AGITATION〈1〉




枕元の目覚まし時計が鳴り出したので、京介は仰臥したまま片腕だけを伸ばし、手探りで止めた。

隣の冬香が、もぞもぞと動き始める。
そして、のろのろと起き上がるが、まだ瞼が半分しか開いていない。かなり眠そうだ。

「おはよ……」

消え入りそうな声で言って上体を傾け、冬香は美顔の唇にキスを落とした。
そういう挨拶をするのが、もうすっかり習慣になっている。

キスに応えてから、京介がオレンジ色の髪をくしゃりと撫でた。

「おはよう。すごい寝癖だ。シャワーを浴びるか」

「ん……浴びる……」

冬香を脇に抱えて浴室へ運んだ京介は、歯磨きと洗顔のあとに髭を剃って着替えてから、
コーヒーメーカーに豆を入れ、ちゃぺのエサと水を補充した。

やがて、全裸の冬香がリビングに現われる。やっと目が覚めたらしく、すっきりした表情だ。

彼はバスタオルで髪を拭きながら京介に歩み寄り、

「おはよー」

と長身に抱きついて、キスをねだる仕草を見せた。
寝惚けていたため、寝起きの行動が記憶に残っていないのである。

もう済ませたとは言わず、京介は腰を折り曲げ、それに応じた。

「おはよう。服を着てこい」

「うん」

食事中の愛猫にもキスをしてから個室へ入って行った冬香は、
間もなくTシャツにジーンズという服装で出て来て、キッチン・カウンターの椅子に座る。

その隣に京介が腰掛け、ふたりでコーヒーを飲んだ。

「ドライヤーを使わなかったのか」

「あ、うん、めんどくせえもん。ほっときゃ、そのうち乾くよ」

「けっこう伸びたな」

「だなあ。ここに引っ越して来る前に切ったっきり、ほったらかしだから」

まだ濡れている髪を、冬香は片手で無造作に掻き上げた。

「そろそろ切ろうかって、何度かシノちゃんからメール来たんだけどさ」

「シノ?」

「うん、アキちゃんの友達の美容師。オレがガキんときから、ずっと切ってくれてんの。
髪が伸びた頃になると決まって連絡くれるし、実家まで切りに来てくれて、すげえ面倒見いいんだ。腕もいいな。
んで、引っ越し先まで出張するって言ってくれたんだけど、シノちゃんの店も家もちょっと遠いみてえなんだよ。
だから悪ィと思って、気軽に頼めなくてさ」

「その店はどこにある」

「えーっと、しろかね? つったかな?」

「城鐘か」

確かに少し遠い。ここからだと車で1時間半くらい掛かる。

「なら、こっちから出向いたらどうだ」

「うぇ? 行けるわけねえじゃん、オレひとりで。場所もよく知らねえのに」

「おまえをひとりで行かせるわけないだろう。もちろん俺が付き合う。
場所は、その人に詳しく教えてもらえばいい」

「あー……ホント遠いらしいぞ?」

「わかってる。今更遠慮なんかするな」

「あは……。うん、あんがと。んじゃ、あとでシノちゃんに電話してみるわ」

不意に冬香は思い出した。この部屋で迎えた最初の朝のことを。
あのときも髪の話になり、なぜそんなに長く伸ばしているのかと京介に尋ねたら、願掛けという答えだった。

(きょおすけの願いって、自分の中にいる別のヤツが消えること、なのかな……?
消す方法がねえから、願掛けに頼るしかねえってこと……?)

そもそも、二重人格というのが一体どういうものなのか、さっぱりわからない。
けれど、ほかの人間に身体を乗っ取られて好き勝手に使われるのは、
とても歯がゆくて腹立たしくて、屈辱的かつ気色悪いことなのではないだろうかと思う。

あの日以降、いろいろ考えた。
ほんの少しでも京介の気持ちを楽にすることはできないかと、思考を巡らせた。
でも、なにも思いつかなかった。

(やっぱオレにできんのは、きょおすけが必要だって、きょおすけじゃなきゃダメなんだって、
言葉とか態度で素直に示すことだけだよなあ……)

そうすれば、彼は己れに対する評価を変えてくれるかもしれない。
価値がないなどと思わなくなってくれるかもしれない。
こんなことくらいしかできないのが、なんだか無性に情けないけれど……

