CAMPUS〈1〉




海神学院大学の入学式は、毎年4月の第2土曜日、午後12時より、
敷地内に建つ最も大きい多目的ホールを使って行なわれるのが恒例だ。

数日前から準備が始められ、当日には立派なパーティ会場と化す。
そして、校舎内にある学生食堂の厨房で調理人たちが腕をふるって様々な料理を作り、
それを大勢の給仕係が飲み物と共に会場へ運び込む。
主役の新入生の大半が未成年者であるため、飲み物はソフト・ドリンク限定だ。

12時ちょうどに、会場の隅に置かれたマイクの前に海神が立ち、理事長としての挨拶をした。
といっても、決して堅苦しい内容ではなく、また非常に短い。
最後に乾杯の音頭で締め、そのままパーティに移行する。来賓の挨拶や祝辞などは皆無だ。
受験で大変な思いをした新入生とその保護者の労をねぎらいたい、ゆっくり楽しんでほしい、
という海神の意向によるものである。

静かなBGMが流れる中、談笑する声が会場の随所から次々と上がり始めた。
初めは緊張気味で無口だった参加者たちだが、次第に雰囲気に慣れ、
好きなものを飲んだり食べたりしながら話に花を咲かせたり、記念撮影をしたりしている。
見知らぬ者同士も自然に言葉を交わし、他愛のない会話を楽しんでいる。

その会場の一角に、異質な者がふたり、いた。
ひとりはライト・グレーのコットン・シャツに色褪せたジーンズというラフな服装で、
もうひとりも白いトレーナーに鮮やかなイエローグリーンのオーバーオールという格好だ。
ほかの参加者が揃って正装をしているため、ひどく浮く。
それでも場違いな印象が微塵もないのは、共に抜群の容姿を有しているからだろう。

もちろん、京介と冬香である。

正装が義務付けられているわけではない。
むしろ逆で、気楽な服装で来てほしいという旨を海神は参加者に通達している。
しかし、仮にも入学式ゆえ、誰もが相応に着飾って来るのは致し方ないといえる。
普段着で現われたのは、ふたりが史上初めてだった。

「誰? やっぱり新入生? でも……」

「うん、どう見ても中学生だよな」

「すんごく可愛いけど」

「どこの国の人かしら? ヨーロッパあたり?」

「顔も髪も綺麗よねえ。びっくりしちゃった」

そんな周囲の声にも、集中する視線にも構わず、
京介は黙ってミネラル・ウォーターを飲み、傍らの冬香はテーブルの上の料理を片っ端から平らげていく。
どのような場所にいても、いつもとなんら変わらない彼等である。

そこへ、ひとりの男性が近付いて来た。
海神の秘書・槇村
(とおる)だ。
ほっそりした身体と清潔感あふれる清々しい風貌のため、とても若く見えるものの、実はもう40代。
また、お人好しそうな顔立ちに似合わず、仕事に関しては正確無比の遣り手で、海神から絶大な信頼を得ている。
秘書としてのキャリアは、すでに20年近くに及ぶ。

「こんにちは。おふたり揃っていらしたんですね。良かった」

人懐こい笑顔を見せ、やわらかな口調で告げた。

「あー、マキちゃん。久し振りー」

いつものように冬香は槇村と軽くハグし、京介は握手を交わした。

「うん、来たよ。おっちゃんから電話あって、なるべく出ろって言われちまったからな。
めんどくせえなあって思ってたけど、来て良かったぜ。飲みモンも喰いモンも、すげえうめえや」

