AGITATION〈7〉




息子の涙を拭いつつ、母が告げた。

「あんたが引き籠もりをやめたとき、あたしたち大喜びしたのよ? その日をずっと待ってたの。
大学生活を思い切り楽しんで、やりたいことを存分にやって、うんと幸せになってくれたら、もっともっと嬉しいわ。
3人とも、そう思ってるんだからね? 胆に銘じときなさい。いい? わかった?」

「……う、ん……」

「それから、あんた、奇妙なもの抱えてるでしょ」

冬香は目を見張った。

「か、母ちゃん、知ってっ……?」

「もちろん知ってるわ。ずっと近くにいたんだもの、わからないわけないじゃない。
カズミが残念がってたわよ? そのことをあんたが黙ってたから」

「あ……や、で、でも―――」

「『隠す気持ちはわかるけど、俺には話してほしかった』って」

「……ごめん……」

うなだれてしまう冬香である。
一臣にだけは何度か打ち明けようとした。だが、結局できなかった。

「そういう能力が元々あんたの中で眠ってて、それが目覚めたのか。あるいは、いきなり身についたのか。
どっちなのか断定できないけど、冬馬さんとあたしの死にひどいショックを受けて
精神的におかしくなったのが引き金だったことだけは、たぶん間違いないでしょうね」

「……能力、っていうようなモンなのか……?」

「れっきとした能力よ。そのおかげで、あんた、
あの晩あたしたちが“早く逃げて”って叫んだのを感知できたんだから」

「あの晩? って―――あ……」

強姦された夜のことか。

「じゃあ、あれ、ホントに母ちゃんたちの声だったんだ……」

「ええ、3人で必死に叫んだわ。
といっても喋れないから声を出したわけじゃなくて、正確には思念を送ったというべきね」

「……でも、なんで、あんときだけ? あのあとは、どうやってもサッパリ聞こえなかったのに……」

「あんたのいうシャッターが一時的に開いたからよ」

「え……一時的?」

「あのね、あんたはコントロールできるようになったと思ってるようだけど、
そう思い込んでるだけで、実は全然できてないの。いつもシャッターが閉まったままの状態なの。
開けたつもりでも、実際は開いてないのよ」

冬香が数回、瞬きを繰り返す。

「……ホ、ホントに……?」

「ええ、ほんとよ」

「っだよ、もぉ〜……」

がっかりだ。完璧に会得したと思っていたのに。

「……でも、初めの頃は、ちゃんと開いてたんだよな?」

「そうね、開きっ放しだったわね」

「だったら母ちゃん、そんときオレに話し掛けてくれりゃ良かったじゃん……」

「もちろん話し掛けたわよ、冬馬さんとふたりで散々。でも、あんた、
やたら見えたり感じたりするものに混乱してたし、消すなんていう芸当を覚えてからはそれに夢中で、
あたしたちの声が混じってたことに気付かなかったみたい。
そのうちシャッターが完全に閉じちゃったから、もう無駄だろうと思って話し掛けるのをやめたの」

「そっか……。けど、じゃあ、なんで一時的に開いたんだろ……?」

「さあ、どうしてかしら。あたしにも理由はさっぱりだわ」

ごめんね、冬香、嘘ついて。ほんとは大体の見当がついてるの。
でも、あたしからは言えない。それは筋違いだもの。
超のつく極秘事項だから、本人から直接聞くのが道理だわ。
彼が話してくれることは、ないかもしれないけれど。
―――と思った母だが、口にしなかった。

「……あのさ、オレがコントロールできるようになってシャッター開けたら、いつでも母ちゃんと話できんのかな?」

「あたしだけじゃなく、冬馬さんとカズミともね。
でも、無理よ。どうすればコントロールできるようになるか、その方法がわからないでしょ」

「あ、うん……」

「たとえできるようになったとしても、無闇に開けないほうがいいわ。
この前はあたしたちの声だけを感知したようだけど、次もそうとは限らないから。
余計なものまで見えたり感じたりして、また混乱したり、わずらわしい思いをするかもしれないもの。
それに、消すなんてことになったら、ひどく疲れちゃうでしょ。
別に困ってないんだから、もうそのまま放っときなさい」

「……うん……」

母は再び、腕の中の息子の髪を優しく撫でた。

「それより、冬香。いい相手を選んだわね。見る目あるじゃない」

「へ……?」

「冬野くんよ」

「えっ? や、あの、そりゃ、えっと―――」

「ふふ、誤魔化さなくていいわよ。あんたが彼を好きだってことは、よーく知ってるから。
二重人格っていう問題を差し引いても、お釣りが来るくらい出来た子だと思うわ。
あたしもカズミも賛成よ」

