

何日か前、「そんなに暑いのなら、タンクトップを着てハーフパンツでも穿いたらどうだ」と京介が進言したのだが、
冬香は半袖のTシャツにジーンズという服装を変えなかった。
理由は「おめえしかいねえとこなら裸でも構いやしねえけど、外じゃ腕も脚も出したくねえんだよ。
なまっちろいし、細ェし、みっともねえじゃねえか」である。
普段まったく人目など気にしないくせに、おかしなことを言うものだと思ったけれど、
そういえば身体にコンプレックスがあるのだったと思い出し、納得した京介だった。

「まだ冬のほうがマシだよなあ。着込みゃあ寒ィの凌げるじゃん。
でも、夏は素っ裸になっても暑くて、どうしようもねえ―――あ、見えてきた」

愚痴をこぼしていた冬香の表情が、いきなり明るくなる。同時に声も弾む。
店頭でソフトクリームを売っている菓子屋が目に映ったからだ。

ターッと駆けて行ってバニラをひとつ買い、ターッと戻って来て京介の傘に入り、なんとも美味しそうに食べながら歩く。
それが最近の日課になっている。

食べ終わる頃、大学に到着。
正門を通って校庭を経由し、中央玄関へ向かう。

「―――あれ……?」

冬香は目を丸くした。

あまり学生らしくない人物が立っている。
大柄で背が高く、趣味のいいスーツを着こなし、颯爽とした雰囲気を持つ男性だ。
濡れた髪や肩の水滴を片手で払い落とす仕草は、きびきびしている。

「ウッソ! なんで?」

ひとりごちつつ冬香は駆け出した。

その姿に気付いた男性が少々驚き、そして形相を崩す。
笑い皺が非常に似合う、爽やかで魅力的な笑顔だ。

彼は持っていたアタッシュケースを足元に落とし、飛びついてきた冬香を両腕でしっかりと抱き締めた。

「久し振りだな。元気だったか?」

口調は快活、声は中低音。どちらも耳に心地好い。

「うん、元気。なんでここにいんの? いつ帰って来たわけ?」

「ついさっきだ。おじさんから頼まれてた仕事があるんで、先に片付けようと思ってな。
まさか、おまえに会えるとは思っていなかったよ。運が良かった」

そんな会話をしながら軽くキスを交わし、互いの頬を交互に合わせる。

「ん? なんだか甘い香りがするな」

「ソフトクリームじゃね? さっきまで喰ってたから」

「朝から冷たいものか。相変わらず強靭な胃袋だな」

「おう。―――あ、きょおすけ、紹介するよ。早乙女 秋斗、オレの兄ちゃんだ」

近付いて来た京介に、秋斗は右手を差し出した。

「初めまして、冬野くん。いつも弟がお世話になってます」

「初めまして。こちらこそ」

握手に応じながら、3番目の兄貴かと京介は思う。

そんな彼を、秋斗は興味深そうに眺めた。

「話に聞いていた通り、本当に大きいなあ。俺が相手を見上げるなんて日本じゃ滅多にないんだけど。
2メートル弱ってとこ?」

「はい」

「やっぱりか。俺より10センチくらい高いもんな。───酒のほうは? イケる?」

「ええ、まあ」

「今度ぜひ家のほうに遊びに来てくれないか。一緒に食事して一杯やろう。秘蔵の酒があるんだ」

「ありがとうございます」

「楽しみにしているよ。それと、改めて、弟のことをよろしく頼みます」

「はい」

破顔して頷いた秋斗は、冬香に視線を移し、くしゃっと頭を撫でた。

「ゆっくり話したいが、時間がない。おじさんとの仕事を済ませたら会社に寄って、そのまま空港へ直行だ」

「え、んじゃ家に帰んねえの?」

「ああ、今回は無理だ。少しでもおまえに会えて良かったよ。元気でな」

「うん、アキちゃんも。ちゃんと喰って、ちゃんと寝なきゃダメだぞ?」

「わかってる。心配するな、体力には自信があるから。じゃあ、またな」

弟ともう一度ハグし、京介に軽く片手を振ったあと、アタッシュケースを拾い上げ、秋斗は離れていった。

その背中を見送る冬香の眼差しは、名残りを惜しむかのようだ。

「……俺たちも行こう。遅刻する」

「あ、うん」

京介に促され、冬香は歩き出した。

「ラグビーかなにか、やってたのか」

「アキちゃん? うん、アメフト。よくわかったな」

「あの身体を見れば見当がつく」

「そっか、デケェもんな。おめえにゃ敵わねえけどさ」

「ほかの兄貴たちも大きいのか」

「ううん。背は高ェけど、幅はそれほどでもねえ。
ホントあんま似てねえんだよ、3つ子っつうとビックリされるくらいだから。性格もバラバラだしな」

そんな話をしているうちに、教室に到着。

間もなく講義が始まり、そして終わり、ふたりは廊下へ出た。
そのまま中央玄関に向かう。午後まで授業がないので、いったん帰るためだ。

「えー? それって三角関係?」

「でも、冬野くん、相手の人と握手したらしいわよ?」

「じゃあ正々堂々と早乙女くんを奪い合おうってこと?」

「うわぁ、ステキな展開ねえ。萌えるわぁ」

そんな囁き声が聞こえてきて、冬香はコケそうになった。

(な、なんでンな話になるわけ……?)

