CAMPUSU〈1〉




ゴールデン・ウィークが終わり、授業が再開される日の朝。
京介を起こさないよう、そっとベッドから出た冬香は、静かに身支度を済ませ、玄関へ向かった。
まだ大学に行く時間ではないのだが、もう出掛けるつもりだ。
ちなみに、教科書と筆記用具は校内にあるレンタル・ロッカーに入れているため、手荷物はない。

しゃがんでスニーカーの紐を結んでいると、ちゃぺがやって来た。

「あ、おはよ。いつもんとこにエサ用意しといたからな。いっぱい喰えよ?」

小声で言って立ち上がり、ドアノブに手を掛ける。
そのとき、

「どこへ行く」

背後から美声が飛んできた。

一瞬、硬直してしまった冬香だが、背を向けたまま、なんとか口を開く。

「あの、さ。もう、いいから……オレ、ひとりで大丈夫だから。
ひとりで大学に行けるし、教室の場所も覚えたし、ナンパされてもケンカしねえで逃げるよ。
だから、もう付き合ってくんなくていいから。別々に行動しよ。
あんがとな、今まで。―――んじゃ、先行くわ」

急いでドアを開け、飛び出した。
エレベーターに駆け込み、階下へ下りる。

京介の顔は見なかった。見ることができなかった。
見たら、きっと決心が鈍ってしまっただろう。なにも言えなかっただろう。

これでいい。これが一番いい。

そもそも、京介に甘え過ぎていたのだ。
彼には彼の生活があるのに、それを犠牲にさせてしまっていた。本当に申し訳なかった。
考えてみれば、元に戻っただけのことだ。
当初は、行動を共にするつもりなど、これっぽっちもなかったのだから。

(……うん、平気。なんとかなるよ、ひとりでも―――や、なんとかしなきゃ)

よし、がんばろう! と決意したのも束の間、
すでにもう道に迷っていることに気付き、冬香は頭を抱えそうになった。

(うえぇ〜、なんてこったい……いくらなんでも早過ぎだろ、オイ……)

大学に入って1ヶ月。その間、何度も通った道のりだ。
けれど、いつも京介にくっついて歩いていただけだったので、まるで覚えていない。
さっぱり記憶にない。思い出そうにも思い出せない。

(……ま、しゃあねえやな。誰かに訊こう。そのほうが確実で早ェや)

幸い、結構な人通りがある。ちょうど出勤時間だ。
それに、海神大は同じ町内にあるのだから、きっと通行人の大半が場所を知っているだろう。

誰に声をかけようかと思いながら周囲を見回すと、見知った顔があった。すぐ視界に飛び込んできた。
どんな人混みの中にいても、非常に目立つ。その長身も長髪も美貌も、ほかに持つ者などいない。

(……オレを追っ掛けて来たのか―――きょおすけ……)

だが、彼は近付いて来ようとしない。
数メートル離れたところにいて、軽く顎で方向を示し、そして歩き出す。こっちだ、来い、と告げるように。

冬香は唇を咬み締め、あとについて行った。複雑な気持ちだった。




「……ねえ、あのふたり、どうしたの? ずっと離れて動いてるけど」

「朝から別々だったみたいよ。今まであんなにベッタリだったのにね」

「喧嘩でもしたのかな? やっぱり、あれのせいか?」

「ああ、連休前の一件?」

「よその男が小さいほうの子に言い寄ってフラれて刺そうとしたところを、大きい彼がかばって怪我したんだっけ?」

「うん、そう聞いた。そのせいでギクシャクしちゃってんのかも」

そんな周りの雑音を聞き流しながら、冬香は学食を出て、校庭へ向かった。

常に視界に入るところに京介がいる。ある程度の距離を保ち、それ以上は決して接近してこない。
迷って悩むと、必ず仕草で誘導してくれる。ありがたいことだ。正直、助かる。
でも、これではなんの意味もない。

あぐらをかいて芝生の上に座り、冬香は深々と息を吐いた。

(参っちまうなあ、もお……どうすりゃいいんだろ……?)

「こんにちは、早乙女さん」

声をかけられたので顔を上げると、ファン・クラブの3人組がいた。

「あー久し振り。元気だった?」

「はい、とっても。あの、お怪我のほう、大丈夫ですか?」

「うん、もう平気」

と冬香は、絆創膏を貼ってある両手をぷらぷら振った。
そして、10メートルほど離れた場所に目を向ける。そこでは京介が本を顔に乗せ、横たわっている。

「アイツも大丈夫。順調に治ってっから」

「そうですか。良かったあ」

胸に手を当て、ほっと吐息した彼女たちは、
次いで互いを見やり、意を決したように頷き合って、その場に一斉に腰を下ろした。

「あの、どうしてきょうは冬野さんとご一緒じゃないんですか?」

「喧嘩なさったんじゃないですよね?」

「きょうだけなんでしょ? すぐ元に戻りますよね?」

至極真剣な表情で問われ、冬香は苦笑してしまった。

(そういや、コイツらにとっちゃ理想のカップルなんだったなあ……)