冬香は上目遣いで母を見た。

「……男同士っつうのは、問題じゃねえわけ……?」

「全然。肉体なんて魂の入れ物に過ぎないもの、性別はどうでもいいわ。
ただねえ、冬馬さんが怒ってるのよ。―――ああ、今も言ってるわ。
『強姦なんかする奴は絶対認めない。そんな男に、誰が大事な息子をやるか』ですって。
あれは冬野くん自身がやったんじゃないんだからって何度も説得したのに、ちっとも聞いてくれないの。
要するに花嫁の父親みたいな心境で、あんたを取られたくないだけなんだけどね。まるで駄々っ子だわ」

つい苦笑してしまった冬香である。

「怒ることねえよ、父ちゃん。どうせオレの片思いだから……」

「でも彼、あんたを宝物みたいに大切にしてくれてるじゃない。それだけでいいんじゃないの?」

「うん、充分……」

「キスはともかく、まさかあんなことまでするとは思わなかったわねえ。びっくりしちゃった」

カッと冬香の顔が赤くなる。

「かかか母ちゃん、みみみ見てっ……?」

「やあねえ、さっさと退散したわよ。息子の濡れ場を覗きたくなんかないもの」

そして母は口調を改め、真摯に尋ねた。

「決めたんでしょ? なにがあっても彼と一緒にいるって」

ゆえに息子も表情を引き締め、真摯に答える。

「うん、決めた」

「楽しいことばかりじゃないかもしれないわよ? 辛いことや苦しいことのほうが多いかもしれないわ。
それでも気持ちは変わらない?」

「うん、変わんねえ」

「じゃあ、がんばりなさい。後悔のないように」

「うん、がんばる」

「―――愛してるわ、冬香……」

呟くように言って息子の頬に唇を押し当て、更に彼を一度だけ力強く抱き締めてから、母は腕をほどいた。

「ここまでよ。まだ話したいことがあるけど、これ以上はもう無理ね。沢井さんの負担が大きくなるから」

「え……い、行っちまうのかっ?」

「どこにも行かないわ。あんたのそばにいるわよ、これからもずっと」

「また、またいつか話できねえのっ?」

と尋ねた瞬間、すっと泉水の瞼が閉じ、かくんと彼女の身体が脱力した。

「母ちゃんっ!」

「……っ〜……」

小さく呻いて、額に手を当て、のろのろと泉水が顔を上げる。
辛そうな表情だ。顔色もあまり良くない。

「あぁ、ふーちゃん……」

「だ、大丈夫? どっか痛ェ? 苦しい?」

「ううん、ちょっと疲れただけだから……。
あのね、ふーちゃん、申し訳ないんだけど、なにか温かい飲み物、買って来てくれないかしら……」

「わかった」

ドアを開けると近くに京介が立っていたので、彼に買い物を頼むことにする。

シートに深く背中を預け、ココアで喉を潤しながら休んだ泉水は、
しばらくして体調が元に戻ると上体を起こし、隣の冬香に笑顔を見せた。

「ごめんなさい。逆に面倒かけちゃったわね」

「や、そんなの全然いい。それよか、えっと……その、なんつうか……」

「ええ、わかってるわ。憑依されたんでしょ、あたし」

「は? ひょうい?」

「そう。珍しいことじゃないのよ。昔からよくあるの。
特に、遺跡に行ったときが多かったわ。ああいう場所は沢山いるから」

ふと冬香は思い出した。前に海神が泉水のことを
「在学中から頻繁に海外の遺跡巡りをして数々の興味深い論文を書き、
将来は考古学者として活躍するだろうと期待されていたのに、
卒業間際になったら『この町に残って商売がしたい』と言い出した」と話していたことを。

「……じゃ、ねーちゃんが考古学者になんなかったのって、そのせい?」

「え、どうして知って―――ああ、海神さんから聞いたのね。ええ、まあ、そういうこと。
段々憑依が増えてって調査や研究に支障をきたすようになっちゃったから、諦めざるを得なかったの。
海神さんにも誰にも本当の理由は言えなかったけどね。変な奴だと思われたら、いやだから」

次いで彼女は、首をひねった。

「でも、おかしいわねえ。いつもは憑依されても辛うじて自分の意識があるのに、今回は全然なかったわ。
あと、意識が飛ぶ直前“冬香と話がしたいから身体を貸してちょうだい。勝手にごめんなさい”って話し掛けられて、
意識が戻った直後には“どうもありがとう”って言われたの。
ねえ、ふーちゃん、あたしに憑依したのは誰? ふーちゃんの知ってる人なのよね?」