とんでもない妄想だ。まったく理解できない。ある意味、恐ろしい気がする。

「きょおすけ、今の聞こえたか……?」

「ああ。相変わらず勝手に盛り上がってるようだ」

「なあ……」

中央玄関に着くと、ファン・クラブの3人組がいた。
やけに硬い表情で、なにやら話し込んでいる。

「……アイツらも、同じこと考えてんのかな?」

「きっと大差ないだろう」

「誤解だって説明したほうがいいか?」

「たぶん喜ぶとは思う」

「んじゃ、ちょっと待ってて。アイツらにゃ恩があるから」

冬香は走って行って声を掛けた。

少し驚きながらも、3人はいつものように揃って頭を下げ、礼儀正しく挨拶する。
その表情は依然、強張っている。

「あのさ、おめえらも、やっぱ三角関係とか思ってるわけ?」

冬香が問うと、3人は同時に頷いた。

「今ちょうど、その話をしてたんです……」

「早乙女さんに確認しに伺おうかどうしようか、迷ってて……」

「ほんとだったら悲しいから、聞かないほうがいいかなって……」

ぶんぶんと冬香は首を横に振った。

「違う違う。ありゃオレの兄ちゃんだから」

「え……でも、抱き合ってキスしたって……」

「そりゃ挨拶。単なる挨拶だよ」

「……ほんとですか?」

「うん、ホント。そういう挨拶なんだ、オレら兄弟は昔っから」

ぱあっと3人の顔に笑みが広がる。

「ああ、良かったあ。安心しましたあ」

「おふたりが別れちゃったら、もうどうしようかと」

「ツーショットが見られなくなったら寂しいですもん」

次いで3人は礼を告げ、

「ほかのメンバーにも知らせてきます」

と言い、嬉しそうに駆けて行った。

「ほんと良かったね。みんなも喜ぶわ」

「うん。それに、お兄さんと挨拶でキスするっていうのもオイシくない?」

「オイシイ! 倒錯っぽくてステキ!」

そんな3人の声が聞こえてきて、再びコケそうになった冬香だったが、まあいいやと思い直し、くるっと振り返る。

(―――あ……)

離れた場所に立つ京介に、女子学生が話しかけていた。
顔を赤く染めながらも必死な表情で、両手に持った封筒を差し出している。

だが、京介のほうは完全無視だ。顔をそむけ、一瞥もくれようとしない。
そして、冬香の用事が済んだのを見て取ると、すっと歩き出し、足早に彼に近付いた。

「行こう」

「え……いいのか?」

「ああ」

京介と一緒に歩きながら、冬香は後ろを振り返ろうとしたが、大きな手に頭をつかまれ、前を向かされてしまった。

「見なくていい」

「あ……うん」

その通りだ。見ても仕方ない。

(けど、あの女、どっかで会ったことあるような……)

しばし考え、思い出す。実家からマンションへ戻ったとき、コンビニの前で声を掛けてきた4人の中にいた。
「あなたが一緒だったから、冬野さん、刺されて怪我をしたんじゃありませんか」と痛いところを突いてきた女だ。

京介がひとりになるのをずっと待っていたのかもしれない。
そして、思い切って彼に接近し、話し掛け、手紙を渡そうとしたのだろう。

(けど、きょおすけってば、完全にシカトだもんなあ……。
あー、そういや、オレが初めて会ったときもあんなだったっけ。
なに言っても返事してくんねえし、オレを見なかったよなあ……)

なんだか懐かしい気がする。ほんの3ヶ月前のことなのに。

思えば、今もそうだ。
女とはもちろん、ほかの男子学生とだって、京介はまともに口を聞かない。目を合わせることもない。

(……オレだけ、か……)

きちんと視線を合わせて普通に喋るのは、自分だけ。ひとりだけ。
まるで京介を独占しているようなものだ。

(……え?……え? なんでオレ、こんなに嬉しいんだろ……?)

 理由はわからない。でも、嬉しい。ものすごく嬉しい。それだけは確かだ。