様々な「好き」があるものだと、つくづく思う。

「えっと、別にケンカとかしたわけじゃなくて……独立ってことかな、つまり」

「独立?」

3人は同時に首をひねった。

「うん、そう。オレ、どこ行っても迷子んなるし、ナンパされるたんび相手ブッ飛ばすから、
きょおすけが一緒にいてくれたんだけど、いつまでもそれじゃ良くねえからさ。
だから、きょおすけから独立しようと思って」

「……あの、じゃあ、元に戻らないんですか?」

「今は冬野さんが近くにいますけど、そのうちいなくなるってことですか?」

「このまま離れちゃうんですか?」

冬香が大きく頷くと、揃って目を見開いた3人は、
次いで肩を落としたり、悲しそうな眼差しを見せたり、俯いたりして、

「そうですか……わかりました……」

「そういうことなら、仕方ありませんよね……」

「いきなり押し掛けちゃって、すいませんでした……」

口々に言いながら立ち上がり、とぼとぼと去って行った。

そして彼女たちが向かったのは、噴水のある池だ。
そこには数十人の女子学生がいて、「どうだった?」とか「なんて言ってた?」などと質問攻めにする。
間もなく、「えーっ!? 嘘ーっ!」、「ほんとにーっ!?」、「そんなのイヤーッ!」と悲鳴に近い声が次々と上がり、
やがて誰かが「じゃあ、あたしたち終わり? 解散なの?」と訊くと
「解散なんか絶対しないわ! ふたりがいる限り続けるわよ!」と力強く宣言。
歓声が沸いたところで、次の授業の開始5分前を知らせる予鈴が鳴り響き、彼女たちは慌てて校内へ入って行った。

(……もしかして、あれ、ファン・クラブのメンバーなのか……?)

さすがに驚いた冬香だ。まさか近くで待機しているとは思わなかった。

いや、そんな場合ではない。自分も教室へ急行しなければ。

(……あれ? なんの授業だっけ? どこの教室だ?)

きょうの1、2限目はきちんと憶えていて、滞りなく講義を受けられたが、次がわからない。思い出せない。

冬香は京介を見た。依然、顔に本を乗せ、横たわっている。
ということは、次の授業はないのだろう。

(あ、なんだ、そっか……)

思えば、そのあたりも京介に任せ切りだった。
すべて彼が完璧に記憶しているので、訊けば即座に答えてくれたし、あとについて行くだけで良かった。
なにからなにまで頼っていたのだと、今更ながら痛感する。

(……ホントにひとりでやってけんのかな、オレ……)

不安が募り、弱気になってしまう。
それに、思いのほか、つまらない。京介が一緒にいないのは面白くない。

(―――や、だから、やんなきゃダメなんだってば! ひとりでちゃんと!)

冬香は芝生に大の字に転がり、青い空を睨みつけ、ひとつ深呼吸した。

(大丈夫、なんとかなる、なんとかできる、心配すんな、問題ねえ―――)

そんなことを何度も繰り返し自分に言い聞かせているうちに、眠ってしまったらしい。緊張感の欠片もない。




どやどやと大勢の学生が校舎から出て来た物音を遠くに聞きながら、冬香は目を覚ました。
どうやら講義が終わったようだ。

京介を見ると、ちょうど立ち上がったところだった。

(あ、次は授業があんだな。んじゃオレも―――や、その前にトイレ)

洗面所は校舎内の随所にあるので、そんなに探し回る必要はないだろう。すぐに見つかるはずだ。

冬香は起き上がり、服についた芝を両手で払いつつ急ぎ足で歩き出した。




洗面所へ入って行く冬香を確認し、京介は廊下の窓際で待つことにした。
自然に薄い溜め息がこぼれた。

今朝の宣言に驚かなかったといえば嘘になる。まさかあんなことを言い出すとは予想もしていなかった。
だが、冬香が自力でやろうとしているのなら、その意思を尊重したい。
なんだか我が子の巣立ちを見守る親のような気分だ。

とはいえ、やはり心配であとを追って来てみれば、案の定だった。
そばに行って教えたら彼のやる気に水を注してしまうかもしれないと考え、離れたところから誘導することにした。

しかし、なぜ突然あのようなことを口にしたのか。

面倒を掛けて申し訳ないという気持ちを冬香が抱いていたことは知っている。
けれど、それより心配させられるほうが迷惑だと納得させたはずだ。

思えば、おとといから様子がおかしかった。
実家から帰って来て以降、始終ぼんやりしていた。食事の量と回数も減った。
本人に訊いても、別にどうもしないと答えるだけだった。
強引に聞き出すべきだったかもしれない。

ふと気付くと、予鈴が鳴っている。
次の授業へ急ぐ学生たちが、こぞって廊下を走って行く。

だが、冬香はまだ出て来ない。
腹具合でも悪いのだろうかと思い、京介は更に待った。
やがて本鈴が鳴り、校内が静まり返る。それでも、まだ出て来ない。

さすがに待っていられなくなって、京介は洗面所へ急行した。
ドアを開け、中を見渡した瞬間、かすかに美顔が険しくなる。 

そこには誰の姿もなかった。