AGITATION〈8〉
翌日―――土曜日。
朝から曇っていて空が薄暗い上、気温も低くて肌寒い。
学園祭2日目だというのに、少しばかり残念な天気である。
起床して間もなく、冬香がコンビニへ行くと言い出した。
「あのバンドのヤツに会いてえんだ。ちゃんと謝んなきゃ」
「きのうのことか」
「うん。今アイツが店にいるかどうかわかんねえけど、とにかく行ってみるわ。
ついでに朝メシも買うかな。ハラ減った。
―――あ、付き合ってくんなくていいぞ? オレひとりで平気だから。1階に下りるだけだし、すぐ済むし」
「……わかった。一応電話を持っていけ」
「おう。おめえ、なんかほしいモンある? あるなら買ってくるけど?」
「いや、ない」
「ん。じゃあな」
玄関へ向かう冬香の背中を見送り、閉扉する音が聞こえてくるのを待って、
京介は組んでいた脚をほどき、隣で横たわる愛猫の顔を覗き込んだ。
今しがた、ちゃぺが突然ぱったりとソファーに伏したのだ。
睡魔に襲われて眠ったという見方もできる。ゆえに冬香は、特に気にしなかったのだろう。
しかし、京介は違う。なにか引っ掛かるものを感じ、もしかしたらと思った。
だから冬香に同行せず、ひとり部屋に残って調べることを選んだ。
ちゃぺの身体に触れてみる。感触を確かめ、体温と呼吸の有無を確認する。
(……やっぱりか)
これで2度目。前回は6月だったので、4ヶ月振りだ。
ということは、それくらいのインターバルだと考えていいのだろうか?
時間は? どれくらいで元に戻る?
初めてのときの様子から推測すると、たぶん数時間程度のはずだが。
(なんにせよ、冬香が出掛けてくれて助かった……)
ちゃぺをこのまま専用ベッドに運んで毛布を掛ければ、眠っているように見える。
眠っているように装えば、冬香に異変を知られずに済む。
彼は睡眠中の愛猫には決して近付かず、声をかけることさえ控えるからだ。
(―――すまない……)
ちゃぺの頭をそっと撫でながら、京介は心の中で詫びた。
冬香がエレベーターで1階に降りて外へ出たとき、コンビニの前に例の青年が立っていた。
私服姿なので、仕事中ではないのだろう。
彼は冬香を見るやいなや、顔をほころばせた。
「おはようございます」
「おはよー。なにやってんだ、ここで? バイトは?」
「ついさっき終わりました。これから大学に行くんですけど、まだ少し時間あるんで、
ふーちゃんサンに会えたらいいなって思って待ってたんですよ」
「へ? ふーちゃんサン?」
「あ、すいません。店長がそう呼んでるんで、つい」
「や、別に構わねえけど。んで、オレになんか用?」
「話があるんです。聞いてもらえませんか?」
「うん、いいよ。オレもおめえに言いてえことあんだ。ちょうど良かったぜ。
じゃあ、立ち話もナンだし、あそこ座ろっか」
「はい」
コンビニの横に置かれたベンチに、ふたりは並んで腰を下ろした。
「で、なんの話だ?」
「いえ、ふーちゃんサンからお先にどうぞ」
「あー、んじゃ遠慮なく。きのう悪かったな、せっかくのライブなのに邪魔しちまって。
ホントごめん。ほかのメンバーにも申し訳なかった」
そう告げ、深々と頭を下げた冬香である。
「そんな、やめてください。謝る必要なんかありませんよ」
慌てて謝罪を遮り、次いで青年はにっこり笑った。
「俺たち、感謝してるんです。まさか“KA‐FU”のボーカルさんと共演できるなんて夢にも思ってなかったから。
4人とも大ファンなんで、感動して感激して、もう鳥肌が立ちっぱなしでした。
最高にいい思い出ができましたよ。どうもありがとうございます」
「オイオイ、んな大そうなこっちゃねえだろうが」
「俺たちにとっては大そうなことなんです。
それから、すいませんでした。無断で“KA‐FU”の曲をライブで演って」
「あ、ううん、そりゃ別にいい。自分たちが作った曲だとかウソこいたら絶対許さねえけど、
そうじゃねえってちゃんと言ってたじゃん」
「当然ですよ。ほんとはバンド名まで言うつもりだったんですけど、
すんごい緊張したせいで忘れちゃったんですよね。なんせ初ライブだったから」
と青年は苦笑した。
「でも、めちゃめちゃ驚いたなあ。ふーちゃんサンとは店で何度も会ってるのに、
“KA‐FU”のボーカルさんだなんて全然気付きませんでした。
数え切れないくらいCD聴いたし、ライブにも通いつめたんですけどね」