「それはなによりです。たくさん召し上がってください。―――理事長にはお会いになりましたか?」

「うん、ここ来る前にバッタリ。忙しそうでロクに話もできなかったけど」

「式の直前なら仕方ありませんね」

「マキちゃんも忙しいんだろ?」

「いいえ。開始前までは大変でしたが、今はそれほどでもありません」

そのとき、給仕係のひとりが槇村を呼びに来た。なにかを耳元で囁く。

「すみません、これで失礼します。ゆっくりお話できなくて残念ですが」

「うん、ホント残念。けど、しゃあねえや。また今度ゆっくりな」

「はい」

ふたりに会釈して、槇村は足早に去って行った。

「あれ? そういや、おめえ、マキちゃんのこたぁ知ってるわけ?」

「去年、初めて会った」

「そっか。オレぁガキん頃から知ってっけど、ちっとも変わんねえや。
昔っから今のまんま。年喰ってねえんじゃねえかと思うぜ、ホント」

そして冬香は再びテーブルに手を伸ばし、京介はグラスに口をつけた。

しばらくして、海神がやって来た。
冒頭に挨拶したあと、会場の中を歩き回りながら参加者ひとりひとりに声をかけていたのだ。

「やあ、楽しんでいるかい?」

「おう、まあな。でも、もう帰りてえよ」

「おやおや」

「おっちゃんとマキちゃんに会えたし、喰いてえだけ喰ったしさ」

そして冬香は、帰ってもいいか? と問うように美顔を見上げ、京介は浅く頷いた。
ごく自然な無言の遣り取りだった。

それを見て、海神が目を細める。親密度が増した、と感じる。

「おっちゃん、いいかな?」

「ああ、構わないよ。気をつけてね」

「うん。んじゃ、またな」

冬香は軽く手を振り、京介は一礼を残し、その場から離れた。

ふたりを見送ってから、海神はまた歩き始める。
談笑しながら一通り回ったあと、会場の外に用意された喫煙所へ行き、タバコに火をつけた。
誰もいない静かな空間に、ゆらりと煙が舞う。

その横の通路を通り掛かった槇村が海神に気付き、歩み寄った。

「一服ですか」

「ああ。どこへ行っていたんだい? なにかあったのか?」

「ええ、厨房でちょっと。ですが、大丈夫です。すぐ片付きました」

「そうか、ご苦労さま。ところで、ふたりに会ったそうだね」

「はい」

「きみはどう感じたかな? 正直に言ってくれないか」

槇村は海神に向き直り、自分より頭半分ほど背の高い上司を見据えた。

「では、正直に。───とても驚きました。
京介さんの雰囲気が以前ほど冷たくなくなっていましたから。約1ヶ月前にお会いしたときとは別人のようです。
冬香さんのほうもずいぶん変わりました。刺々しさがなくなって、まろやかになったような印象を受けます。目つきが特に」

「うむ。そう感じるのは、わたしだけではないということだな」

「と思います。望ましい傾向ですね」

「まったくだ」

ふたりの事情を槇村は知っている。
だが、表のことだけだ。裏の事情までは知らない。
海神は教えていない。口外しないという約束を守っている。

「もしまた彼等の変化に気付いたら教えてくれないか」

「わかりました。それで、おふたりは?」

「帰ったよ」

「もうですか? 早いですね」

「この場の雰囲気を少しでも味わってくれれば充分だ。
あとになって、やはり出席すれば良かったと後悔するようなことだけは避けさせたかったからね」

海神がタバコを消し、軽く吐息した。

「さて、戻るとしよう」

「あ、ちょっと待ってください」

「うん?」

槇村はスーツの内ポケットからアトマイザーを取り出し、海神の胸元に軽く吹き掛けた。
さっぱりした香りのオーデコロンである。

「タバコの匂いをつけたままでは、まずいでしょう」

「ああ、そうだね。うっかりしていた。さすがに疲れているようだ」

「お察しします」

「すまない。きみには世話をかけるな」

「なにを今更」

「細かいところまで気が回る有能な秘書で実に助かるよ」

「上司に鍛えられましたからね」

そんなことを笑顔で話しながら、ふたりは会場へ向かった。




一方、外へ出た京介と冬香は、そのまま帰路に就いていた。

午前中は晴れていたのに、今は曇っている。少し空が暗い。

「家族に見せる写真とか撮らなくて良かったのか」

「うん、いい。オレが写真嫌ェなの、みんな知ってんもん。
おめえこそいいのかよ? なんだったら、これから戻って門の前あたりで撮ろうか?」

「いや。俺も嫌いだ」

「そっか。んじゃ、さっさと帰ろうぜ。ちゃぺと遊びてえや」


 *    *    *     *     *     *     *


入学式の翌週、ふたりの大学生としての生活が始まった。
選択科目は同じものを選び、月曜日から金曜日まで常に構内で行動を共にできるようにした。
京介は冬香から目を離したくなかったし、冬香は京介がいないと迷子になってしまうので、至極当然のことである。

クラブや同好会などには入らなかった。
熱心に誘う者が多数いたが、ふたりとも関心がなかったため、すべて断わったのだ。

授業に関しては、冬香が青くなった。講義を聴いても、なにがなんだかさっぱりわからない。
この大学に入れたのは奇跡だったのか? と思ったほどだ。
しかし、京介が根気良く丁寧に教えてくれたので、なんとか理解することができた。
またしても彼のありがたみを痛感した次第である。

ふたりにとっては、まあまあ穏やかな日々だった。平和といえた。

ただ、ひとつだけ、冬香に不満がある。構内の男子用トイレが皆、ドア付きの個室だということだ。
便器が並んでいるだけの造りなら堂々と人前で小用を済ませ、自分は男なのだとアピールできるのに、個室ではそうはいかない。
おかげでトイレへ入るたびに驚かれ、女子用が混んでいるから男子用へ来たのだろうと思われてしまう。
勘弁してくれ、だった。