「―――冬香」

「え? あ、なんか言った?」

「腹は空いてるかと訊いたんだ」

「ううん。まだ、そんなには減ってねえ」

「1限目が終われば時間ができる。それまで待てるか」

「うん。んじゃ、そんとき学食で朝メシにしよう」

「ああ」

コーヒーを飲み干し、ふたりは立ち上がった。

すると、ちゃぺが食後の毛づくろいを中断して走り寄って来て、ひどく悲しそうに鳴いた。
自分だけ残されることを理解しているらしい。
夏休みのあいだ、ほとんど共に過ごしたため、その寂しさは余計に大きいようだ。

「ごめんな、ひとりにして。おめえを大学に連れてくわけにゃいかねえんだよ。
なるべく早く帰って来るからさ。留守番、頼むぞ?」

「にゃー……」

冬香は愛猫をきゅうっと抱き締め、その小さな身体を床に下ろした。
後ろ髪を引かれる思いだが、こればかりはどうしようもなかった。




「ねえねえ、ウインターズ見たっ?」

「見た見たっ。なんか親密度が一気に増したみたいっ」

「そうそうっ。早乙女さんてば冬野さんのシャツの裾を握って歩いてて、全っ然放さないのっ。
冬野さんは早乙女さんのことが気になって仕方ないって感じで、しょっちゅう見てたしっ」

「うんうんっ。それに、学食じゃふたり並んで座ってたって聞いたよっ?
前はいつも向かい合って座ってたのにっ」

「あと、早乙女さん、なんだか綺麗になったと思わないっ?」

「思う〜っ。冬野さんも益々美人になったわっ」

「夏休みのあいだに絶対なにかあったよねっ」

「やっぱり、ついにデキちゃったのかしらっ?」

「そうよ、そうに決まってるじゃないっ。夏休みが終わって1週間も大学に来なかったのだって、
きっと離れ難くてイチャイチャしてたんだわっ」

「きゃ〜っ、ステキ〜ッ! 萌える〜っ!」

とファン・クラブの女子たちが異様に盛り上がる一方、不快感を露にして非難する学生も少数いたが、
どんな声を小耳に挟んでも当人たちはまったく意に介さなかった。
毎度の如く、勝手にしろ、という気分である。




「おっちゃーん、いるかー?」

ノックしたあと、冬香が理事長室のドアを開けると、
海神が窓のそばに立ってタバコを吸い、槇村がテーブルの上のカップを片付けていた。

「やあ、ふたりとも、久し振りだね」

と老紳士は笑顔で迎え、優秀な秘書は微笑を浮かべて一礼した。

「おっちゃんの顔見に来たんだけど、大丈夫? 邪魔していい?」

「もちろんだ。さあ、入って掛けなさい。たった今、ファン・クラブの子たちが帰って行ったところだよ」

「へえ、そっか」

冬香は海神とハグして頬を合わせ、次に槇村とも同じ挨拶を交わしてからソファーに座り、
京介は頭を下げたあと、ごく自然に冬香の隣に腰を下ろした。

なるほど、と海神は思う。ファン・クラブの学生たちから様々な話を聞かされたが、確かにその通りだ。
冬香の顔つきが妙に大人びて、可愛らしさが美麗へ移行し、色香まで漂っているような印象を受ける。
京介のほうは一段と落ち着き払い、更に美貌に磨きがかかったような。
それに加え、ふたりの雰囲気が濃密になったというべきか。
これでは「まるで恋人同士そのものだった」と評されるのも至極当然だ。

なにかあったのかもしれない。夏季休暇のあいだに、ふたりの心境に影響を及ぼすような大きな出来事が。
恐らく悪いことではないだろう。そうでなければ、こんなふうには変わらないはずだ。
特に冬香は、なんでもそのまま顔や態度にはっきり出る性分だから。

そう考え、満足感を得た海神だが、突然ひとつの思いが湧き上がってきた。

―――まさか、本当に恋愛関係になった、とか?

