EARLY DAYS〈1〉




ふと目が覚めた。まだ真夜中だ。室内には暗闇と静寂が満ちている。

束の間、冬香は自分が今どこにいるのか理解できなかった。
枕もベッドも使い慣れたものではなく、いつもと違う感触だったからだ。

だが、すぐに思い出す。海神が用意してくれた部屋に引っ越したことを。
そうだ。寿司の夕食を終えたあと、アクション映画のDVDを観て過ごし、それからコンビニへ行って夜食を買い、
それを食べながらテレビのバラエティ番組を眺め、12時近くになった頃に交替で入浴したのだ。

京介は夕食後、またソファーに横臥して読書を続け、風呂のあと自室へ入って行った。
スコッチ・ウイスキーと氷の入ったグラスを手にしていたので、寝酒かと訊いたら、
就寝前に軽く飲むのが日課だという答えだった。

彼に次いで入浴を済ませ、まだ髪は完全に乾いていなかったが構わず布団に潜り込んだ。
寝付きはいいほうで、すぐ眠りに落ちた。熟睡していたと思う。
なのに、急に目覚めてしまった。なにかに刺激されたからだ。
いやな汗をかいてパジャマが少し湿っぽくなっているのは、そのせいだろう。

(なんで……?)

コントロールできるようになったはずだった。
例えるなら、しっかりシャッターを閉め、なにがあっても誰が来ても決して開けられないよう頑丈な鍵をかける、とでもいえばいいのか。
最初の頃は施錠するどころかシャッターを下ろす術すら全然わからなくて、いつも全開にしているような状態だったが、後年は違う。
なんとか自力で方法を会得し、意識しなくても常に閉じていられるようになった。もちろん眠っているときでもだ。

しかし、刺激された。つまり、それほど強い、ということなのだろう。
今も感じる。閉めたシャッターをぐいぐい押してくる。このままでは突き破られてしまうかもしれない。

(ったく、もう……)

できることなら、関わりたくない。無視して眠ってしまいたい。
けれど、これではとても安眠できない。即行で排除しなければ。

場所を探す必要はなかった。クローゼットのほうから絶えず
それ(・・)を感じる。
正確には、その奥の奥―――京介の私室だ。

(大丈夫かな、アイツ……)

普通の人間なら問題ないはずだが、今回の場合いかんせん強すぎる。

それ(・・)の影響を多少なりとも受け、具合が悪くなったりしているかもしれない。

念のため様子を見に行こうと思い、冬香はベッドから出た。
枕元の薄い照明を頼りに急いで歩き、隣の部屋へ向かう。
隣室の扉の前に着くと、
それ(・・)は更に強くなった。ちょっと手強そうだ。

ひとつ大きく息を吸って吐いてから、

「おい、入るぞ」

と一応声をかけ、ドアノブを回す。

開扉した瞬間、とっさに冬香は両腕で顔をかばった。
いきなり凄まじい勢いで炎が襲い掛かってきたからである。

(なっ……!?)

錯覚かと思ったが、違った。
腕の隙間から窺うと、確かに紅蓮の炎が充満し、轟音まで響き渡っている。
まるで室内が燃え盛っているような光景だ。

だが、まったく熱くない。ただ、ものすごい圧力がある。
足に力を入れ、腰を据えて踏ん張っていないと、押し戻されてしまいそうなくらい。
その上、神々しさと禍々しさを混ぜ合わせたような、そんな奇妙な感じもする。

(な、なにっ……!? なんだよ、これっ……!?)

わからない。知らない。こんなのは初めてだ。見たことがない。

いや、それよりも―――

(アイツはっ……!?)

いた。ベッドの上だ。大きな身体をふたつに折り曲げ、突っ伏している。
上半身だけ裸の背中に汗を浮かべ、小刻みに震えている。ひどく苦しんでいる。

「きょおすけっ!!」

たまらず叫び、そばに駆け寄ろうとしたが、できない。
圧力に邪魔され、ちっとも前へ進めないのだ。完全に力負けしてしまっている。

(くそっ……!!)

まず、この炎みたいなものを消さなければ。
でも、自分にできるのだろうか? 
こんなに異様で圧倒的なチカラを持つ正体不明のものを消し去るなんて、とても無理なのではないか?

(―――えっ……!?)

冬香は突然、目を見張った。
京介の全身から炎が噴き出したように見え、長い髪が宙に舞い、彼の呻き声が聞こえたような気がしたからだ。

全然わけがわからないけれど、彼の苦しみが増したことだけはよくわかる。
まるで感情を表に出さない男が呻くくらいなのだから、相当の苦痛のはず。

その途端、迷いはなくなった。一気に集中し、強く強く念じる。

退()け―――――――――――――――――――――――――っっ!!)