「まあ、あんときゃ学校にバレちゃマズイってんで、カツラかぶってメイクしてステージに上がってたからさ」
「とってもカッコ良かったです。だから俺も音楽やりたいと思って、
でも声があんまり出なくてボーカルは向いてないから、一番手近だったギターを始めたんです。
それから作曲するようになって、ひとりで弾いてるだけじゃ物足りなくなって、高校1年のとき友達と今のバンド組みました。
中々ライブやる度胸が持てなくて、ずっとスタジオに籠もってばっかりだったけど、
大学に入ったら絶対やろうって4人で決めてたんです」
「そっか」
楽しそうに喋る青年を見て、冬香も楽しい気分だった。
自分たちの音楽活動が他人に影響を与えているとは考えもしなかったが、そういう話を聞くと嬉しくなる。
きっと一臣も喜んでいるだろう。
「あの、ふーちゃんサンは今どこかのバンドで歌うとか、ソロでやったりとかしてるんですか?」
「ううん、全然」
途端に青年は身を乗り出した。
「だったら、うちのバンドに入ってくれませんか? 申し訳ないくらい下手くそだけど、一生懸命練習します。
ふーちゃんサンの足を引っ張らないよう精一杯がんばります。だから―――」
「ごめん。ムリ。もう歌えねえんだよオレ」
「きのう歌ったじゃないですか」
「ありゃカズミの作った曲だからさ」
「って、“KA‐FU”のギターさん?」
こくんと冬香は頷いた。
「おめえらがあの曲を完コピしてたから、なんつうか、その、引っ張られたってのかなあ?
無意識のうちにステージに走ってってマイク握っちまったってわけだ。
歌い終わったあと我に返って、動揺しまくりだったぜ」
「……でも、歌ってるとき、気持ち良かったんじゃないですか?」
「さあ? 憶えてねえから、わかんねえ」
「とっても気持ち良さそうでしたよ?」
「そう見えたんなら、そうかもな。
けど、オレぁカズミの曲じゃなきゃ歌えねえし、カズミが一緒じゃなきゃ歌う気もねえんだ」
「……あの、カズミさんは今、ほかのバンドにいるんですか?」
「ううん」
いつもオレの近くにいるらしいよ―――とは、さすがに言えないので、冬香は空を指差した。
その意味を理解し、青年が眉を寄せる。
「じゃ、“KA‐FU”が解散したのって……」
「うん、そういうこと。―――おめえの話って、それ?」
「あ、はい」
「なら、終わりだな」
冬香が立ち上がると、青年も起立した。
「もうひとつ、言わせてもらっていいですか?」
「いいよ。なに?」
「ふーちゃんサンは絶対に歌うべきです。いい声してるし、ものすごく声量あるし、とってもステージ映えする人なんだから」
「あは……。うん、あんがと。―――じゃあな。バンドがんばれ」
「はい、ありがとうございます」
軽く手を振って青年と別れ、冬香はコンビニの中へ入った。
弁当や惣菜、菓子、飲み物などをカゴに入れてレジ・カウンターへ持って行き、会計をしているとき、
壁のカレンダーが目についた。10月分だけでなく、11月および12月の分も貼ってある。
ふと気付けば、今年も残すところ2ヶ月半余りだ。
年内の大きな行事というと、12月に行なわれる試験くらいか。
前回の反省を踏まえ、慌てないようにして臨みたい。
11月は、特になにも―――いや、ある。大事なイベントが。
「ただいまー」
冬香が帰宅すると、京介は脚を組んでソファーに座り、本を読んでいた。
「おかえり。あの彼に会えたのか」
「うん、店にいたよ」
冬香は買い物袋ふたつをリビングのテーブルに置き、京介の隣に腰掛け、青年とのことを報告した。
もったいない、というのが京介の率直な感想だ。
あれだけ歌えるのだから、やめたままなのは実に惜しい。ある意味、宝の持ち腐れといえる。
しかし、それは冬香個人の問題であり、もうやらないと当人が決めた以上、他人が口を挟むべきではない。
ゆえに、黙って話を聞くだけにした。
「ところでさ、来月、おめえの誕生日だよな?」
「ああ、そういえば」
「なにがいい? ほしいもんプレゼントするぞ?」
「いらない。その気持ちだけ、もらっておく」
「や、でも、そんじゃあさぁ」
「本当にいいから。気持ちだけで充分だ」
「うーん……」
不満そうな表情で買い物袋を広げる冬香を、京介は横目で見下ろした。
おまえがほしい―――
そう告げたら、この子は一体どんな反応をするだろう?