いいや、それはない、と即座に否定する。
ふたりとも同性愛の嗜好は持っていない。ストレートのはずだ。
だから、そんな関係になりようがない。

「おっちゃん? どうかした?」

冬香に問われ、海神は顔をほころばせた。

「いいや、別に。ところで、おチビさん、もう具合はいいのかい?」

「うん、すっかり。っつうか、休んだ1週間の最後のほうはサボリみてえなもんだったけどな。
朝早く起きんのがツラくて、学校に来んのも面倒でさ」

「おやおや。まあ、元気になったのなら結構だ」

そこに、いったん退室していた槇村がコーヒーを持って戻って来た。
そしてテーブルにカップを置き、ふたりに会釈して再び出て行く。

海神はタバコを消してから革張りの椅子に座り、改めてふたりを見やった。

「きょうの授業は? もう終わりかい?」

「うん、終わり。久し振りのせいか、なんか妙に疲れちまったよ」

と冬香が答え、首をほぐすように左右に揺らした。

「んで、これから城鐘に行ってくる。髪、切りに」

「城鐘?―――ああ、そういえば秋斗くんの友人の美容院があるのだったね」

「そ。さっき電話したら、予約入ってなくてヒマだから来いって」

「だったら、槇村の車に乗って行きなさい。
ちょうど同じ方面に用事があって、これから出掛けるところだから」

「あ、ホント? そりゃ助かるわ」

「京介くんも一緒に行くのかい?」

「はい」

その返答に軽く頷いた海神は、
次いで机上のインターフォンを使い、ふたりを城鐘まで送るよう槇村に伝えた。

「マキちゃん、すぐ行くのかな?」

「いいや、もう少しあとだ。コーヒーを飲むくらいの時間はあるよ」

「そっか。んじゃ、いただきま」

「いただきます」

コーヒーを啜りながら雑談していると、やがて槇村が迎えに来たので、
ふたりは海神に挨拶を残して理事長室から出た。

駐車場へ向かって先に槇村が歩き、ふたりが並んで続く。
冬香は京介のシャツの裾をしっかりと握り締め、京介は冬香の様子を頻繁に窺っている。
いつの間にか、外へ出るときは必ずそうするようになった。
挨拶のキスと同様、今ではもう習慣と化していることだ。

途中、辰巳を見掛けた。数人の女子学生と談笑しながら歩いていた。

「あ、ヘンタイヤロー」

思わず呟いた冬香の言葉に、槇村が小さく笑う。

「早くも人気者なんですよ。講義が理解しやすくて面白い上、他愛のない話をしても楽しいそうで。
とりわけ女性の受けが大変いいみたいですね」

「へえ。だから、あんなふうに女に囲まれてるってわけか」

「ええ。もう珍しい光景ではありません」

「ふうん」

あの日以来、冬香は辰巳に会っていない。マンションでも、その付近でも、まったく遭遇しなかった。

(……あ。そういや、アイツに世話んなったこと、きょおすけに話してねえや)

訊かれなかったので、それきりになっていた。完全に失念していた。

やはり一応言ったほうがいいだろうと思ったので、城鐘の駅前に着いて車から降り、槇村と別れてから、
あの日のことを包み隠さず京介に報告した。

それを聞いた彼の眉が一瞬だけ、ぴくりと揺れる。
その微量の反応を冬香は見逃さなかった。

「あ、や、心配いらねえから。別に変なこととかされたわけじゃなくて、ただ休ませてくれただけだし」

「……そうか」

「あんとき、急にオレがいなくなっちまったから、おめえ、あちこち長ェこと探しまくってくれたんだよな?
ごめん、面倒かけて。って、すげえ遅くなっちまった。すぐ言わなきゃなんなかったのに」

「謝らなくていい」

「次は外に行かねえようにするよ。部屋ん中で逃げ回るだけにする。
……って約束はできねえけど。そうしようと思って外に出たんじゃねえからさ」

「そんな約束もしなくていい。どこへ逃げたって構わない。捜しに行く」

「そっか? んじゃ、そうしてくれ」

「ああ。―――行こう。そっちの方向だ」

冬香がシャツの裾をつかむのを待って、京介は歩き出した。

我ながら滑稽だと思う。冬香をひどい目に遭わせたくせに、彩家辰巳と接触したことを知った途端、
不愉快になるなんて。そんな資格がどこにある?
しかし、これが嫉妬というものなのだろうか? なんとも厄介な感情だ。

5分ほど歩いた頃、赤い看板のあるビルが見えてきた。

「もしかして、あれか?」

「ああ、あの3階だ」

ふたりはビルの中へ入り、エレベーターに乗った。