「オレの母ちゃん」

一瞬、泉水の表情が固まる。

「……お母さま、お亡くなりになったの?」

「うん、飛行機事故で父ちゃんと一緒に」

「そう……。あのね、しばらく前にも同じことがあったの。短いあいだだったけど意識が飛んじゃって、
やっぱり直前に“ごめんなさい”って言われて、直後には“ありがとう”って。
それも、ふーちゃんのお母さまなのかしら?」

「あー、たぶん。前に少し試させてもらった、っつってたから」

冬香は姿勢を正し、ぺこりと頭を下げた。

「ホントごめん、ねーちゃんに疲れることさせちまって」

「いいの、謝らないで。それより、お母さまとお話できたの?」

「うん、できた。すんげえ久し振り。もう嬉しくてたまんねえや。ねーちゃんのおかげだ。あんがと」

破顔した冬香を見て、ふんわりと泉水が笑む。

「じゃあ、またお母さまと話がしたくなったら、あたしに連絡ちょうだい。電話番号を教えておくから」

「え……え? や、ダメだよ、そこまで迷惑かけらんねえよ」

「迷惑じゃないわ。厄介だとしか思ってなかったことが人の役に立って、とっても嬉しいんだもの。
それに、ふーちゃんにお詫びがしたいのよ」

「詫び? なんで?」

「実は、ふーちゃんが男の子だって知ってたの。事前に海神さんから、
ものすごく綺麗な子と、まるでお人形みたいに可愛い子、ふたりの男の子がマンションに引っ越して来るから、
なにかのときにはよろしく頼むって言われてね」

冬香は目を丸くした。

「だったら、オレを女扱いしたのって……」

「からかって遊んだのよ。ふーちゃんの反応が面白くて、申し訳ないと思いながらも中々やめられなかったの。
だから、そのお詫びをさせてちょうだい」

そして泉水が、冬香の周囲をぐるりと見回す。

「そういうわけですから、ふーちゃんのお母さま、息子さんとお話したくなったら遠慮なくどうぞ。
ただ、できれば緊急の場合以外は、あたしが仕事してないときを選んでいただけると助かります」




ドアを開けて車から降りた冬香は、じゃあなと泉水に告げて閉扉して、近くに立つ京介に駆け寄って行った。

「ごめんな、すっかり待たせちまって」

「いや。沢井さんの具合は」

「大丈夫、元気んなったよ。メイク直してから、また大学に行くって」

「なら、もういいのか」

「うん、帰ろ」

京介はワゴン車に向かって会釈し、彼のシャツの裾を冬香がつかむ。
そして、ふたりはマンションを目指して歩き出した。

エレベーターに乗り込み、5階で降りて間もなく、冬香が京介にしがみつく。ぎゅうっと力一杯しがみつく。

「あの、あのさ、さっきの、母ちゃんだった。ねーちゃんの身体ん中に、母ちゃんが入ってたんだ」

「―――」

続けて冬香は、車内での出来事を正直に話した。自身の“奇妙な能力”と“シャッター”に関すること、
京介へ対する想いを母が認めて激励してくれたことは、むろん意図的に隠したが。

それを京介は黙って聞いた。

「―――あ、ねーちゃんが憑依されやすい体質で、だから考古学者になんの諦めたってこたあ、
おっちゃんにも誰にも内緒だぞ? きょおすけにだけは言っていいって許してくれたんだ」

「ああ。……お母さんと話ができて、嬉しかったか」

「そりゃもう、めちゃくちゃ、ハンパじゃなく」

「良かったな」

「うんっ」

と大きく頷いてから、不意に気付く。
喜びの余り、つい報告してしまったが、死人が他人の身体を借りて現われるなんて突拍子のない話だ。
笑い飛ばされるか、ふざけるなと怒られても仕方がない。

「……きょおすけ、信じてくれんの? マンガみてえなことなのに……」

「おまえが言うんだから、信じるに決まってる」

「―――あんがと……」

「礼はいらない。当たり前のことだ」

「そっか……」

冬香は京介の胸に、すりすりと額をこすりつけた。

できることなら祖父と兄たちと高木にも報告したいけれど、やめたほうがいいだろう。
恐らく京介と同様に信じてくれるとは思うが、泉水に会わせろと言うかもしれないし、
そうなったら彼女に面倒を掛けてしまうからだ。

だよな、母ちゃん?――――心の中で問うてみる。
ええ、それが賢明ね―――そんな返事が聞こえたような気がした。