驚きの余り、硬直して黙り込んでしまうか。あるいは、恥ずかしいことを言うなと怒り出すか。
どちらにせよ、きっと耳まで真っ赤になるに違いない。その様子は、この上なく可愛らしいはずだ。
いや、妄想はこれくらいでやめておこう。
それより、伝えなければならないことがある。少し早いけれど、いい機会だ。
「冬香」
「んー?」
「来月に入ったら、俺は実家に帰る」
「え」
「約3週間の予定だ。20日頃に戻って来る」
何度か瞬きしてから、冬香が尋ねた。
「えっと、大学は? 休むわけ?」
「ああ。おまえはどうする。俺がいないあいだ、ひとりで学校へ通って授業を受けられるか」
「うーん、できっかなあ……?」
「無理なら、おまえも実家に帰ったらどうだ」
「あ、それ、いいかも」
そのほうが京介も安心するだろう、と冬香は思う。
「じゃあ、そうするわ。実家でゴロゴロして、ワンコと遊ぶ」
「ちゃぺを頼んでいいか」
「うん、もちろん。おめえ、なんか用事があって帰んだろ? んじゃオレが自分ちに連れてって面倒みるさ」
と笑顔を見せた冬香だった。
京介と3週間も離れ離れになるのは、正直いって、ものすごく寂しい。
けれど、このマンションに住み始めてから彼が実家に帰るのは初めてで、つまり久し振りに両親に会うということだ。
せっかくの機会だから、できる限り長く一緒に過ごしてほしいし、ほんの少しでも親子の関係が好転してほしい。
そうなったら嬉しい。とてもとても嬉しい。
そのためには、寂しいのなんて辛抱しなければ。がんばって耐えよう。
「あと、これが一番気掛かりなんだが」
そんなふうに切り出し、京介が問う。
「夜、ひとりで大丈夫か」
「へ?」
「夢にうなされずに眠れるか、ということだ」
「あー、どうだろお? わかんねえや、ひとりで寝てみなきゃ。―――でも……」
頬杖をついて瞼を伏せた冬香は、しばし考え込み、そして言葉をつないだ。
「えっと、カズミはオレを恨んでねえって、むしろ逆だってことがわかったけど、
そんでもオレぁ自分を許せねえんだ。それとこれとは話が別だから。
たぶん一生、死ぬまで―――や、死んでも許せねえな、きっと。
たださ、前みてえに重苦しい気持ちじゃなくなったっつうか、ちょっと軽くなったっつうか、
ちょっと楽になったっつうか……そんな感じがするんだよな」
それに加え、自分は人並みの生活を送ってはいけないとか、誰かを好きになる資格なんてないとか、
ろくでなしだとか人でなしだとか、そういう考えが薄らいだような感じもする。
我ながら現金だと思うけれど。
「だから、大丈夫かもしんねえぞ? ひとりで寝ても、うなされなくて済むかもしんねえ。
まあ、もしダメでも、なんとか我慢するさ」
「すまない」
「よせよ、おめえのせいじゃねえじゃん。―――あ……っ」
いきなり目を見開き、次いで冬香は京介を軽く睨んだ。
「もしかして、おめえ、もっと早く実家に帰りたかったんじゃねえの?
なのに、オレをひとりにしとけねえからってんで先延ばしに―――」
「いや、それはない。元々11月の予定だった」
「ホントに?」
「ああ。海神さんに訊いてみろ。あの人には前もって言ってある」
「そっか。なら、いいんだけどさ」
次いで冬香は、袋から次々と品物を出してテーブルに並べた。
「さ、メシにしようぜ。ちゃぺのおやつも買ってきたんだ。見たことねえのが置いてあってさ。新発売みてえ。
……あれ? そういや、ちゃぺは? どこ?」
「寒そうだったからベッドに運んで毛布を掛けたら、そのまま眠ったようだ」
「あー、ホント寒ィもんな、きょう。んじゃ、あとで喰わすか」
窓の外では、徐々に雲が消えてなくなり、少しずつ明るくなっていった。
それに伴い、気温も上昇していく。
ちゃぺがベッドから出て来たのは、そろそろ日が暮れようとしていた頃のこと。
普段と変わらない様子で、新商品のおやつを美味しそうに食べた。