ゆっくり瞼を持ち上げると、薄闇の向こうに天井が見えた。

「―――っ!?」

思わずパチッと目を開け、ガバッと飛び起き、キョロキョロと周囲を見渡す。
自分の部屋だった。ベッドの中にいる。布団に寝ている。

(あ……あれ……? なんで……?)

冬香は首をかしげた。

(……オレ、隣に行って、炎みてえなモンと出くわした、よな……?)

そうだ、間違いない。だから、あれを排除したのだ、渾身のチカラで。
現に、独特の疲労感が残っている。この疲れが証拠ともいえる。

うまく消せたかどうかはわからない。まったく憶えていない。
思いきりやったので、精も根も使い果たし、そのまま気を失ってしまったのかもしれない。

(―――あっ! きょおすけっ! どうなったんだっ?)

冬香は急いでベッドから出て、自室のドアを開けた。

眩しい。窓から陽光が入り、リビング全体を明るく照らしている。
いつの間にか、もうすっかり朝だ。きょうも雲ひとつない快晴らしい。

窓のそばに、京介が立っていた。ちょうどカーテンを開けたところだった。
彼も寝起きなのか、部屋着のゆったりしたズボンしか身につけていない。

その裸の上半身は、この世のものとは思えないほど美麗だ。
人類に対して平等なはずの神が、なんの気まぐれか、ただひとりだけを寵愛して理想的に造り上げ、現世に送り出した人間、
といっても決して過言ではないだろう。
広い肩も、厚い胸も、見事に引き締まった腹も、適量の筋肉をまとった腕も、まさに人体美の極致である。
透白の肌もまた驚異的に美しい。

冬香は完全に見惚れてしまっていた。
無理もない。同性の目をも釘付けにしてしまうくらい魅力的な肉体が目前にあるのだから、至極当然のことだ。

しかし、間もなくハッと我に返り、

(い、いけね。見惚れてる場合じゃねえって。しっかりしろよオレ)

と己れを叱りつけ、慌てて京介に駆け寄る。

「大丈夫かっ? まだ苦しいっ? どっか痛ェとこはっ?」

「なんの話だ」

「ゆうべのことだよっ。すんげえ苦しんでたじゃんっ」

「誰が」

「おめえに決まってんだろうがっ」

「そんな憶えはない」

「えっ?」

「夢でも見たのか」

冬香は目を丸くした。

(夢?―――あれが?)

でも、だったら、この疲労感は?

(……もしかして、夢と現実がごっちゃになっちまった、のかな……?)

夢の中で
あれ(・・)を感じ、現実で排除するためのチカラを使った、ということなのだろうか? 
だから実際に疲れが残っている、と?
その可能性はある。だが、違うような気もする。

(だって、あんな生々しいのが夢だなんて―――あ……)

いや、待て。とにかく京介がなんともないのなら、それでいい。
なにより、これ以上しつこく追求したら墓穴を掘りかねない。
逆に問われると説明に困ってしまう。本当のことなんか言えないし、言いたくもない。

「……あー、うん、そうかも。ごめん、忘れてくれ。悪かったな」

小さく苦笑して、冬香は話を打ち切った。

「ところでさ、おめえ、寝るときゃいつも上だけ裸なのか?」

「ああ」

「冬でも? 寒くねえ?」

「別に」

「そっか」

そういうことなら、今後、朝と夜は要注意だ。なるべく見ないようにしよう。
こんな男らしい裸体を目の当たりにしていたら、コンプレックスが刺激されてたまらない。
いやでも己れの貧弱さを痛感してしまう。

「そういや、おめえ、顔は? もう洗った?」

「いや」

「んじゃ、じゃんけん」

つまり、洗面所を使う順番を決めようということだ。
昨夜の入浴する順番も同様の方法で決めた。じゃんけんを提案したのは冬香だった。

「最初はグーはいらねえぞ。めんどくせえから」

「ゆうべ聞いた」

「憶えてんならいいんだ。
んじゃ、じゃーんけーんポン! あーいこーでしょ! しょ!
―――うっわ、また負けかよ〜。連敗たあ情けねえなあ、っとに〜」

交替で洗顔と歯磨きを済ませたあと、京介は自室で髭を剃ってから部屋着のシャツを羽織り、
冬香はパジャマを脱ぎ捨て、コバルト・ブルーのトレーナーと黒いストレート・ジーンズ、やまぶき色のカーディガンを着込んだ。

ちなみに、冬香の日課に髭剃りはない。元々体毛が薄く、髭というより濃い産毛というべきものしか生えないので、
週に一度くらいの処理で事足りるのだ。それもまた彼のコンプレックスになっている。